カテゴリ:現代音楽のたしなみ( 18 )

一柳慧「好奇心のまま、型破りにいく」を読み解く

九州地方の集中豪雨、さらに北朝鮮のICBM発射による新たな脅威段階に入ったとする動きが大いに気になる今週末である。



それはさておき、一柳慧の最後のインタビュー記事を読み解いてみよう。


アフリカやインドの音楽家に「西洋音楽はだめだ」と言われたことがありました。人を建物に閉じ込めて、太陽が落ちた時間から演奏を始めて、しかも2時間という枠まであって。自然の摂理を無視した環境で音楽をやることに何の意味があるのかと。




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■西洋音楽は、旋律や和声やリズムなどの枠組みで全ての音を律する。そうした「決まり」から飛び出した現代音楽は、いわば身内から異なる価値観を示し、権威に疑いの目を向け、世界との新たな対話の道を探るものだった。





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これはまさしくジョン・ケージから受け継ぎ、今なお私の中で育ち続けている精神です。でも、ケージはベートーベンが嫌いだったなあ。私は最高だと思うのですが。

型を知り尽くした型破り。揺るぎない構築への志向と、我を忘れるくらいの奔放な精神。この両方を持っている人なんて他にない。自分のスタイルに固執し、それを展開させることで一生が終わってしまう人が多いなか、ベートーベンは自分のスタイルが完成しそうになってくるたびに打ち壊し、前に進んでいる。





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2012年に103歳で亡くなった前衛作曲家のエリオット・カーターも、90歳を超えてからがすごかった。晩年に挑戦する心が増してくるというのが本物ですよ。






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年をとってからの方が、社会からの束縛が少なくなるぶん、好奇心に純粋に従えるようになる。だから、古いものへの反発も逆に少なくなる。新しいか古いかは、実は面白いかどうかには関係ないんです。






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身体の方はそりゃあ、昔ほど元気ではないですが、若い頃にできなかった大変なことが軽々とできたりすることがあります。作曲でもピアノでも。

こだわりも消えました。筆も速いほうでしたが、今はちょっとくらい遅くてもかまわないだろうと思っています。先が見えないことを怖いと感じなくなりました。ということは、これからようやく本当の挑戦が始まるということなのかもしれませんね。





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☆☆☆GGのつぶやき
晩年に挑戦する心が増してくるというのが本物。
年をとってからの方が、社会からの束縛が少なくなるぶん、好奇心に純粋に従えるようになる。
だから、古いものへの反発も逆に少なくなる。新しいか古いかは、実は面白いかどうかには関係ない。
先が見えないことを怖いと感じなくなった。
これからようやく本当の挑戦が始まる。
一柳慧氏の一言一句が魂に沁み込んだ。
達観したこんな気持ちに近づきたいと官能が震えた。















































































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by my8686 | 2017-07-07 07:07 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「やってみなはれ!の心にふれて」を読み解く

佐治敬三氏との交流を語る一柳慧のことばに注目してみよう。




同じような信念を持つ人たちと、同じ時代を生き、ともに仕事をする。当たり前に思っていたことが、実はいかに幸運なことだったのか、年を重ねて気付かされました。立場やジャンルや思想の壁を越え、人間がどこまで響きあうことができるのか、挑み、確かめることが創造ということなのかな、とも思います。





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収益や評価といった結果より、創造に携わる者同士が刺激を与え合うプロセスにこそ、自分を懸けたい。こうした私の思いが間違っていないと信じさせてくれたのが、実業家の佐治敬三さんです。


■佐治敬三(1919~99)はサントリーを創業した鳥井信治郎の次男。社長時代の86年、「文化発信の拠点」を志し、東京・赤坂にサントリーホールを創設した。



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鳥井さんの名言「やってみなはれ」は、根っからの好奇心と、人間と芸術を信じる健やかな心を持つ人ならではの言葉でした。佐治さんはこの精神を自ら実践し、より力強く未来へとつなぎました。


