「自由の象徴、上海の書店閉店」を読み解く

寒波もひと段落した感のある月曜日。このまま、春に近づいてくれればよい。
昨夕は、次男の縁談の朗報の余韻を噛みしめながら、市内にあるお気に入りの温泉に入り、その後、夕餉をいただく。


さて今朝は、中国・上海に20年間続いた書店「季風書園」が閉店したニュースを読み解いてみよう。



1月31日夜、中国・上海の書店「季風書園」は、歌声に包まれていた。



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Do you hear the people sing?(人々の歌が聞こえるか?)
Singing a song of angry men?(怒れる者の歌が聞こえるか?)


ミュージカル「レ・ミゼラブル」で苦しい暮らしを強いられる民衆が歌う曲だ。店を埋めた約500人の客たちが声を合わせた。




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この数時間後、店は20年続いた営業を終えた。民主主義に関する本が充実していた。中国社会の問題を議論するサロンも名物で、上海文化の「象徴」と呼ばれた。

しかし、当局の圧力でサロンの中止が増え、店の賃貸契約更新は拒否された。新たに受け入れてくれる場所は、上海にはもうなかった。

2012年に発足した習近平指導部の下、言論の引き締めが強まる中国。多様な考え方を認め合ってきた文化の発信地が、街から姿を消した。




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「季風書園」がその歴史を閉じた日、多くの客たちが最後を見届けようと店にやって来た。上海市の会社員女性(26)は「別れを惜しむ人たちが次々とやって来て、ギターを弾いて歌ったり、踊ったり。まさに送別会だった」と話す。

女性は前日の30日夜も店を訪れた。人が集まり始めたころ、突然原因不明の停電が発生。客たちはスマートフォンのライトや、ろうそくの火で本を読み、語り合ったと言い、「暗闇に星々が光っているようだった」という。




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店が週末ごとに開いた「サロン」では政治制度をテーマにした討論によく参加した。
「前は政治には関心がなかったけど、本を読み、議論するのが楽しくなった。真理とは、自由とは何か、いろんな意見が飛び交う雰囲気が大好きだった」と話す。

閉店から2日後、店の入り口にはシャッターが下ろされ、店員たちが片づけに追われていた。

「今の心境は、店の本棚と同じ。空っぽで空虚な気持ちでいっぱいです」。がらんとした店内を見渡しながら、経営者はつぶやいた。


上海に季風書園が生まれたのは、1997年4月。
シンクタンク「上海社会科学院」で哲学や中国近代思想史を研究していた厳搏非が創設。
当時の中国は、92年のトウ小平氏の「南巡講話」を受けて改革・開放路線が加速していった時代。開店の年の7月には香港返還もあった。



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店の運営理念は「文化の独立、自由な思想の表現」。哲学や民主主義に関する本や、中国の貧困問題や労働問題を取り上げた本が充実していた。

学者や作家が読者と共に社会の様々な問題を議論するサロンには、若者から高齢者まで、多くの読者が参加した。

店は「独立書店」、「自由の風」と呼ばれるようになり、評判を聞きつけた客が全国各地から訪れた。40平方メートルでスタートした小さな店は、開店から10年後の2007年には上海市内に8店舗を構える「上海文化のランドマーク」となった。

だが、08年に1号店が閉店。地価の高騰により賃料は開店当時の10倍になり、インターネット通販や電子書籍の浸透で、店の売り上げは激減。経営は厳しく、10年、11年と1店1店閉店が続いた。

企業家でもある于氏が経営を引き継いだのは、12年。学生時代からの常連で、店の危機を救おうと手を挙げた。

その年の秋、北京で中国共産党大会が開かれ、習近平氏が共産党トップの総書記に就いた。習指導部は国家の秩序維持を重視し、言論の引き締めを強めた。

13年春、人権などの普遍的価値や、報道の自由といった内容を授業で禁じる「七不講(七つの語るべからず)」が各地の大学に通知され、17年6月にはネット上の言論統制を強化する「インターネット安全法」が施行。

「ネット上で誤った主張を流した」などとして、知識人が大学や職場から追われることも増えた。




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季風書園でも、当局によってサロンの開催が取りやめになることが徐々に増え、客足が遠のいた。最後に残った上海図書館地下の店も昨年1月、賃貸契約の延長を図書館に断られ、閉店を余儀なくされた。

「店を引き継いでからの日々は、多様な文化を抑制しようとする社会の圧力の強まりを感じる時間だった。季風書園が消えた根源的な理由は、賃料の問題でも本離れの影響でもなく、こうした社会の空気が背景にある」と于さんは話す。

