カテゴリ:ぶらぶらアート観賞( 53 )

世界最高の写真家集団マグナム・フォト創立70周年 パリ・マグナム写真展

京都文化博物館で7月から「世界最高の写真家集団マグナム・フォト創立70周年 パリ・マグナム写真展」が開催される。
本展は、2014年12月から翌年4月までパリ市庁舎で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の海外巡回展として企画された。





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1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成された。




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以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けている。





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マグナム・フォト設立70周年にあたり、60万点に及ぶ所属写真家の作品の中から、パリをテーマにした作品約130点あまりを選び展観するもの。
芸術の都・パリは多くの歴史的事件の舞台でもあり、かつ、写真術発明以来、常に「写真の首都」でもあった。





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20世紀の激動を最前線で見つめ続け、現代においても現在進行形の歴史をとらえ続けるマグナムの写真家たちが提示する豊穣なイメージは、都市とそこに生きる人々の歴史にとどまらず、写真表現の豊かさをも我々に提示してくれる。

それと同時に、世界を発見する驚きに満ちた写真家たちの視線を追体験させてくれる良い機会となろう。



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<出品作家/30名>
ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、デビッド・シーモア、フィリップ・ハルスマン、ハーバート・リスト、エリオット・アーウィット、バート・グリン、エリック・レッシング、インゲ・モラス、マルク・リプー、ウェイン・ミラー、ルネ・ブリ、ブルース・デビッドソン、ニコラ・ティコミロフ、セルジオ・ラレイン、ブルーノ・バルベイ、レオナード・フリード、ジョセフ・クーデルカ、リチャード・カルバー、ギィ・ル=ケレック、レイモン・ドゥパルドン、マルティーヌ・フランク、アバス、ジャン・ゴーミー、ハリー・グリエール、パトリック・ザックマン、マーティン・パー、ゲオルギィ・ピンカソフ、アレックス・マヨーリ、クリストファー・アンダーソン





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会  期:
2017(平成29)年7月1日(土)~ 9月18日(月・祝) 69日間

会  場:
京都文化博物館 4階展示室









☆☆☆やんジーのつぶやき
アンリ・カルティエ=ブレッソンは、学生時代に共感した写真家のひとりである。
ロバート・キャパも写真を通して戦争の生々しい臨場感に官能が震えたことを思い出す。
インスタグラムなどお手軽に映像として切り取られ消費されてしまう今。
そんな今だからこそ、写真家集団・マグナムの足跡を真摯に辿ってみたいと思った。








































































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by my8686 | 2017-05-22 16:15 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「伊藤若冲展」/相国寺承天閣美術館

いよいよGWに突入する。あいにく今日と明日は暦どうりの出勤となる。

今年のGWは、ワイフのリクエストで家のレイアウト変更に時間をさかれそうな気配濃厚。
大物の移動だけは早々と済ませ、ロードバイクで一汗流しつつスーパー銭湯三昧にあけくれるも一興か。

それはさておき、京都にある相国寺承天閣美術館で「伊藤若冲展」が開催されているという。




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あらためて、その内容をみてみよう。

生誕300年の去年、東京では長い行列ができた若冲。
信心深い彼は京都・相国寺の大典和尚と親しく交わり、禅の教えを乞うた。そのため、相国寺には若冲作品が多く残る。




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開催中の「伊藤若冲展」後期展示は酉年にちなんで若冲が特に愛した鶏を始め、鶴や鴨、叭々鳥などさまざまな鳥の豊かな表情を描いた作品を展示。
中でも初公開の《鸚鵡牡丹図》《岩上鷹図》が注目だという。




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鳥の他にも薄墨の間に白い線が浮き出る「筋目描き」が美しい《牡丹図 南海賛》などが初公開される。





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床の間など若冲の空間が見られる常設の重文《鹿苑寺大書院旧障壁画》も忘れずに見たい。





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さらに、若冲と相国寺との関係性を読み解いてみよう。



若冲の手になる鹿苑寺大書院襖絵全五十面のうち「葡萄小禽図」と「月夜芭蕉図」が、製作当時と同じ、床の間貼り付けの状態で常設展示されている。
この相国寺という寺なくしては、伊藤若冲という絵師の活躍はなかったと言われる。

