カテゴリ:ぶらぶらアート観賞( 73 )

「Ideation」を読み解く

久しぶりに晴れ間の見える日曜の朝。太陽の日差しが心地よい。



今日もフッサールを読み解いてみよう。


フッサールが説いた「Ideation」。
イデアチオン Ideation(理念視・理念看取)は、「本質直観」における意識のありかたである。




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中期のフッサールは、経験的なモノゴトに対置される本質と、それらの連関を純粋に記述することを現象学の根本的な課題とした。
それを可能にするのが「本質直観」である。






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本質直観は、モノゴトの普遍的な本質を直観的に把握する認識である。
本質直観という認識における意識の統握様式がイデアチオンである。






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イデアチオンによってモノゴトの個別的な要素は考慮されず、個体性に代えてむしろ普遍性が構成されることになる。






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イデアチオンによって個別的なもののうちに普遍的なものを直観的に把握し、その表象を反復しながら概念をめざす志向の同一性を確認することが可能になる。






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これは認識の可能性のための前提となる。

後期のフッサールは、主観的・相対的な生活世界を主題し、生活世界における経験により把握される類型的概念と、数学的自然科学によって把握される理念的概念との区別を強調する。






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そして、イデアチオンにもとづいて自然を精密に一義的に規定する自然科学の方法を批判的な意味合いをこめて「理念化 Idealisierung」と呼び、科学と生活世界の関係を考察した。





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理念化は「理念的」な対象をつくりだす「純粋な思惟」の働きである。






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☆☆☆GGのつぶやき
フッサールを段階的にその断片を読み解いてみる。
「知覚」とりわけ「見る」ことと「見られたもの」としての「形」――「見る」ことによる「エイドス」の認識。
この図式が「直観」という概念を介して横滑りし、「理性」による「本質」の認識という図式となる。
「見る → 知覚、直観 → イデアチオン・本質直観、理念化」。
リヒターの「二重化した仮象」が拡散されて行く。






















































































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by my8686 | 2018-02-18 11:08 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「フッサールの言葉」を読み解く

今週は、リヒターの絵画を通して、さまざまな事象と現象を観察してきた。
その観察を通して感じるのは、フッサール自身の言葉の重さである。

土曜休日の朝は、あらためて、その「フッサールの言葉」を読み解いてみよう。




 
認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。
しかも認識には認識される客観が対立しているのである。




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ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?
認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?






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自然的思考にとっては、認識客観が認識の中に与えられていることは自明的であったが、しかしいまはこの所与性が謎になるのである。







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自然的思考とは、我々の日常的な態度(フッサールはこれを自然的態度と呼ぶ)に基づいて成立する世界観を指す。
具体的には、自然科学・実証科学の世界像がイメージできよう。






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自然科学では、対象を区別したり分類したり、あるいは総合したりすることで、それまでの原理が再確認され、より深められていく。
その際、その対象が存在しているという前提を取っている。
これはつまり、たとえば物質の化学反応について研究するときに、その物質がそもそも存在しているのかと疑うことはない。

対象がそこに存在していることは、自然的態度においては初めから明らかであって、それを疑っても何も始まらない。
我々は「この対象は幻にすぎない」と考えて生きているわけでも、学問的にそれを扱っているわけでもない。






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だが、認識のあり方そのものに目を向けるとき、我々はひとつの「謎」に突き当たる。



個人の体験だけが、これらの思考作用だけがあるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在している。
すなわち一般に認識に対立する客観として措定されるであろう何かが存在していることを、認識者たる我々はいったいどこから知るのであろうか。
またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろうか?





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我々が何かを認識するとき、その認識は、ただ自分のうちで生じている主観的なものでしかない。
我々は、自分の意識から抜け出て、その「何か」を直接に確かめることはできない。





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にもかかわらず、我々はその「何か」が存在していることを知っている。
これは一体どのようにしてか。どのような根拠でそうなっているのか。
認識そのものを捉え直すとき、こうした問題が解きがたい「謎」として現れてくる、






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品には、「仮象の仮象」、「二重化した仮象」、「真理の仮象(輝き)」に強く魅かれる。
「ヘーゲル理解」、「真理のシャイン」、「芸術の二義性」を経て「フッサール現象学」にまで至るリヒターの画歴。
その深淵さに、あらためて驚愕する。これからも、ますます、目が離せまい。
マイルスの音歴を辿りながら、読み解いていきたい。
















































































