一番驚いたのは90年代、独フランクフルトの国際見本市から、私の作品を演奏したいともちかけられた時のことでした。佐治さんに資金のご相談をしたところ、ぽんとお金を出してくれたのです。会社の稟議も通さなかったようで、相談した翌日には直接、お願いした金額が私の口座に振り込まれていました。




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新作初演の場にもよく来られましたが、内容に口出しすることはありませんでした。大阪生まれゆえ、関西のホールとタッグを組み、現代音楽演奏の機会も飛躍的に増やしてくださった。未知の聴衆と出会うチャンスをいただけることほど、作曲家にとってうれしいことはありません。





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私は戦争で束縛の苦しさを知り、ニューヨークで自由に目覚めました。音楽家ではない佐治さんが先頭に立って私たちの自由を守ってくれたことは、とても心強かった。





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信念を同じくする人々から本質的な何かを受け継ぎ、己の中での闘いを経て未来へつなぐこと。これも創造という営みなのかもしれないですね。




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☆☆☆GGのつぶやき
サントリー創業者の鳥井信治郎やその息子である佐治敬三の存在は文化人にとって心強いものであったろう。
学生時代、ウィスキーの飲み方も知らぬまま角瓶の口からがぶ飲みした「サントリーレッド」の苦さを、今でも忘れることができない。






































































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by my8686 | 2017-07-06 10:54 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「挑戦やりにくい今、若者に光を」を読み解く

一柳慧のインタビュー記事も最終章となった。


あらためて、その内容を読み解いてみよう。




1961年に帰国すると、あちこちで前衛芸術の風が吹き始めていました。ジャンルが違っても互いに関心を持ち、応援しあうオープンな空気が心地よかったですね。

■《音楽では57年、諸井誠、黛敏郎、吉田秀和らが「二十世紀音楽研究所」を創設。美術では高松次郎、中西夏之、赤瀬川原平の3人が63年、前衛芸術集団「ハイレッド・センター」を結成し、社会の秩序をかき乱す違法すれすれのパフォーマンスを路上などの公共空間で繰り広げていた。




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だいたい同世代なので、みんな自然に交流していましたが、私が一番影響を受けたのは建築家の人たちです。磯崎新さん、黒川紀章さん。ちょっと上の丹下健三さんも。

建築家が設計図を描くのは、楽譜を書くのに似ているところがあります。焼け野原となった日本に何かを建てるという現実的な課題に挑む一方で、彼らは実際に建てられるかどうかわからない設計図もどんどん描いていました。衝動のままに五線譜に音を書いていた、10代の頃の自分が重なりました。結果ではなくプロセスに命を懸ける。こうした子供のような純粋性こそが、前衛という精神の本質なのではないでしょうか。




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■自らも70年代、疾走する右手と左手の指の動きが少しずつずれてゆく「ピアノ・メディア」「タイム・シークエンス」など、演奏という行為の可能性を極限まで突き詰めた難曲で世界を驚かせる。

弾く人の都合は考えません。「易しく書いて」と言われても、すみません、気に掛けません。人間の力だけでどこまでの芸術表現ができるのか、妥協なく探ることに私は人生を懸けていますから。

ところが最近の若い演奏家の中から、そんな風に私が書いてきた曲を平気で「分解」したり、まったく思いつかなかった奏法や編成でやろうとしたりする人たちが出てきたのですから驚きます。怒らないのかって? いえいえ、面白いじゃないですか。実験を続けてきた私の曲が、次の世代の実験台になる。こんなに楽しいことはないですよ。





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同じ時代を走った仲間はもう、ほとんどいなくなってしまいました。若い人たちが、一緒に何かをやったり考えたりできる「同志」になりつつあります。ほぼ独学だった私たちの世代と違い、アカデミックな技術を身につけた優秀な人が多く、刺激的です。