鹿苑寺大書院襖絵は、若冲の知人であった相国寺僧・梅荘顕常が、鹿苑寺第七世住持入寺の記念として、当時四十四歳の若冲に書かせたもの。
ただこのときの若冲は、生家の家督を捨ててわずか四年目。画家としての公的なキャリアが皆無の男に、これほど大部の襖絵を依頼するのだから、梅荘顕常が若冲に寄せる信頼が、如何に大きかったかが知れる。

そして実際に承天閣美術館で「葡萄小禽図」と「月夜芭蕉図」の前に立ったとき、我々は梅荘顕常の慧眼とそれに全力で応じた若冲の筆力に、感嘆せずにはいられない。
自由奔放にしなう葡萄の蔓は、息を呑むほど美しい弧を描き、巨大な月は我々の前に澄み切った夜気を突如、現出させる。




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この作品を若冲の水墨画の最高傑作と考えることに異論はない。
さらに水墨画のみならず、若冲の彩色画の最高傑作たる「動植綵絵」三十幅もが、完成後、相国寺に奉献された事実を考え合わせると、この寺が如何に若冲の画業と不可分の存在であるかを、改めて考えずにはいられぬ。

明治期の廃仏毀釈の際、相国寺は「動植綵絵」を皇室に献上するのと引き換えに一万円を下賜され、それによって現在の寺地を守った。いわば相国寺なくしては若冲ありえず、若冲なくしては相国寺はありえない。
現在、我々が目にする相国寺の威容と鹿苑寺大書院襖絵は、両者の深い紐帯のシンボルとも言える存在といえよう。





DATA
京都市上京区今出川通烏丸東入ル
Tel. 075-241-0423
~5月21日 
10:00~17:00 会期中無休
一般¥800
www.shokoku-ji.jp









☆☆☆やんジーのつぶやき
長男の大阪転勤にともない関西方面へのドライブも増えてこよう。
大阪~京都へは、またじっくりと探訪してみたいものである。



























































































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by my8686 | 2017-05-01 17:24 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

「グラナダ 魂の画譜 戸嶋靖昌 孤高のリアリズム」に触れる

予報どうり雨の日曜日となった。映画から帰宅後、先週気になった画家の戸嶋靖昌を特集していたTV番組のことを思い起こしていた。

スペイン・グラナダで生涯、独自のリアリズムを追求した知られざる日本人画家、戸嶋靖昌。





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清貧な生活の中で人間の魂を描き続けた戸嶋芸術に迫った放送である。






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その絵画には人間の魂を強く感じさせる圧倒的な存在感がある。





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戸嶋は40歳の時、スペインに渡る。





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プラド美術館のベラスケスの芸術に出会い、人間の生命感あふれる絵画はいかにすれば描けるのかを探求。





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グラナダの人々との交流の中から、魂の気迫に満ちた作品を生み出した。






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圧巻の戸嶋芸術の魅力に迫る。








☆☆☆やんジーのつぶやき
映画「スノーデン」を観終わったあと、無性に戸嶋靖昌の絵画が観たくなった。
なんら因果関係はない。なにか魂を揺さぶる気迫に触れたくなったのだろうか。
後日、このことを読み解いてみたいと思った。

































































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by my8686 | 2017-02-05 18:56 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

北斎の肉筆画「鶏竹図」発見を読み解く

12月30日。午後から大掃除をする。
あらかたワイフが年末から数日をさいて掃除をすすめてくれていたおかげで数か所ですむ。

電気炬燵本体の分解掃除をすませ、包丁を砥ぐ。
そのあとは、台所壁面に固定した扇風機の配線処理。さらに、スチームクリーナーを使って風呂の洗浄。

こうした掃除は、やりだすと切りがないのであるが、夕刻までしっかりと作業に没頭する。


さて、ひといき入れて新聞に目をうつすと、葛飾北斎の肉筆画「鶏竹図」が見つかったという記事が気にかかる。





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あらためて、その内容をみてみよう。

来年のえとでもある鶏が描かれており、東京の美術商が11月末、デンマークでの競売で落札した。
鹿鳴館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドルの旧蔵品とされ、日本では存在がほとんど知られていなかった。





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竹を背景に石灯籠の上に止まる2羽の鶏を、縦110センチ、横51センチの絹本に写実的に描いた掛け軸。
左下に「歩月老人 北斎」の落款と印がある。





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専門家は、「落款、印、画風、どれも北斎作と疑う余地はない」という。
40代の作品とみる。

