久しぶりにゲハルト・リヒターのアート作品をみていると、ZAZという素描シリーズが目にとまった。
この素描を見ていると、マイルス・デイヴィスのハーマン・ミュートが脳裏に響いてきた。
マイルスを聴き始めたのは、学生であった1970年代。ファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと進展し、ブームとなりつつあったフュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開した。
マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。最初に学生寮の部屋で聴いたのが「ジャック・ジョンソン」だった。
マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行った。
公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。
1972年に発表された公式アルバムである『オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作であった。
しかし、フュージョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。
1973年と1975年に来日。1975年の広島ライブ公演には、仕事を終えるや会場に向けて、猛ダッシュで飛び出した思い出がある。会場は、岩国基地の米兵たちと思われる黒人たちが沢山屯し、異様な雰囲気だった。
公演はなかなか始まらず、どうやらマイルスの体調と機嫌が悪化したのか、演奏の途中でステージを降りてしまう異例のハプニングエンドだった。それでも興奮覚めやらぬファンたちのアンコールとブーイングがない交ぜとなり、一時会場は騒然となりかけた。
帝王マイルスの異名どうりのスリリングな幕引きであった。そんな貴重なシーンに遭遇できたことを、今では自分の記憶遺産となっている。
この頃から健康状態も悪化し、75年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となった。
1967年頃マイルスはブルースが大好きでマディーウォーターズ、BBキングのボイシングをどう取り入れようかと考えていたという。
そしてジミ・ヘンドリックスやプリンス、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーンを高く評価していた話はよく知られているが、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わり、プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、今も未発表のままとなっている。
ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。
この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。
また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのカバーも収録している。
☆☆☆やんジーのつぶやき
ゲハルト・リヒターといえば、抽象画「アプストラクテス・ビルト(809-4)」が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札されたことに官能が沸騰した。
マイルスもまた、2枚組のアルバム「Bitches Brew」の先進性に官能が沸騰してしまった。
あの時代のあの熱さが、今また甦る。