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by my8686 | 2018-02-17 09:23 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Gerhard Richterを鑑賞しつつ「dynamic equilibrium」を読み解く

高度な絵画技術で多様なスタイルを同時期に並行させながら、一貫して「絵画の可能性」を追求し続けるリヒター。

それらの作品は彼が生きてきた時代背景をかいま見せるとともに、時空を超えてつながり合い、新たな地平へと我々を導く。



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 「鏡は、より完璧な絵画である」




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リヒターは、写真と絵画、現実と幻影、具象的なものと抽象的なものといった境界に立ち、同時にそのどちらをも超えて、絵画の根底にある「見るという行為」の意味について我々に問いかけてくる。

リヒターの芸術は、膨大な作品をどのように組み合わせて展示するかにより、万華鏡のようにその表情を変化させる。

観察する側も制作された年代順に、あるいはテーマ別、スタイル別、サイズ別・・・等々、作品の性格に着目しつつ鑑賞の仕方に多様性をもたせることで、無辺の可能性が生まれてくる。





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リヒターの作品の見え方には、「仮象の仮象」、「二重化した仮象」、「真理の仮象(輝き)」、「ヘーゲル理解」、「真理のシャイン」、「芸術の二義性」を経て「フッサール現象学」にまで至る。


さらに、その思考を 「動的平衡」の観点で読み解いてみよう。


動的平衡 (dynamic equilibrium)とは、物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。

系と外界とはやはり平衡状態にあるか、または完全に隔離されている(孤立系)かである。
なお、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、という言い方もできる。




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これにより他の分野でも動的平衡という言葉が拡大解釈されて使われるが、意味は正確には異なる。


可逆反応で、正反応と逆反応の速度が同じ場合には動的平衡となり、反応系を構成する各物質の濃度は変化しない(化学平衡)。

また密閉容器の中に水と空気を入れておき、水蒸気が飽和蒸気圧に達すると、水の蒸発速度と水蒸気の凝縮速度が等しくなり、動的平衡に達する(相平衡)。





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熱平衡でも、実際には熱エネルギーはすべての方向へ全く同じように伝わっている、つまり動的平衡状態と考えることができる。

これらの例を構成する互いに反対の「流れ」は、一般にそのままでは観測することができない。
ただし対象によっては分子を個別または定量的に見る方法で観測が可能である。一般には系を平衡からわずかにずらして、平衡に戻る過程を観察すれば流れとして観測できる。





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さらに、応用:平衡定数と速度定数の関係で読み解いてみよう。


一般の化学反応は非平衡過程であるから熱力学で記述できず、時間変化を扱う反応速度論の範疇にある。

しかし可逆反応による動的平衡状態では熱力学と反応速度論の両方が適用でき、それぞれに基づく概念である平衡定数と速度定数との関係式を導くことができる。




可逆反応

A + B ↔ C + D
を考えると、正反応速度は

v+ = k+[A][B]
逆反応速度は

v− = k−[C][D]
となる。

ただし k+, k− はそれぞれ正反応、逆反応の速度定数で、[ ] は各成分の濃度(または分圧、活量)を表す。

動的平衡状態では両反応の速度が等しく
v+ = v−
となるので


k+[A][B] = k−[C][D]
平衡定数Kは


K = [C][D] / [A][B]
であるから、


K = k+ / k−
という関係式が導かれる。これは酸・塩基の解離平衡や生体高分子などの会合・解離にも適用できる。





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動的平衡という用語は、分野によっては、むしろ物理用語でいうところの「定常状態」を使うべき場合もある。

「定常状態」とは、系が平衡状態にない外界と接している場合にのみ起こり、流れがあるが時間変化が見られない、すなわち系への出・入の速度が等しい状況をいう。






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たとえば、経済において、資本のフローが一定であれば、安定した市場が成立する。

また、生物の出生率と死亡率が同じ場合、個体数は変化しない。このように、経済学・生態学・人口学でも、本来とは少し異なる意味で、動的平衡という言葉が使われている。






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「ミクロに見ると常に変化しているが、マクロに見ると変化しない」という点では、これらを動的平衡のアナロジーとして理解できる。
しかし、これらは物理的な意味での動的平衡ではなく、外界は平衡状態にない。