「鶏と竹を描いた北斎の肉筆画は初めて見た。竹の葉の色の変化などは浮世絵にはないもので、中国系の(花鳥画を得意とする)南蘋派の描写を消化した写生画といえる。」



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「新鮮な作風で、まさに鳥の飛躍のごとく上向きに脂の乗っている時期。できは非常によく、貴重な発見だ」と評価する。





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コンドルは明治期に来日。設計活動のほか、辰野金吾ら日本人建築家を育てた。






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☆☆☆やんジーのつぶやき
鳥の飛躍のごとく上向きに来年も挑戦していきたいものである。
生きることの実感をより濃いものにする官能的な「カルチャー」、上質な「ソサエティ」をもとめて。






























































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by my8686 | 2016-12-30 18:00 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

文化の日は「ミケランジェロ展」を味わう

文化の日は、夫婦そろって無料開放される美術館めぐりをするのが常。今年は福山の美術館で開催されている「ミケランジェロ展」に出向く。

全国巡回展、最後の展覧会である。
ミケランジェロの真筆である素描を直に見れるまたとない機会でもある。




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あらためて、展覧会の案内文を読んでみよう。


イタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナローティ(1475‐1564)は、彫刻、絵画、建築という視覚芸術の3つの領域において、他の追随をゆるさぬ卓越した人体表現と深い精神性を示した。

人々は彼を「神のごときミケランジェロ」と称えた。ダヴィデ像に代表されるような、石の塊のなかから彫り出された完璧なまでの造形、そしてヴァチカン宮殿のなかのシスティーナ礼拝堂に描いた史上最大の天井画は、まさに超人技といえよう。

その葛藤に満ちた活躍の舞台となったフィレンツェとローマには彼が手がけた建築が、今も都市の景観を形作っている。

フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂新聖具室や附属のラウレンツィアーナ図書館、ローマのカンピドリオ広場やサン・ピエトロ大聖堂ドームの設計の仕事には、同時代の人々を驚嘆させた、新しい装飾の表現形式や空間の取り扱いが不滅の輝きを放っている。

本展はカーサ・ブオナローティの所蔵する作品を中心に、ミケランジェロ本人による真筆の素描および書簡約35点を含めた作品およそ70点を展観する。加えて建築模型や写真、映像も用いながらミケランジェロの建築に光をあてる。

そして、特別コーナーでは日本を代表する建築家たちが、この巨匠に寄せた畏敬の念を、400年後に自らの作品のなかでどのように展開したかごらんいただこう。





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1.システィーナ礼拝堂の下絵を始め、ミケランジェロの真筆の素描35点が出品。
自らの家柄に誇りを持っていたミケランジェロの邸宅は子孫に受け継がれ、現在はゆかりの資料を公開する美術館となっている。そのカーサ・ブオナローティが所蔵する真筆の素描が多数展示された。





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2.建築家としてのミケランジェロの全貌を紹介!
ミケランジェロの建築的偉業を本格的に紹介する展覧会は日本で初めて。






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3.ルネサンス期イタリアの建築が分かる
フィリッポ・ブルネレスキに始まり、ドナート・ブラマンテ、ラファエロ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ ジョーヴァネといったミケランジェロの作品とかかわりのあったルネサンス期イタリアの建築家たちを通して、ルネサンス期の建築が分かる。





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第1章 ミケランジェロ・ブオナローティ

マルチェッロ・ヴェヌスティに帰属
《ミケランジェロの肖像》 1535年以降
カーサ・ブオナローティ蔵

彫刻、絵画、建築、また詩作においても類まれな才能を発揮した「万能の天才」としてミケランジェロを称揚する肖像画は後世、様々なヴァージョンで描かれてき。
この章で紹介する肖像画のひとつは、彫刻家レオーネ・レオーニがミケランジェロへの贈り物として制作した、ミケランジェロの横顔を彫りこんだメダルの試作品である。

もう一点は豪華なバロック様式の額縁に額装された肖像画で、こちらは後世の画家たちがしばしば手本としたフィレンツェの画家ヤコピーノ・デル・コンテが1535年頃ローマで描いた有名なミケランジェロの肖像画に基づくもの。

このほか、ルネサンス期の芸術家の伝記として最もよく知られているジョルジョ・ヴァザーリによる『美術家列伝』(1568年の増補改訂版、『著名画家・彫刻家・建築家列伝』)も展示し、ミケランジェロの功績がどのように継承されてきたかが閲覧できる。