■一昨年「一柳慧コンテンポラリー賞」を創設した。作曲家、演奏家、評論家ら、孤立しがちな現代音楽の現場を横断的に結ぶ人々に改めて光を当てたいとの思いから。賞金100万円は自腹だ。

若い世代にとって、自由な挑戦がやりにくい時代になったなあと感じるんです。私たちの時代は戦争の影が濃くて未来が見えず、これからの社会の形もはっきりしなかったので、逆に束縛なく実験に突き進むことができました。





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1970年代後半あたりから社会の形が整えられていき、芸術の世界も商業主義という社会の枠組みから逃れられなくなってきた。でも、そうした時代には、良きパトロンの矜持が私たちの実験を名実ともに支えてくれました。





■いけばな草月流の創始者、勅使河原蒼風は現代芸術への支援を惜しまなかった。息子で映画監督の宏も前衛芸術の拠点「草月アートセンター」を東京に創設、マース・カニングハムやジョン・ケージを招いた。セゾングループ代表を務めた実業家の堤清二は、東京・池袋の西武百貨店内で、最先端の芸術家が集うセゾン美術館を率いた。





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堤さんとは肩をたたきあい、遠慮なくものを言いあえる関係でした。辻井喬の名前で詩や小説も書いていらしたので、杉原千畝を主人公にしたオペラの台本を書いてもらったこともあります。世間知らずの私たちに代わり、資金を必死に用立ててくれた彼も、純粋な挑戦心で結びついていた大切な仲間でした。






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堤さんも世を去り、アートと社会を結んでくれる人も少なくなりました。それでも自分なりに道を見つけ、歩き始める若者たちがいる。ならば、やっぱり光を当ててあげたいと思うんです。どこまで続くかわかりませんけど。











☆☆☆GGのつぶやき
賞金100万円を自腹で出す。その心意気に頭がさがる思いがする。
孤立しがちな現代音楽の現場を横断的に結ぶ人々に改めて光を当てたいという強い思い。
自由闊達な挑戦にこそ未来を切り拓く力だ。










































































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by my8686 | 2017-07-04 22:53 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「ルールへの反発、自らの骨格に」を読み解く

昨日に引き続き一柳慧のインタビュー記事を読み解いてみよう。


■個人の感性を大切にする平尾貴四男と、理論的な裏付けを重視する池内友次郎。相次いで師事した2人は偶然にも、当時の日本の楽壇の両極を象徴する存在だった。




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池内先生の指導は、音楽本来の生命と対峙するというよりは教科書的にアプローチするタイプのものでした。でも私はピアノを弾いていましたので、そのあたりは大作曲家たちの筆の肉感から、すでに自ら学んでいたんですね。


池内先生は、松村禎三さんとか三善晃さんとか別宮貞雄さんとか、基礎をまじめにやってくる優秀なお弟子さんに慣れてらしたと思うんです。
でも、私は規則通りにつくるということそのものに全く「音楽」を感じられなくて。まずルールそのものが嫌いなんだけど、何より、音楽として生きていないルールに束縛されるっていうのがねえ。





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■作曲の世界では、「5度」「8度」と呼ばれる音程が連続する「平行5度」「平行8度」など、様々な「禁じ手」を最初に教えられる。




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そんなの、すばらしいピアノ曲にいくらでも出てきますよ。こんな形骸化した締め付けを、なぜ今さら学ばなくちゃいけないのかと。自分の世界をとことん広げていきたい時期に、理屈で抑え込まれるのが我慢ならなくて。

池内先生もそんな私のいらだちに気付かれたようで、レッスンが進まなくなってしまいました。若さゆえのわがままでもありましたが、こういう頑固さは父譲りかもしれません。





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ただ、池内先生に引き出していただいた反発心が、52年にアメリカへと飛び出すエネルギーになったのは間違いありません。





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同じ作曲の道を歩む先生方の、極端な方向性のギャップを知ったことで、納得できないルールに追随できない自分の性格に気付き、それを自分自身の骨格にすることができた。