そして、資本の出入り、生物の生死や物質の出入は、系外との流れとして直接観測できる。したがって、これらは定常状態と見るのが適切である。





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☆☆☆GGのつぶやき
動的平衡に辿り着けば、さらにdissipative structureにも思いが過る。
社会学・経済学においても、新しいシステムとして研究されている散逸構造がある。
揺らぎを通して自己組織化することに着目し、経済は均衡系ではなく、散逸構造とみなすべきであるとの考えも、忘れてはなるまい。





















































































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by my8686 | 2018-02-16 13:17 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

リヒターのアブストラクトアートを鑑賞しつつ「フッサール現象学」をさらに読み解く

リヒターのアブストラクトアートと対峙していると、天候、感情の起伏など諸事象により、思いもよらぬ精神世界を垣間見せてくれる。

今週初めからの冷え込みも手伝い、精神的に異常なまでの厳格さと自意識的哲学観念を刺激させられる。物事が心に立ち現れる様態について、リヒターのアート世界を慎重に省察していくと、なぜかフッサールに辿り着くのである。






あらためて、本日もフッサール現象学について、読み解いてみよう。



新カント派は、領域のみならず、方法の違いによって自然科学と精神科学が区別されるとした。
しかし、このような考え方を批判し、すべての学問の厳密な基礎付けを目指したのがフッサールである。





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当時は、アルベルト・アインシュタインの相対性理論を始めに、量子力学を含め理論物理学が飛躍的に発展した。デカルトやカントが前提としていたニュートン力学に対する重大な疑義が出された時代であり、改めて学問の基礎付けが問題となった。





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フッサールは、数、自己、時間、世界などの諸事象についての、確実な知見を得るべく、通常採用している物事についての諸前提を一旦保留状態にし、物事が心に立ち現れる様態について慎重に省察することで、イデア的な意味を直観し、明証を得ることで諸学問の基礎付けを行うことができると考えた。






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フッサールの「事象そのものへ」立ち返るという超越論的方法論は、基本的にはカントを批判的に承継したものといえる。しかし、すべての学問の基礎付けを目指すという意味ではヘーゲルの壮大な学問体系を目指すものともいえる。

マックス・シェーラーは、フッサールの初期の弟子で現象学を学んだ。
後に、人間が自身に抱く自意識の歴史について、その自意識が突然に増大し続けている現代の事態を解釈するための学問として哲学的人間学を提唱した。





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彼は、人間の自己像の解釈を、以下の五つに類型化し、それぞれに対して同等の現代的アクチュアリティを要求することによって答えようとした。

①「宗教的人間学」

②「ホモ・サピエンス」

③「ホモ・ファーベル」

④「生の哲学における人間学」

⑤「要請としての無神論における人間学」




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それは生の哲学の問題提起を受けて、人間の宇宙・世界における地位を問い直そうとするものであった。





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精神医学者から哲学者に転じたカール・ヤスパースは、その著書『哲学』において、実存とは精神と生の相互浸透であるとして、生の哲学の問題提起を直接に受け止める。

しかし、彼は、無神論者であるニーチェではなく、キリスト教徒であるキェルケゴールに依拠し、実存は一度限りの人生において、不安の中で挫折のうちに、「存在」を体験するが、それは超越の暗号であるとした。









☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品と対峙するなかで、フッサール現象学に回帰しながらも「超越の暗号論」にまで至る。
生の哲学領域にまで踏み込む時、「意識に直接与えられた純粋な現在」を認識するのは、やはりリヒター効果なのであろうか。











































































































































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by my8686 | 2018-02-15 13:01 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「リヒターとフッサール現象学と差延の関係」を読み解く

明治安田生命保険は2019年4月からの定年延長に伴い、60歳以上の給与水準を60歳前の7~8割程度に維持するという。
ホンダも60歳以上の給与を59歳時点の半分から約8割に引き上げた。

25年までに厚生年金の支給開始が男性で65歳に引き上げられ、定年や再雇用で収入が減る「60歳の崖」が課題となっている。
人手不足が続くなか、経験豊かなシニアの士気低下を防ぎながら、雇用を維持する動きが広がってきているという。

大いに賛成である。60歳という年齢でバッサリ一刀両断されてしまうことに、違和感を感じた世代である。
これも人生100年時代に向けての、働き方改革であろう。






それはさておき、リヒターの作品と対峙することで、現代西洋哲学や大乗仏教思想、さらに現代物理学から相対性理論、さらにさらに、宇宙論からフッサール現象学にまで思いが及んでこようとは、予期せぬ展開に官能がふつふつと沸騰してきてしまっている。