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第2章 ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂


ミケランジェロ・ブオナローティ
《システィーナ礼拝堂天井画〈クマエの巫女〉のための頭部習作》
1508-1510年 トリノ王立図書館蔵 ©Torino, Biblioteca Reale

天井と側壁の間に配置されている《クマエの巫女》の頭部の下絵である。クマエの巫女は、神託を伝える巫女のひとりで託宣を持つ姿で描かれた。 本画では、この下絵に見られるとおりの年老いた老婆の顔と、ミケランジェロ特有の筋肉質の両性的な体格で描かれている。

世界最大の教会堂建築であり、今日、カトリック教会の総本山として知られるヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂は、教皇の権力下で芸術家としての人生を送り、信仰心の篤いミケランジェロを語る上で最も重要な創作の舞台であった。
教皇ユリウス2世の依頼により、1508年から4年の歳月をかけて天井に描いた13×40メートルという世界最大規模のフレスコ画と、ローマに移住後の1536年から1541年にかけて描いた祭壇画《最後の審判》のあるシスティーナ礼拝堂は、この大聖堂に隣接している。

システィーナ礼拝堂では、顔面に絵具をしたたらせながら、のけぞるように立ったまま描くという至難の業の天井への描画を、旧約聖書から「創世記」の9つの場面と12人の預言者と巫女を建築的な枠組みのなかに、見事にひとつにまとめあげた。

本章では、天井画に描かれている旧約聖書の場面や預言者と巫女の姿の準備素描を中心に展示。また、ジョルジョ・ギージが《最後の審判》をうつした銅板画シリーズを展示し、賞賛と非難を巻き起こしつつも後世の芸術家たちに与えた多大な影響力がうかがえる。晩年のミケランジェロは、建築家としてサン・ピエトロ大聖堂の設計に挑んだ。





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第3章 建築家ミケランジェロ


ミケランジェロ・ブオナローティ
サン・ピエトロ大聖堂ドーム
ヴァチカン市国 1546-1564年


1504年に完成した《ダヴィデ》によって、彫刻家としての威名をとどろかせたミケランジェロは、その翌年同郷の建築家であるジュリアーノ・ダ・サンガッロの紹介により、教皇ユリウス2世から新しいサン・ピエトロ大聖堂内に自分の墓廟を制作するように依頼された。

当初の計画は変更を余儀なくされますが複数の彫刻で飾られる背景としての墓廟が空間を内包する建築的な発想へと展開し、ミケランジェロはその後、建築家としても類まれなる力量の持ち主であることを実証していく。

フィレンツェでは「サン・ロレンツォ聖堂ファサード計画」(1515‐1520年)、「メディチ邸外壁第一層の窓」(1517年頃)、ミケランジェロによるかの有名な彫刻《夜》《昼》《黄昏》《曙》の擬人像で知られるメディチ公の墓碑のある「サン・ロレンツォ聖堂新聖具室」(1520‐1534年)、「ラウレンツィアーナ図書館」(1524‐1559年)といった作品を紹介。

ラウレンツィアーナ図書館については、本展のために閲覧室と玄関室の模型をあらたに制作し、その独創的な空間構成の魅力も閲覧できる。

ローマでは政治の主要拠点としての「カンピドーリオの丘の広場と建築」(1538‐1564年)と対照的に宗教的拠点である「サン・ピエトロ大聖堂ドーム」(1546‐1564年)を中心に、1564年に亡くなるまで最晩年の仕事である「サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂スフォルツァ礼拝堂」(計画段階のみ。1560頃‐1564年)や「ピア門」(1561‐1564年)など12件の建築作品の紹介を中心に、建築作品の素描や関連資料を展示。





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☆☆☆やんジーのつぶやき
秋晴れのもと愛車86を駆り、福山まで赴く。
ミケランジェロのデッサン力の高さに、あらためて官能が沸騰してしまった。
さらに、システィーナ礼拝堂天井画の壮大なイメージの拡散に、しばし足が竦んでしまった。

























































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by my8686 | 2016-11-03 22:10 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Gerhard Richter’s+William John Evans

三連休の最後の日。台風16号が接近するなか、昨日に続きリヒターの作品と対峙する。聴くのは、ビル・エヴァンス「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」。