そうしてできた骨格に、同じ時期にピアノを教わった原智恵子先生の豊かな感性が肉付けしてくださった。抑圧と解放のダイナミズムが、アメリカ行きへの大きな踏み台となったのです。




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☆☆☆GGのつぶやき
既成概念に抗う。時代の空気感に抗う。
常識とされていることに不自然さを感じる年齢というものが確かにあった。
高校生時分に感じたあの窮屈さに似た感覚であろう。
学校に抗い、教師に抗い、家庭に抗い、父親に抗い、社会に抗い。
反抗することで相手の価値感を推し量っていた時期でもある。
その抗う力を別次元のエネルギーで爆発せるものこそ、真の本物に見えた。

























































































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by my8686 | 2017-06-30 10:22 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「高校生で無調作曲、前衛の片鱗」を読み解く

戦後の混乱期、一柳慧がいかに音楽に心血を注いでいたのか、彼のインタビュー記事を読み解いてみよう。


戦後、片っ端からピアノの先生の門をたたきました。でも、肝心の楽譜が手元にほとんど残っていなくて。チェロの楽譜だけは父が持ち出していたんですが、母はピアニストとしてはアマチュアだったし、家族を支えるのが大変でそれどころじゃなかった。



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モスクワ音楽院に学んだ名ピアニストで、戦前から日本に根を張って多くの弟子を育てたポール・ヴィノグラドフにショパンの練習曲を教わった時は、新しい世界へと開かれてゆく感覚になりました。
私が作曲に関心があると知り、同じショパンやベートーベンでも、基本となる名曲から優先して次々教えてくれたのがありがたかったです。





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■本格的に作曲を学ぶため、進駐軍で一緒に演奏の仕事をしていた作曲家、平尾貴四男(1907~53)に弟子入りする。パリに学び、日本的な感性が息づく独特の作風で多くの室内楽作品を手がけた。冨田勲の師でもある。





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進駐軍で弾いている軽い曲ではだんだん満たされなくなってきて、ふと自分でつくってみようかなと。やってみたらおのずと無調に近いものになりました。でも、平尾先生が思いがけず面白がってくれて。創作の方法や素材の展開のさせ方など、とても丁寧に指導してくださいました。
一番うれしかったのは、私の嫌いな教科書を押しつけられなかったこと。初心者扱いせず対等に批評してくださり、勇気づけられました。





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■平尾の柔軟な指導が実り、才能を開かせ、1949~51年、日本音楽コンクールで3年連続の入賞を果たす。


とても残念なことに、平尾先生が病気になられてしまって。それで、同じパリ帰りの池内友次郎先生(1906~91)を紹介されました。俳人、高浜虚子の次男としても知られています。




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和声法や対位法の教科書を編まれた理論派で、私の発想を一緒に楽しんでくれた平尾先生とは対極的でした。この辺りから私ははっきりと、自分が書きたいもの、進みたい道を定めてゆくことになるのです。





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☆☆☆GGのつぶやき
一柳慧の前衛的なる発想に官能が反応した。
自分が書きたいもの、進みたい道を定めていく時期に何が去来したのか。
新しい世界へと開かれてゆく感覚。
追い求める世界が深ければ深いほど、次元が複層していく。









































































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by my8686 | 2017-06-29 17:34 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「パリ帰りの原智恵子さんに師事」を読み解く

戦後、一柳が原智恵子に師事した当時を振り返る、貴重な体験談である。




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あらためて、その内容を読み解いてみよう。


疎開先から東京に戻り、とにかく勉強しなくちゃといろんな先生に就きましたが、原智恵子さんに師事できたのは本当に幸運でした。パリに学んだ同士のよしみか、父が話をつけてきてくれました。

■原智恵子(1914~2001)
日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業し、ショパン国際ピアノコンクールにも出場した国際派ピアニストの草分け。イタリアでチェロの巨匠ガスパール・カサドと結婚、華やかな私生活でも話題を振りまいた。