あらためて、その内容をじっくりと読み解いてみよう。


フッサール現象学は、経験される現象を、純粋に意識に直接与えられている。
いわば疑いようのない確実なものだけにいったん還元して、そこから現象を再構成することで、認識の不確実性やそれにまつわる哲学的問題を克服しようという、デカルト的な試みであった。




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そのためには、そこからすべての現象が構成される「根源」として、純粋かつ直接的に意識に与えられた現在(現前 present)というものが考えられなければならない。
ここで、現象学にとって、時間性というものがアポリアとして現れる。






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意識に直接与えられているのは、あくまでも現在の瞬間であって、そこから他の時間を引き出すことはできない。
そこでフッサールは過去と未来は独立した、現在と対等の何かではなく、唯一存在する「現在」が持っているひとつのモードであるとした。







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こうしてフッサール現象学において、根源的かつ自己充足した現在の、意識への純粋な自己現前という、絶対的な位置づけが成立する。
このような現在のあり方は他を必要とせず自らを、余すところなく提示するということであり、デリダは「声」がそのようなありようのモデルとしてフッサールだけでなく過去の形而上学を規定してきたと批判する。






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音声中心主義。声は直接的に意味を伝え、文書はそうした生き生きとした「声」の間接的な反響に過ぎないとされてきた。
これに対して提出されるのがエクリチュールの概念である。


差延 (différance)は、デリダによるこの絶対的な現在への批判に関係する。




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彼の批判によれば、意識は現在を純粋かつ直接的に経験することはない。
デリダはこうした、自己自身に直接的に、何ら媒介をともなわず、明晰に意味が現前( present )する、届くという想定を指して『自分が-話すのを-聞く』と表現する。

「直観」や「明証」、また透明な理想的コミュニケーションとは、『自分が-話すのを-聞く』かのごとき概念なのである。
しかし、聞く自己と話す自己の差異=差延が、またそれに加えて話される言葉の話されなかった他の言葉との差異=差延が、聞くことの条件である限りで、この直接性も実際には汚染されている。





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つねにすでに現在は、過去によって不在の形で、つまりその痕跡の形で取りつかれており、過去に間接的に媒介されない直接的な現在というものはない。
現在は不可避的にすでに過去によって痕跡という形で汚染されている。






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言い換えると、過去の痕跡との関係によってはじめて現在は意味を為すことができる。痕跡の形で現在と関係している当の過去は、あくまでも痕跡の形でしか現在に含まれていない。そのため現在にとっては不在であり、フッサールの受動的総合のように、現在にその一部として所有されているわけではない。

こうして、現在はその自己充足性を失い、つねに欠如をはらんだ動的な時間性を帯びることとなる。
現在は独立して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。






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現在を構成する記号や表現は、それが意味を成すためには、それ自身とは別の記号や表現を指し示すことが必要であるが、この参照は無時間的なものではなく、必然的に時間的な「遅れ」を伴う。

記号は別の記号への参照によってはじめて記号として機能するのだが、この参照に不可避的に孕まれる「遅れ」によって、指し示す記号と指し示される記号は、同一の現在の内部にあることができない。






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こうして、現在において不在の記号が過去として、現在の記号に痕跡として憑依するのである。






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デリダはこの事実から、根源的なものは、そもそも存在し得ない「意識に直接与えられた純粋な現在」ではなく、こうして不在の過去と現在とを引き裂きつつ関係付ける差異、記号参照において孕まれる「遅れ」「ずれ」としての痕跡の働きであるとみなし、これを、差延 (différance)と名づけた。












☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品を読み解いているうちに、いつの間にか、フッサールにまで思考が及んでしまった。
リヒターの作品と対峙することで、フッサール現象学を思い起こすことは、あくまでも不在の過去の痕跡でしかない。
そもそも、相対性理論の四次元時空連続体としての宇宙は、フッサール現象学の「相互主観的世界」と同一の論理的存在構造であると認識している。
大乗仏教の思想も、現代物理学と対応させることにより、現代西洋哲学が取り組んでいる根本的な思想課題の解決に向かうための、過去の痕跡として憑依するのであろう。




































































































































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by my8686 | 2018-02-14 09:18 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「Gerhard Richter&différance」を読み解く