それでも、経営を引き継いでからの5年間で店のサロンやイベントに参加した人は延べ10万人に上る。

「店は消えたが、店に来た一人ひとりの人生の中で、店の精神はずっと生き続けるはずだ」

「季風は永遠に私の心の中にある」「自由の風に感謝」……。閉店を迎えた時、店の壁には客が貼ったメッセージカードが幾層にも重なっていた。




■習近平指導部の下で強まる言論統制

<2012年11月> 習氏、党総書記に就任


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<2013年1月> 中国紙「南方週末」の新年特別号が当局の指示で改ざんされる。自由や平等を巡る文言を削除



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<春> 人権などの普遍的価値や報道の自由といった7項目を授業で禁じる「七不講」を各地の大学に通知



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<2016年7月> 改革派の月刊誌「炎黄春秋」が当局の圧力を受け、解任された社長が「停刊声明」



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<2017年6月> ネット上の言論統制を強化する「インターネット安全法」が施行











☆☆☆GGのつぶやき
「インターネット安全法」などという馬鹿げた政策がまかりとうる中国の今に、かつての不安が甦る。13億人を超えた国民を統治するには、やはり必要なことなのであろうか。
かつて、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動し政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争を思いおこす。
その残像が今ふたたび甦る。






























































































 




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# by my8686 | 2018-02-19 10:11 | ヘビーな話は、謹んで | Trackback | Comments(0)

「Ideation」を読み解く

久しぶりに晴れ間の見える日曜の朝。太陽の日差しが心地よい。



今日もフッサールを読み解いてみよう。


フッサールが説いた「Ideation」。
イデアチオン Ideation(理念視・理念看取)は、「本質直観」における意識のありかたである。




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中期のフッサールは、経験的なモノゴトに対置される本質と、それらの連関を純粋に記述することを現象学の根本的な課題とした。
それを可能にするのが「本質直観」である。






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本質直観は、モノゴトの普遍的な本質を直観的に把握する認識である。
本質直観という認識における意識の統握様式がイデアチオンである。






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イデアチオンによってモノゴトの個別的な要素は考慮されず、個体性に代えてむしろ普遍性が構成されることになる。






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イデアチオンによって個別的なもののうちに普遍的なものを直観的に把握し、その表象を反復しながら概念をめざす志向の同一性を確認することが可能になる。






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これは認識の可能性のための前提となる。

後期のフッサールは、主観的・相対的な生活世界を主題し、生活世界における経験により把握される類型的概念と、数学的自然科学によって把握される理念的概念との区別を強調する。






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そして、イデアチオンにもとづいて自然を精密に一義的に規定する自然科学の方法を批判的な意味合いをこめて「理念化 Idealisierung」と呼び、科学と生活世界の関係を考察した。





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理念化は「理念的」な対象をつくりだす「純粋な思惟」の働きである。






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☆☆☆GGのつぶやき
フッサールを段階的にその断片を読み解いてみる。
「知覚」とりわけ「見る」ことと「見られたもの」としての「形」――「見る」ことによる「エイドス」の認識。
この図式が「直観」という概念を介して横滑りし、「理性」による「本質」の認識という図式となる。
「見る → 知覚、直観 → イデアチオン・本質直観、理念化」。
リヒターの「二重化した仮象」が拡散されて行く。






















































































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# by my8686 | 2018-02-18 11:08 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「フッサールの言葉」を読み解く

今週は、リヒターの絵画を通して、さまざまな事象と現象を観察してきた。
その観察を通して感じるのは、フッサール自身の言葉の重さである。

土曜休日の朝は、あらためて、その「フッサールの言葉」を読み解いてみよう。




 
認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。
しかも認識には認識される客観が対立しているのである。




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ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?
認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?






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自然的思考にとっては、認識客観が認識の中に与えられていることは自明的であったが、しかしいまはこの所与性が謎になるのである。







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自然的思考とは、我々の日常的な態度(フッサールはこれを自然的態度と呼ぶ)に基づいて成立する世界観を指す。
具体的には、自然科学・実証科学の世界像がイメージできよう。






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自然科学では、対象を区別したり分類したり、あるいは総合したりすることで、それまでの原理が再確認され、より深められていく。
その際、その対象が存在しているという前提を取っている。
これはつまり、たとえば物質の化学反応について研究するときに、その物質がそもそも存在しているのかと疑うことはない。

対象がそこに存在していることは、自然的態度においては初めから明らかであって、それを疑っても何も始まらない。
我々は「この対象は幻にすぎない」と考えて生きているわけでも、学問的にそれを扱っているわけでもない。






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だが、認識のあり方そのものに目を向けるとき、我々はひとつの「謎」に突き当たる。



個人の体験だけが、これらの思考作用だけがあるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在している。
すなわち一般に認識に対立する客観として措定されるであろう何かが存在していることを、認識者たる我々はいったいどこから知るのであろうか。
またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろうか?