リヒターは、絵画を仮の存在、あるいは何かの代理と考えているのだろうか。言い換えれば、絵画が持つ、実体を伴わない疑似空間(もしくは絵画固有の空間性)こそが、絵画の存在意義であり、彼にとってそれを実現することが制作の主要なモチベーションであるということなのか。




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描く対象が何であれ、出来上がった絵画が「Schein(仮象)」として機能していること、これがリヒターの画家としての拘りである。





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この場合、絵画に求められるのは「見せかけ」の、「仮象」としての空間性である。




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この「Schein(仮象)」を求めて、彼は次々とスタイルを変えながら制作を続けてきたのかもしれない。このような「仮象」へのリヒターの意志は、彼の抽象での仕事において高められ、顕著になる。




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デュシャン的なニヒリズムと描くことへの絶望を抱えながらも、なおも絵画の空間性に魅せられ、絵画を描かずにいられない、絵画の可能性を探らずにいられない、このアンビバレントな葛藤が、リヒターの多様な表現と、それを支える制作エネルギーの源泉となっているのだろうか。





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モダニズム絵画を引用しながら、モダニズム絵画が陥った理論主導の袋小路を回避しつつ、絵画表現の豊かさを取り戻そうというのがリヒターの絵画である。





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リヒターのタイトル「味」と「未来」は、重層化された絵の具の痕跡が作り出す空間性を忠実に再現することに成功している。





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絵の具を何層も塗り重ねていると、各色が混ざりすぎ、鈍重で平板な画面になってしまうのだが、両者はその寸前を見切って、重厚な絵の具の重なり合いや混ざり合いと鮮やかな色彩の対比が空間の深さを感じさせる作品を創りだしている。





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タイトル「オーラ」と「光と闇」も、リヒターの画面を丁寧に観察した成果が表れている作品である。




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ワイパーの動きを生かした、スピード感とリズム感にあふれる表現が特徴的で、ワイパーで絵の具を伸ばす行為を上手くコントロールしながら、魅力ある表面を創りあげている。





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タイトル「思考」は、リヒターの絵画を再現する、というテーマを超えて、ワイパーを使った独自の表現に踏み込んでいる例である。





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ダイナミックなストロークが印象的な作品であり、タイトル「2つの私」は明暗のコントラストを生かした、エッジの効いた表現である。
そしてタイトル「日和」においては、薄く引き延ばされた絵の具の重なり合いが透明感を湛えた空間を表現している。





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3 作品ともリヒターの作品から離れて、自分の表現したいものを描こうという意思が感じられ、それが作品の魅力となっている。




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リヒターのアートと対峙しつつ、エヴァンスのインタープレイに耳を澄ましてみよう。





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1959年に、エヴァンスはドラマーのポール・モチアンとベーシストのスコット・ラファロをメンバーに迎え、歴史に残るピアノトリオ(ファーストトリオ)を結成する。




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このトリオは、スタンダードナンバーの独創的な解釈もさることながら、即興性に富んだメンバー間のインター・プレイが高く評価され、ピアノトリオの新しい方向性を世に示した。





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従来までピアノやベース・ドラムス、あるいはギターなどの楽器奏者は、ホーン奏者を支えるための「リズム・セクション(伴奏者)」としてリズムを刻む「道具」として扱われ、また、他の「ピアノ・トリオ」においても、主役はあくまでピアノでありベースやドラムスはリズムセクションの範疇をこえるものではなかった。





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ビル・エヴァンス・トリオにおいては、この旧来の慣習を打ち破り、テーマのコード進行をピアノ・ベース・ドラムスの3者が各自の独創的なインプロビゼーションを展開して干渉し合い、独特な演奏空間を演出した。





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特筆すべきはベースのスコット・ラファロで、積極的にハイノート(高音域)で対位旋律を弾き、旧来のリズムセクションの枠にとどまらない新しいベースの演奏スタイルを形成した。





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また、ドラムスのポール・モチアンも単にリズムを刻むにとどまらずエヴァンスのインプロビゼーションに挑みかかるようなブラシ・ワークやシンバル・ワークを見せるなど、このトリオで収録した「ポートレイト・イン・ジャズ」・「エクスプロレイションズ」・「ワルツ・フォー・デビイ」および同日収録の「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれる。





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しかし、「ワルツ・フォー・デビイ」および「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の収録からわずか11日後、ラファロは1961年7月6日に25歳の若さで交通事故死してしまった。