明け方から降り積もった雪も一時休止し、太陽の日差しに路面の雪は融け始めている。
振替休日の昼前、昨日に続いてリヒターの語る「無」について読み解いてみよう。



どの色をどの位置に塗るかは偶然に任せ、主観的決定を下さない。
自己を超越するものとしての「無」という概念をリヒターは説く。



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哲学者ジャック・デリダの説いた差延(différance)に通じる概念であろうか。

「語でも概念でもない」

およそ何者かとして同定されうるものや、そのものの自己同一性が成り立つためには、必ずそれ自身との完全な一致からのずれや、違い、逸脱といった、つねにすでにそれ自身に先立っている他者との関係が必要である。

このことを示すために、「差延」という概念が導入された。




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論理を簡略に述べれば、同定や自己同一性は、主語になるものと述語になるものの二つの項を前提とする。

「AはAである」

そのため、主体や対象は、反復され得なければならない。

「同じである」ということは、二つの項の間の関係であり、自己同一性においてもその事情は変わらない。
自己自身が差異化することによって、そこで初めてそれが複数の「同じ」であるが「別の」項として二重化しうる。


そして、そうなってはじめて、同定や自己同一性が可能となる。




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このことは、それ自身に完全に一致し、他を成立のために必要とせず、他に制約されておらず、自己充足した、根本的で特権的なもの、「他のもののうちにあり、他のものによって考えられるのではないもの(スピノザ『エチカ』 実体の定義)」というのは、たとえ概念の世界だけであっても、副次的に構築された名目的概念としてよりほかにはありえない、ということを意味する。






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差延は、再帰的な性質を持つが、このとき、この再帰を媒介する他の項は、あくまでも不在の形で、自己の側に残された、自己の側の対応する痕跡から遡及的に確認されるにすぎない。

しかし他方で、こうした痕跡は、あくまでもそうした不在の媒介項を前提とし、痕跡が刻まれたその項が自己充足することを許さない。
原・痕跡、あるいは原・エクリチュールとも表現される。





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ものが存在するという出来事をハイデッガーは、存在する対象として語りうるものとは、どうあっても異なるものであると考え、この違いを存在論的差異(Ontologische Differenz)と呼んだ。

この還元できない根源的な違いにこだわる限り、「ものが存在するということは、そのもののこれこれこういう性質である」という形式の説明は一切できない。





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性質や属性は、「これこれの性質が存在する」という形で語りうる対象だからである。

存在することは、ものの属性ではない。また「ものが存在するということは、より基本的な何かの在り方のモードや振る舞いである」という形の説明も解決にならない。

その基本的な何かは、依然として存在する何かなので、その存在がやはり問題として残るからである。









☆☆☆GGのつぶやき
ドゥルーズはヘーゲル的な差異への批判をニーチェとアンリ・ベルクソンを範例としてデリダとは異なる形で遂行した。
そこでは差異は微分(differenciation)と関係付けられ、自らを自己差異化する生産的な力、充溢した多様な強度として把握された。
とうぶん、Gerhard Richterから眼が離せそうにない。









































































































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by my8686 | 2018-02-12 11:13 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「Gerhard Richter:Color chart vs Eight Gray」を読み解く

小雪がちらちらと舞っている日曜の朝。



昨日に続き、ゲルハルト・リヒターのカラーチャートとグレイ・ペインティングを読み解いてみよう。





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「カラーチャート」は、正方形や長方形の色彩鮮やかなカラーチップを配列した幾何学的な絵画である。






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工業製品の色見本として売られているカラーチャートを利用して、一枚の画面に色彩を表示している。






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どの色をどの位置に塗るかは偶然に任せ、主観的決定を下さない。






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リヒターは、絵画上におけるこの試みをケルン大聖堂の南側の窓のステンドグラス制作にも展開した。
アンティーク・グラスの手法をとり、その色彩は、光によって繊細な色を放つ。






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「グレイ・ペインティング」は、グレイという色のみからなる絵画である。





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カラーチャートが色の細分化であれば、グレイ・ペインティングはその対極にあり、全ての色の集積であるといえる。






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リヒターにとって、グレイという色は「無」を表している。






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自己を超越するものとしての「無」という概念は、現代音楽家ジョン・ケージの言葉「私にはなにもいうことはない、だからそのことを言う」の影響を受けているという。






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2年前の想いが脳裏をよぎる。



人間の構成要素を五蘊と分析する際には、識蘊としてその一つに数えられる。
この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいう。
事物を了知・識別する人間の意識に属する。