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素晴らしい人格者でした。だいたい、あの時代にどうやって空襲をしのいだのか知りませんが、パリで買ってきた貴重なレコードを弟子に好きなだけ貸してくれるんですから。ギーゼキング、ルービンシュタイン、コルトー。当時ではあり得ないことでした。




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■当時の日本の楽壇はドイツ音楽一辺倒。しかし、原はそうした固定観念なしに、新しいレパートリーをしなやかに日本に紹介していく。

ドビュッシーが最前衛だった時代に、ショーソンのようなしゃれたものも弾いていた。




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室内楽もよくなさっていて、私、演奏会のたびに原さんから譜めくりを頼まれたんです。あれは職人技でしてね。どこでめくってほしいかという生理的なタイミングは、同じ楽器が弾ける者でなければわかりません。楽譜を眺めながら生の演奏を聴くのは何にも勝る勉強でした。



■1952年に渡米を決意したとき、背中を押してくれたのも原だった。

留学先というと当時はドイツかパリでした。でも、今ならば戦争のダメージから立ち直っていない欧州より、アメリカの方が音楽だけに集中できていいのではないかと。



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実際に欧州で仕事をしていた人だからこその的確なアドバイスでした。我が家にも、米兵たちが家族恋しさで遊びに来たりしていたので、彼らの気質とか、そういうものに何となく親しんでいました。自由を求めてパリに行った若かりし頃の父が、ちょっぴり理解できる気がしたものです。




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☆☆☆GGのつぶやき
いつの時代にも稀有な文化人がいる。
戦時中にもかかわらず地下壕で感性を磨き続けた豪傑もいたろう。
原智恵子を知ることで、ガスパール・カサドやギーゼキング、ルービンシュタイン、コルトー、ショーソンに辿り着く道程にも官能が疼いた。










































































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by my8686 | 2017-06-28 13:11 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「日本の作曲家も時代に挑んでいた」を読み解く

本日も一柳慧のインタビュー記事を読み解いてみよう。

1950年代後半以降から、劇作家の寺山修司氏、建築家の黒川紀章氏、グラフィックデザイナーの粟津潔氏ら刺激的な天才がどんどんニューヨークに集まり、日本人同士の交流から学ぶものが増えた。でも音楽家はまだ少なかった。團伊玖磨さんはそんな時代にニューヨークで人脈を広げた数少ない作曲家のひとりでした。




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■團伊玖磨(1924~2001)はオペラ「夕鶴」や童謡「ぞうさん」の作曲者。アジアの文化交流に尽くし、「パイプのけむり」など洒脱なエッセーでも知られる。




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彼の管弦楽の書法は素晴らしかったなあ。当時の日本人の管弦楽作品は、叙情的で感情に訴えるものが多かったけれど、彼の作品は金管が多く、とても力強かった。

前衛的な音楽には背を向けていたけれど、だからといって新しくないというわけではなかった。自分が信じている音楽を表現することで、彼も私たちと同じように時代に挑んでいるのだと気付きました。






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■團と並び、日本の作曲界のフロントランナーだった黛敏郎(1929~97)もアメリカに。巨大な「涅槃交響曲」で世界を驚かせ、テレビの司会者まで務める。4歳上の黛のマルチな才能の在り方に、一柳は圧倒された。



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私が日本に帰る半年前、黛さんが突然、ニューヨークに3カ月くらい来られたんです。ジョン・ケージを紹介したところ、気に入って彼にぴったり張り付いてしまった。自分とはまったくタイプが違うのにね。とにかく、非常に感覚の鋭い人でした。






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芸大時代にガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」をやったと聞きました。日本で当時、あの曲を知っていた人なんてほとんどいなかったんじゃないかな。彼はジャズの曲も書いていますが、聴いたことありますか? 実に素晴らしいんですよ。