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我々が何かを認識するとき、その認識は、ただ自分のうちで生じている主観的なものでしかない。
我々は、自分の意識から抜け出て、その「何か」を直接に確かめることはできない。





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にもかかわらず、我々はその「何か」が存在していることを知っている。
これは一体どのようにしてか。どのような根拠でそうなっているのか。
認識そのものを捉え直すとき、こうした問題が解きがたい「謎」として現れてくる、






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品には、「仮象の仮象」、「二重化した仮象」、「真理の仮象(輝き)」に強く魅かれる。
「ヘーゲル理解」、「真理のシャイン」、「芸術の二義性」を経て「フッサール現象学」にまで至るリヒターの画歴。
その深淵さに、あらためて驚愕する。これからも、ますます、目が離せまい。
マイルスの音歴を辿りながら、読み解いていきたい。
















































































































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# by my8686 | 2018-02-17 09:23 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Gerhard Richterを鑑賞しつつ「dynamic equilibrium」を読み解く

高度な絵画技術で多様なスタイルを同時期に並行させながら、一貫して「絵画の可能性」を追求し続けるリヒター。

それらの作品は彼が生きてきた時代背景をかいま見せるとともに、時空を超えてつながり合い、新たな地平へと我々を導く。



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 「鏡は、より完璧な絵画である」




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リヒターは、写真と絵画、現実と幻影、具象的なものと抽象的なものといった境界に立ち、同時にそのどちらをも超えて、絵画の根底にある「見るという行為」の意味について我々に問いかけてくる。

リヒターの芸術は、膨大な作品をどのように組み合わせて展示するかにより、万華鏡のようにその表情を変化させる。

観察する側も制作された年代順に、あるいはテーマ別、スタイル別、サイズ別・・・等々、作品の性格に着目しつつ鑑賞の仕方に多様性をもたせることで、無辺の可能性が生まれてくる。





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リヒターの作品の見え方には、「仮象の仮象」、「二重化した仮象」、「真理の仮象(輝き)」、「ヘーゲル理解」、「真理のシャイン」、「芸術の二義性」を経て「フッサール現象学」にまで至る。


さらに、その思考を 「動的平衡」の観点で読み解いてみよう。


動的平衡 (dynamic equilibrium)とは、物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。

系と外界とはやはり平衡状態にあるか、または完全に隔離されている(孤立系)かである。
なお、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、という言い方もできる。




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これにより他の分野でも動的平衡という言葉が拡大解釈されて使われるが、意味は正確には異なる。


可逆反応で、正反応と逆反応の速度が同じ場合には動的平衡となり、反応系を構成する各物質の濃度は変化しない(化学平衡)。

また密閉容器の中に水と空気を入れておき、水蒸気が飽和蒸気圧に達すると、水の蒸発速度と水蒸気の凝縮速度が等しくなり、動的平衡に達する(相平衡)。





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熱平衡でも、実際には熱エネルギーはすべての方向へ全く同じように伝わっている、つまり動的平衡状態と考えることができる。

これらの例を構成する互いに反対の「流れ」は、一般にそのままでは観測することができない。
ただし対象によっては分子を個別または定量的に見る方法で観測が可能である。一般には系を平衡からわずかにずらして、平衡に戻る過程を観察すれば流れとして観測できる。





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さらに、応用:平衡定数と速度定数の関係で読み解いてみよう。


一般の化学反応は非平衡過程であるから熱力学で記述できず、時間変化を扱う反応速度論の範疇にある。

しかし可逆反応による動的平衡状態では熱力学と反応速度論の両方が適用でき、それぞれに基づく概念である平衡定数と速度定数との関係式を導くことができる。




可逆反応

A + B ↔ C + D
を考えると、正反応速度は

v+ = k+[A][B]
逆反応速度は

v− = k−[C][D]
となる。

ただし k+, k− はそれぞれ正反応、逆反応の速度定数で、[ ] は各成分の濃度(または分圧、活量)を表す。

動的平衡状態では両反応の速度が等しく
v+ = v−
となるので


k+[A][B] = k−[C][D]
平衡定数Kは


K = [C][D] / [A][B]
であるから、


K = k+ / k−
という関係式が導かれる。これは酸・塩基の解離平衡や生体高分子などの会合・解離にも適用できる。





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動的平衡という用語は、分野によっては、むしろ物理用語でいうところの「定常状態」を使うべき場合もある。

