写真家篠山紀信が次ぎのように語っている。
「東日本大震災の直後、被災地に行くことにものすごく迷いがあった。行かなくちゃ、と思いながらも、僕のカメラで捉えられるのか、写真家として何ができるのか―。それを、N.C誌が背中を押してくれた。結果として宮城県の被災地を4回訪れて、『ATOKATA』という写真集にまとめた」。
「でも、常に原発のことが心の隅にあった。写真家として震災を捉えた時、原発の問題は素通りできない。だけど、津波の被災地に行くより怖かった。自分に何ができるのかと。それでも、今度は躊躇しなかった」。
固体廃棄物貯蔵庫の建設現場、35m盤高台、凍土遮水壁のプラント建屋、H4タンクエリア、5号機原子炉建屋の格納容器内部――。
撮影が早い篠山氏が、16年12月26日の撮影では予定を大幅に超過しながら、発電所内をくまなく巡った。
しかし、その後の打ち合わせで、篠山の表情はどこか不満げだった。16年12月26日の撮影では、現場で働く人の姿がまばらだったからだ。年末の、しかも午後に下見を兼ねて撮影したのが理由だ。
「やっぱり人だよな」。
篠山のこの言葉で、17年1月27日の撮影方針が決まった。
同日の撮影では、工事や作業が集中する早朝から動き始めるために、午前2時に東京を出発する気合いの入れよう。午前8時には撮影を始めた。「とても1940年生まれとは思えない」などと言うと篠山氏に叱られそうだが、そのエネルギーには毎度圧倒される。
2回の撮影を経て、篠山は次のように語っている。
「ものすごく時間を掛けて、最終的にどうするんですかと東京電力の人に聞くと、『元に戻す』と。何もかも、事故前の状態に戻すことなんてできやしない。それでも現場で働く人たちは、住んでいた人に帰ってきてもらいたい、生活できる環境に戻したい一心でやっているんだ。すごく尊くて、やりがいのある仕事なんじゃないかと思う」。
「未来に向かって、計り知れない長い時間を掛けて、それでも止めることなく続ける。そんな現場に触れた。すごい写真、ドラマチックな写真を撮ろうという思いはなかった。僕は、これから何年掛かるか分からない膨大な時間の中のある一コマに立ち会ったにすぎない。その気持ちを込めて、僕は撮った」。
☆☆☆やんジーのつぶやき
学生時代に手にした篠山紀信集・NUDE (1970) - 「死の谷」「TWINS」に官能が沸騰した。
その記憶が今も艶めかしく残像として残っている。
その後の女形・玉三郎 (1972)、スター106人 (1973)、晴れた日 (1975)、家 (1975)、決闘写真論(共著中平卓馬)(1977)へと続くタイトルに激動する時代観を垣間見てきた。
さらに、建築行脚(共著磯崎新)(1980-1992)、ヴェニス、光と影 (1980)へと続く建築シリーズの深奥で粘ついた時代の翳りを横目で見てきた。
今回の「福島第一原発」に何を観るか、興味つきない。