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リヒターの言う、「虚が実になり、実が虚となる。」も同意であろう。



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また古い経典には、識住(vijJaanasthiti)と言われ「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとされる。
分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は営む。



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しかしながらいずれも、人間は「五蘊仮和合」といわれる。
物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合し形成されたものだと考え、固定的に人間という存在があるとは考えられていない。




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まさに、リヒターの絵画には「智慧の光」が耀き官能を煽る。



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☆☆☆GGのつぶやき
自己を超越するものとしての「無」。
「絵画とはあるいは、別の状態になっていくということです。そう、すでにアインシュタインのあのエネルギーと質量の公式です。質量、エネルギー、そうなのです。」
リヒターの言葉が、やはり官能を刺激して止まない。



























































































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by my8686 | 2018-02-11 10:37 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

2018「Gerhard Richter」を読み解く

雪は、土曜朝に雨へと変わった。
近くのデンタルオフィスで抜髄し、まだ麻酔が抜けきらない。


それはさておき、昨日に続き「ゲルハルト・リヒター」を読み解いてみよう。



ゲルハルト・リヒターは、現代で最も重要な画家の一人といわれ、特に現代のドイツを代表する画家である。
ドイツは、20 世紀に入ってからでもバウハウスや表現主義といった芸術活動の中心である。




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さらに戦後は、ヨゼフ・ボイスやアンゼルム・キーファーといった重要な作家を世界へ送り出してきた。その流れの中に、リヒターも位置づけられている。

リヒターは東ドイツで生まれ、ベルリンの壁ができる直前に西ドイツへ移住、20世紀の歴史とともに芸術家としての画業も評価されている。




リヒターのことば

「絵を描くということは、一つの行動であり、行動は束縛されてはならない」。


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ゲルハルト・リヒターが追い求めてきた最大のテーマは、絵画を描くことそのものにほかならない。



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例えば60年代の写真をもとに描かれた絵画から、18世紀のドイツ・ロマン派を想起させるような風景画、1980、1990 年代の抽象的な絵画へと、その作風は常に変化し、新たなものへと変貌を遂げてきた。

多様な主題と様式の変化。彼の画業を振り帰ることで、様々な絵画に触れることが出来る。





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つまり彼の画業の中に、そのまま20世紀の絵画の歴史がつまっているといっても良い。

さらに彼は絵画の中に、新たな可能性を見いだし、様々な試みを加え、絵画の未来に目を向けている。




そんな中でも、官能を刺激して止まないのが「アブストラクト・ペインティング」である。




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リヒターの代表的スタイルとなったアート作品である。

画面の大きさをカバーする長いスキージで絵の具を引きずる行為を繰り返すことによって、色を重ねては、削り取る。

それは、筆触を消すとともに、色彩を多層化する。即興的で無意識的に色を組み合わせることにより偶然の映像を表出する。




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☆☆☆GGのつぶやき
感情をどこまで制御するのか、官能のおもむくまま、画像を多層化する。
即興的で無意識的に画像を組み合わせることで、偶然の映像を表出する。
まさに、己自身の衝動画像アートの感性に近い。



























































































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by my8686 | 2018-02-10 12:29 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

ゲルハルト・リヒター「Painting 1992‒2017」展を読み解く

「コインチェック」からのNEM流出問題で、流出先口座とニュージーランド仮想通貨交換所との間で、頻繁に入出金が繰り返されていることがわかった。
他の仮想通貨との交換を狙った可能性もあり、交換所の口座を通じて、アクセス元やハッカーの身元特定につながる有力な情報が得られる可能性があるという。

ハッカーが以前からクリプトピアに口座を開設し、他の仮想通貨との交換を狙ったとの見方もある。
開設時に登録した名前やメールアドレス、多額の送金手続きに必要な本人確認書類、接続したIPアドレスなどが存在する可能性があるという。

北朝鮮が仕掛けたとも噂されるが、はたして急転直下の解明劇が見られるのか、静観して行こう。







それはさておき、先月まで六本木のピラミデビル3Fで開催された、ゲルハルト・リヒター「Painting 1992 - 2017」展を読み解いてみよう。



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「Painting 1992 ‒ 2017」と題された展示会は、ワコウ・ワークス・オブ・アートの開廊25周年記念展として開催された。




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同ギャラリーが開廊した1992年から2017年までの重要な作品を、リヒターみずからがアトリエで選りすぐり、本展のために展示構成を行ったという。