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エヴァンスはショックの余りしばらくの間ピアノに触れることすら出来ず、レギュラートリオ活動を停止することとなり、半年もの間シーンから遠ざかった。






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☆☆☆やんジーのつぶやき
休日の早朝は、決まってマイルスの「ジャックジョンソン」を聴きながら官能を刺激しつつPCにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくる。
官能がひりひりと疲労しかけたころ、エヴァンスの「リバーサイド四部作」の中から気に入ったものに切り替えるというのが、いつものスタイルなのである。
なんでもない作業をする時は、FMラジオに切り替える時もあれど、文章を組み立てる時は、やはり会話が耳障りなってくるのである。























































































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by my8686 | 2016-09-19 07:07 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Gerhard Richter+John Coltrane

三連休の中日。台風の影響で天候は雨。こんな日は、リヒターの作品と対峙してみる。聴くのはコルトレーンのマイ・フェイヴァリット・シングス。





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少し、トレーンの足跡を辿ってみよう。


1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加。





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アトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音。






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この頃から、単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。





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自作自演の曲が増え、また同じ曲の録音でありながら、異なるサイドメンを起用してテイクを重ねる実験を行っている。





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1960年春、マイルスバンドを脱退。その後マッコイ・タイナー、エルビン・ジョーンズを中心に自身のレギュラー・バンドを結成しツアーに出ている。





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この年10月には、自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行。
このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:「夜は千の目を持つ」)』などのアルバムが発表されている。






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アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。





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この演奏に現れる「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックスという組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとしてを繰り返し用いられている。





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またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機[注釈に楽器としての魅力が広く認知され、以後ジャズ・フュージョン系のサックス奏者達の"必修科目"として盛んに用いられるようになる。





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1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。






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3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:「いつか王子様が」)』の録音にゲストとして参加。





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その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを自己のバンドに加えるとともに、アレンジャーとしても起用し、大型ブラスセクションによる録音に取り組む。





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一方でその直後に、アルバム『オーレ!コルトレーン』も録音している。前者の録音からはインパルス最初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』の2枚が発売。





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後者はアトランティックから発売された。 また秋には、ニューヨークのライブハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演したり、ヨーロッパツアーにも出ている。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとする数多くのライブ・アルバムで聴くことができるようになってきている。











☆☆☆やんジーのつぷやき
トレーンの前にトレーンなく、トレーンの後にトレーンなし。
学生時代、駅前の小さなレコード店の店主に「デザインを志しているのなら、これを聴け!!」と半強制的に勧められたレコードがトレーン の「ブルーノート版 Blue Train」だった。
ブルーノート版唯一のトレーンリーダーアルバムであった。
生まれて初めて買ったジャズレコードでもあった。











































































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by my8686 | 2016-09-18 08:06 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

ZAZ

久しぶりにゲハルト・リヒターのアート作品をみていると、ZAZという素描シリーズが目にとまった。





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この素描を見ていると、マイルス・デイヴィスのハーマン・ミュートが脳裏に響いてきた。






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マイルスを聴き始めたのは、学生であった1970年代。ファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと進展し、ブームとなりつつあったフュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開した。





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マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。最初に学生寮の部屋で聴いたのが「ジャック・ジョンソン」だった。





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マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行った。






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公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。





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1972年に発表された公式アルバムである『オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作であった。





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しかし、フュージョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。





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1973年と1975年に来日。1975年の広島ライブ公演には、仕事を終えるや会場に向けて、猛ダッシュで飛び出した思い出がある。会場は、岩国基地の米兵たちと思われる黒人たちが沢山屯し、異様な雰囲気だった。
公演はなかなか始まらず、どうやらマイルスの体調と機嫌が悪化したのか、演奏の途中でステージを降りてしまう異例のハプニングエンドだった。それでも興奮覚めやらぬファンたちのアンコールとブーイングがない交ぜとなり、一時会場は騒然となりかけた。
帝王マイルスの異名どうりのスリリングな幕引きであった。そんな貴重なシーンに遭遇できたことを、今では自分の記憶遺産となっている。











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この頃から健康状態も悪化し、75年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となった。





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1967年頃マイルスはブルースが大好きでマディーウォーターズ、BBキングのボイシングをどう取り入れようかと考えていたという。
そしてジミ・ヘンドリックスやプリンス、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーンを高く評価していた話はよく知られているが、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わり、プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、今も未発表のままとなっている。
ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。
この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。
また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのカバーも収録している。