「定常状態」とは、系が平衡状態にない外界と接している場合にのみ起こり、流れがあるが時間変化が見られない、すなわち系への出・入の速度が等しい状況をいう。






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たとえば、経済において、資本のフローが一定であれば、安定した市場が成立する。

また、生物の出生率と死亡率が同じ場合、個体数は変化しない。このように、経済学・生態学・人口学でも、本来とは少し異なる意味で、動的平衡という言葉が使われている。






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「ミクロに見ると常に変化しているが、マクロに見ると変化しない」という点では、これらを動的平衡のアナロジーとして理解できる。
しかし、これらは物理的な意味での動的平衡ではなく、外界は平衡状態にない。

そして、資本の出入り、生物の生死や物質の出入は、系外との流れとして直接観測できる。したがって、これらは定常状態と見るのが適切である。





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☆☆☆GGのつぶやき
動的平衡に辿り着けば、さらにdissipative structureにも思いが過る。
社会学・経済学においても、新しいシステムとして研究されている散逸構造がある。
揺らぎを通して自己組織化することに着目し、経済は均衡系ではなく、散逸構造とみなすべきであるとの考えも、忘れてはなるまい。





















































































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# by my8686 | 2018-02-16 13:17 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

リヒターのアブストラクトアートを鑑賞しつつ「フッサール現象学」をさらに読み解く

リヒターのアブストラクトアートと対峙していると、天候、感情の起伏など諸事象により、思いもよらぬ精神世界を垣間見せてくれる。

今週初めからの冷え込みも手伝い、精神的に異常なまでの厳格さと自意識的哲学観念を刺激させられる。物事が心に立ち現れる様態について、リヒターのアート世界を慎重に省察していくと、なぜかフッサールに辿り着くのである。






あらためて、本日もフッサール現象学について、読み解いてみよう。



新カント派は、領域のみならず、方法の違いによって自然科学と精神科学が区別されるとした。
しかし、このような考え方を批判し、すべての学問の厳密な基礎付けを目指したのがフッサールである。





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当時は、アルベルト・アインシュタインの相対性理論を始めに、量子力学を含め理論物理学が飛躍的に発展した。デカルトやカントが前提としていたニュートン力学に対する重大な疑義が出された時代であり、改めて学問の基礎付けが問題となった。





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フッサールは、数、自己、時間、世界などの諸事象についての、確実な知見を得るべく、通常採用している物事についての諸前提を一旦保留状態にし、物事が心に立ち現れる様態について慎重に省察することで、イデア的な意味を直観し、明証を得ることで諸学問の基礎付けを行うことができると考えた。






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フッサールの「事象そのものへ」立ち返るという超越論的方法論は、基本的にはカントを批判的に承継したものといえる。しかし、すべての学問の基礎付けを目指すという意味ではヘーゲルの壮大な学問体系を目指すものともいえる。

マックス・シェーラーは、フッサールの初期の弟子で現象学を学んだ。
後に、人間が自身に抱く自意識の歴史について、その自意識が突然に増大し続けている現代の事態を解釈するための学問として哲学的人間学を提唱した。





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彼は、人間の自己像の解釈を、以下の五つに類型化し、それぞれに対して同等の現代的アクチュアリティを要求することによって答えようとした。

①「宗教的人間学」

②「ホモ・サピエンス」

③「ホモ・ファーベル」

④「生の哲学における人間学」

⑤「要請としての無神論における人間学」




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それは生の哲学の問題提起を受けて、人間の宇宙・世界における地位を問い直そうとするものであった。





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精神医学者から哲学者に転じたカール・ヤスパースは、その著書『哲学』において、実存とは精神と生の相互浸透であるとして、生の哲学の問題提起を直接に受け止める。

しかし、彼は、無神論者であるニーチェではなく、キリスト教徒であるキェルケゴールに依拠し、実存は一度限りの人生において、不安の中で挫折のうちに、「存在」を体験するが、それは超越の暗号であるとした。









☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品と対峙するなかで、フッサール現象学に回帰しながらも「超越の暗号論」にまで至る。
生の哲学領域にまで踏み込む時、「意識に直接与えられた純粋な現在」を認識するのは、やはりリヒター効果なのであろうか。











































































































































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# by my8686 | 2018-02-15 13:01 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)