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会場では、今回が世界初公開となる92年から2000年代の油彩画5点に加え、ケルンやドレスデンの美術館で公開されて間もない最新の油彩画5点のほか、11年に、制作スタイルに大きな変化がもたらされる直前に描かれた抽象画も1点展示された。




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また、風景画《Sils Maria》(2003)や、写真と絵画の関係を考察し続けるリヒターのエッセンスが凝縮された作品として知られる 「Over Painted Photograph」(写真の上に油彩やエナメルで描いた作品)も展示された。





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本展開催にあわせた下記2冊の書籍も同時刊行された。


①ワコウ・ワークス・オブ・アート開廊25周年記念カタログ『ゲルハルト・リヒター Painting 1992‒2017』

・本展の全出品作品14点と、1993年の日本初開催から国内の個展で発表されてきた代表作の図版約70点をカラーで掲載。




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②新版『評伝 ゲルハルト・リヒター』

・ドイツで02年に刊行されたリヒター公認の評伝『Gerhard Richter. Maler Biografie und Werk(画家ゲルハルト・リヒター、伝記と作品)』をベースに、近年の活動を新たに書き下ろした新版。




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MEMO

■ゲルハルト・リヒター

1932年ドレスデン(旧東ドイツ)生まれ。
64年にミュンヘンとデュッセルドルフで初の個展を開催し、72年のヴェネチア・ビエンナーレを皮切りに、ドクメンタ(5、7、8、9、10)など、多数の国際展に参加。
日本では、2005年に金沢21世紀美術館と川村記念美術館で初の回顧展を開催している。
また16年には、自身初のパーマネントスペースを瀬戸内海の豊島にオープンさせたことは記憶に新しい。










 
☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの存在を知ったのは、やはり競売大手サザビーズに出品された作品「アプストラクテス・ビルト(809-4)」。
生存する画家の作品としては史上最高額の約2132万ポンド(約26億9千万円)に驚愕した記憶がある。
所蔵していたのが、エリック・クラプトンであったことも話題となった。
リヒターの来歴と作品群に吸い寄せられ、未だに官能が震え続けている。


















































































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by my8686 | 2018-02-09 08:06 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

イリヤ・レーピンの「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」を読み解く

氷点下-2°となった朝。心配した路面凍結はなし。
冬シーズン、早めの出勤とする。

今朝は、コインチェックの580億円分19分で流出したというトップニュース。
口座は特定され、結局は塩漬けか・・・の報道も気にかかるが、昨日に引き続きイリヤ・レーピンの代表作を観てみよう。




「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」(1880~1893年作製)


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ロシア・トルコ戦争で黒海沿岸部やクリミア半島を領土にしたロシア軍は戦闘部隊としてコサック兵を多用した。決して統率の取れた集団ではなかったが、その戦いぶりは勇猛果敢であった。

この作品のテーブルを囲むコサックの男達は、勝利の美酒に酔い、戦いに敗れたトルコの王(スルタン)に対して手紙を書くため、皆で寄ってたかって好き勝手にしゃべっている、そんな場面である。


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誰も文字が書けないため中央の羽ペンを持った男が代書している。


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全体の構図とコサック兵の表情が素晴らしく、生き生きと躍動感のある作品となっている。



さらに、中野京子女史の講義内容も読み解いてみよう。

1976年、ドニエプル川のそばでウクライナ・コサックが本営を張り国境を守っていると、負けているトルコのスルタン、メフメト四世から「降伏して臣下になれ」と手紙が来た。

それに対しコサックたちが返事を書いている場面である。






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返信の内容は罵詈雑言の嵐。
言いたい放題の悪口。



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「おまえらが悪魔の糞を食おうと知ったことじゃない。ブウブウ音をたれる肛門驢馬野郎め!肉屋の野良犬めが!!」



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文字の書けないコサックが書記を雇って手紙を書かせている。

口述筆記を耳にして周りの皆が大笑いしている場面である。



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MEMO

露土戦争(1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争。
バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった。ロシア帝国の勝利で終わった。
ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。
ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。









☆☆☆GGのつぶやき
コサック達の生き生きとした表情が良い。
罵詈雑言の嵐の罵声が聴こえてきそうだ。
戦に勝ち、皆が歓喜に湧き上がる熱気がフツフツと伝わってくる。















































































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by my8686 | 2018-01-31 09:02 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)