☆☆☆やんジーのつぶやき
ゲハルト・リヒターといえば、抽象画「アプストラクテス・ビルト(809-4)」が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札されたことに官能が沸騰した。
マイルスもまた、2枚組のアルバム「Bitches Brew」の先進性に官能が沸騰してしまった。
あの時代のあの熱さが、今また甦る。


























































































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by my8686 | 2016-09-16 16:16 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル『バベルの塔』展

ピーテル・ブリューゲル1世の傑作「バベルの塔」(1568年ごろ)などを紹介する「ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル『バベルの塔』展」が来年4~10月、東京と大阪で開かれることが29日決まった。




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ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のシャーレル・エックス館長と、主催する朝日新聞社が合意書に調印した。
同館はオランダ・ロッテルダム市にある同国を代表する美術館の一つ。「バベルの塔」は旧約聖書の伝説の塔を描いた作品で、日本では24年ぶりの公開。展覧会には同館所蔵の約90点が出品される。





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16世紀フランドル絵画の巨匠ピーテル・ブリューゲル1世の傑作「バベルの塔」が来年、東京と大阪で公開される。旧約聖書「創世記」の物語を題材に、約1400人もの人間が細密に描かれた板絵だ。
所蔵するオランダのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のシャーレル・エックス館長への見どころインタビューをみてみよう。






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■細密な描写「挑戦の価値感じた」

ブリューゲルの油彩画は世界に約40点しか現存しないとされている。ボイマンス美術館が改修と新館建設工事に入るため、今回の展覧会への借用が実現した。エックス館長は「『バベルの塔』は館で最も重要な作品。館外には数回しか出たことがない」と話す。

北方ルネサンスの画家で、農民の群像を数多く描いたことで知られるブリューゲルは、この晩年作で、旧約聖書の物語の舞台を16世紀のネーデルラント(オランダ・ベルギーなどの地方)に置き換えた。人々が天国に届くようにと建てたバベルの塔は16世紀の技術で建設され、洗濯物が干されていたりと人々が暮らす様子も細密に描かれている。絵のサイズは59・9センチ×74・6センチだが、「約1400人もいた」とエックス館長は話す。





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ブリューゲルの「バベルの塔」は同館とウィーンに計2枚が残る。館長は「こちらのほうが、より描き込みが緻密」と話す。
物語では塔を建てようとした人々は神の怒りに触れ、同一だった言語をバラバラにされた。ブリューゲルは絵で何を伝えようとしたのか。






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当時、カトリック教会の腐敗が批判され、学者らが道徳を守る必要性を説いていた。この絵にも、人間の愚行を戒める教訓的なメッセージを読み取る解釈がある。だが館長は「私はこの絵を見て『自分の人生をかけて大事業に挑戦することは、たとえ結果的に失敗したとしても価値があることだ』と感じた」と話し、人それぞれの読み解きを勧めた。





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「ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル『バベルの塔』展」では、幻想的な宗教画や風俗画で知られるヒエロニムス・ボスの「放浪者」など油彩画2点も日本で初公開される。
会場・会期は、東京都美術館(来年4月18日~7月2日)、大阪の国立国際美術館(7月18日~10月15日)。

公式ホームページはhttp://babel2017.jp






☆☆☆やんジーのつぶやき
少年の頃、飽きずに長い時間ブリューゲル『バベルの塔』を作品集で見ていた記憶がある。
精緻に描き込まれた人々の声が聴こえてきそうだった。
来年ぜひとも、実物を食い入るように見てみたいものである。



















































































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by my8686 | 2016-06-30 16:48 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

vol.003 Richard Serra

ソフトバンクグループ(SBG)の孫正義社長がほれ込み、高額報酬で招いたニケシュ・アローラ副社長が突如、退任する。
早くトップになりたいアローラ氏と、なかなか地位を譲らない孫氏。2人の確執が一気に表面化した格好だ。ソフトバンク2・0はどこへゆくのか――。

