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005 ル・コルビュジエ「ペサックの集合住宅」

島根への記念ドライブ最終日の5/29は、生憎の雨模様のなか松江城を見学する。
ランチは、宍道湖畔名物「鯛茶漬け」を堪能し、一路広島までの帰路につく。

だが、ここで事件勃発。
ナビの最短距離ルートを選択したのが原因で「秘境県道112号線」に分け入ってしまった。
江津市境付近から邑智郡邑南町へ抜ける暗い峠路。路面は小枝と小石が散乱し、離合はいっさいきかない。
獣以外走る気配のない山間の綴れ道。一瞬、山岳遭難した悪いシナリオが脳裏をよぎるも、なんとか走破して浜田道へ抜ける。
あのニュルで鍛えられ愛車86だからこそ突破できた峠道か。





それはさておき、フランスにあるル・コルビュジエの「ペサックの集合住宅」をみてみよう。


ペサックの集合住宅 (Cité Frugès, Pessac, 1924) は、ボルドー近郊のペサックに実現した集合住宅である。
シテ・フリュジェ (Cité Frugès) やフリュジェ近代街区 (Quartiers Modernes Frugès) などとも呼ばれる。





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1924年に、製糖工場の経営者であり、ル・コルビュジエの著作『建築をめざして』に共感していたアンリ・フリュジェの要請で建設された。




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フリュジェは工場労働者向けの住宅を多く建てることを望み、ル・コルビュジエはその建設に当たってシトロアン住宅の理念などにも通底していたテイラー主義的様式を適用した。


箱型住宅は、側面上部に突き出た階段がアクセントとなっている。
それは幾何学的デザインに人の動きを暗示する要素を加えて外観の変化を生み出そうとする試みであり、ル・コルビュジエの初期の構想にしばしば見られるものである。





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ル・コルビュジエはスケッチなどに箱型住宅が並ぶ都市景観を描くことがあったが、ペサックの集合住宅はそれを実現させた稀有な例である。
もっとも、ペサックには当初135戸が建設される予定だったが、実際には46戸にとどまった。






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景観に対する保守的な考えを持つ人々の干渉があったことや、現地の業者を起用しないことによる摩擦などによって、水道がなかなか整備されないなどのトラブルがあったのである。
また、ル・コルビュジエのこだわりによって建設費も大きく跳ね上がり、労働者住宅としては不適切な入居費になるなどして、実際に労働者が住む住宅街になるのには、賃料について配慮したルシュール法(1929年)の成立を待つ必要があった。






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人が実際に住むようになると、住民たちによってボルドー一帯に特有の屋根などを付け加えようとする動きも多年にわたって続いたが、現在は当初の姿に復元されている。


2009年の推薦時には「規格住宅」に分類されていた。








☆☆☆やんジーのつぶやき
ル・コルビュジエの著作『建築をめざして』は、学生時代に手にした難解な建築書であった。
「住宅は住むための機械」という言葉もその当時、俄かに理解できなかった。
「平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動も立体も脈絡もない」
さらに、「芸術は通俗的な装飾であってはならない、贅沢な情婦であってはならない、芸術は本来高貴なものだ」と語る。
コルビュジエは芸術について熱く語りながら、その言葉と矛盾するかのような工業への憧憬を抱いた。
このアンビバレンツな姿勢こそ<芸術>と<工業>、<美>と<機能>という二重性を抱える建築を体現したのである。



























































by my8686 | 2016-05-29 08:06 | 挑発する建築&空間 | Trackback | Comments(0)