グーグル在職中のアローラ氏の手腕に感心した孫氏は2014年、頻繁に米西海岸に足を運び、アローラ氏を口説いた。最後は日本料理店の紙ナプキンに高額報酬を約束するサインをし、彼のスカウトに成功。アローラ氏も「マサ(孫正義氏のこと)は天才。彼と毎日一緒にいる」と一時は「相思相愛」の仲だった。アローラ氏は着任すると出身地のインドや東南アジアなどの新興企業に相次いで投資をし、インドでは大がかりな太陽光発電事業をスタートさせた。しかし、もともと日本市場が中心のSBG社内からは「ニケシュのために、いちいち英語で報告しないといけない」「人事権をちらつかされた」などと古参幹部を中心に戸惑う声があがっていた。孫氏もアローラ氏と意見が合わず、側近の前で珍しく愚痴をこぼすことも。アローラ氏も高額報酬の割には思ったほどの実績をあげていない。

こうしたことからSBGは3月、国内統括会社と海外統括会社に分け、国内は古手の宮内謙取締役が、海外はアローラ氏が担うようすみ分けた。指揮系統を整理した格好だが、アローラ氏からすると権限が縮小したと映ったかもしれない。

さらに匿名の投資家グループが米法律事務所を通じて1月、SBGに対してアローラ氏の調査を求める書簡を送付。大手投資ファンドのアドバイザーとの兼任などを問題視した。SBGは20日になって、取締役会に設けられた特別調査委員会が調査の結果、「評価するに値しない結論に至った」とのコメントを発表したばかりだった。孫氏は21日、「あと5年か10年は社長を続ける。その間ニケシュを待たせてはいけないと考えた」とコメントしたという。

ソフトバンクショップの若いスタッフの上から目線の対応に「マジ切れ」しそうな経験を幾度となくしてきたガラケーの自分としては、盛者必衰の幕開けを予感させる出来事となった。





それはさておき、昨日に続きセラの作品をみてみよう。



セラはカリフォルニアでの学生時代、製鋼所や工事現場でアルバイトに励んだ。
セラの作品は、従来の彫刻ではなく、塔、ダム、サイロ、橋、トンネル、摩天楼といった構築物の系譜に連なるものだ。





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スチールで「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」を制作しようと決めて以来、これまでのスタジオから抜け出すことになった。
スタジオが都市計画や産業界に入れ替わり、制作の協力者は建築業者、土木技師、運送業者に、そして製鋼所や造船所が「外に繰り出したわがアトリエ」となった。
こうした状況のもと、巨大な金属板を重力の均衡で相互に寄りかからせた作品を手がけるようになった。





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「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」について、セラはこう記している。
「その置かれる場所の環境条件と深い関係がある。作品の規模、サイズ、そして置かれる場所は、街のなかか、自然の風景のなかか、建物の内部かによって決められる。作品はサイト(展示場所)の一部となり、その場所の構成要素を概念的にも知覚的にも再構築する。私の作品は、サイトを装飾したり、説明したり描写したりはしない」






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セラの彫刻は美術館の内部に収まりきれるものではなく、公共の場に設置されてこそ、その真価を発揮する。
1970年代から80年代にかけて、3部から成る『スピン・アウト:ボブ・スミッソンのために』(1972-73)、パリ、デファンス地区の『スラット』(1980-84)、はじめはパリのチュイルリー公園に設置された『クララ─クララ』(1983)など、「場の彫刻」のスケールは、しだいに巨大化していった。






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『スラット』は、4枚の鉄板を長方形に組み上げただけのものだが、この地区に林立する多彩なモニュメントのなかでも、とりわけ異彩を放っている。






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ヨーロッパには、ほかにも18本の石柱から成るアイスランド、ヴィデイ島の壮大なモニュメント『アファンガー』(1990)をはじめ、ロンドン、バルセロナ、ベルリン、ハンブルグ、バーゼルなどの諸都市に大作が設置されている反面、『傾いた弧』が撤去されてしまった故国アメリカでは、セントルイスとダラスの作品を数えるくらいなのが皮肉である。






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1970年の春、第10回東京ビエンナーレに招待されて初めて来日、上野公園に杉の木を植え、公園の地面に大きな鉄の輪を埋め込んだ。
その「場の彫刻」は日本の若い作家たちにも多大な影響を与えた。






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またセラにとって京都の禅寺の庭園をつぶさに研究したことは、「場の彫刻」の概念を啓発するところ大であったに違いない。






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☆☆☆やんジーのつぶやき
京都の禅寺の庭園をつぶさに研究したセラの脳裏に何が生まれたのか興味つきない。




























































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by my8686 | 2016-06-22 11:11 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)