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調性を壊すことばかりが革命ではない。日本にいた人たちも、彼らなりの前衛精神で闘っていた。あの時代の自由さは、今も振り返るたび、とてもいとおしいです。









☆☆☆やんジーのつぶやき
寺山修司、黒川紀章、粟津潔。
1960年代をリードした天才達の活躍ぶりに官能が沸騰したことを思い出す。
高校生時代に粟津潔の存在を芸術雑誌で知った。
それが、デザインを志す動機となった。
氏の著書「デザインに何ができるか」と「粟津潔デザイン図絵」は、あの時代の聖書であった。
ベンシャーンを幻の師と仰いだ粟津に共感した時代でもあった。












































































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by my8686 | 2017-06-23 16:13 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「何にも属さないのがオノ・ヨーコ」を読み解く

昨日に続き一柳慧のインタヴュー記事を読み解いてみよう。


■多種多様な芸術ジャンルが互いの垣根なく、それぞれの「常識」を突き崩し、時代の表現を探していた50年代のアメリカ。その象徴的存在だったモダンダンスの巨匠、マース・カニングハム(1919~2009)の新作で、音楽をたびたび担当した。




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彼は、音楽には驚くほど注文をつけませんでした。こういうタイトルで、これぐらいの長さのものをつくるのでよろしく、という感じ。一緒に作品をつくるアーティストをコントロールしようという気が全くなかったんです。





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自分のダンスが音楽を従えるというのではなく、そこに集うすべての芸術を等価にするという感覚。これは新鮮でした。ニューヨークのアート界を牽引していた画家のジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグに対しても、同じことを言っていましたね。観客にも、ひとりひとりが自分なりの見方で舞台を見ることを求めました。






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ラウシェンバーグは「禁じ手」で自己表現する人でした。最初から照明をつけないとか、光を横の同じ位置に固定して当て続けるとか。俳優やダンサーをスポットライトで追うだけという手法がいかにありきたりか、逆に鮮明になる。これは強烈でした。





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■様々な日本人芸術家との交流も盛んだった。中には後に結婚することになる、前衛芸術家のオノ・ヨーコも。



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内的な闘いを表現する彼女の作品は、アメリカのアートシーンでも特別な存在感がありました。彼女そのものがひとつのジャンルだった。もとは詩人ですが、何にも所属しないというのが彼女自身のアイデンティティーでした。






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一緒にやった仕事はあまりないのですが、社会通念にとらわれず、自分の胆力で本質を見いだしていく力は魅力的でした。私も参加した2001年の横浜トリエンナーレで、貨物列車を使った彼女の作品を見ました。






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人間を入れず、音だけを仕込んで、アウシュビッツに運ばれていく人たちが詰め込まれた風景を想起させた。いい発想だな、彼女らしいな、と思いました。





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☆☆☆やんジーのつぶやき
一柳は、1956年にオノ・ヨーコと結婚し1962年に離婚している。
学生時代、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの一連の平和運動パフォーマンスには辟易とさせられた記憶がある。
ビートルズを解散させ、ジョンを早死にさせた女性という悪いイメージが強いが、アートパフォーマンスの発想には瞠目させられた。
熱き時代の残像として今も棘のように記憶の壁に刺さっている。













































































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by my8686 | 2017-06-22 12:57 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「どの音も対等、現代の私たちの象徴」を読み解く

昨日に続き、一柳慧のインタヴューコラムを読み解いてみよう。


ジョン・ケージは、禅の文化を世界に広めた仏教学者、鈴木大拙(1870~1966)に心酔していた。のちに一柳の手引きで、日本でも面会を果たしている。



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何にもとらわれない。自己主張しない。あるがままに生きる。そんな大拙の教えを、ケージは自分の芸術で実践しようとしていました。





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かの「4分33秒」も1952年、大拙に感化されて生まれました。

ケージ自身にとっての「禊ぎ」の作品です。自分から発するものだけを音楽と思うなかれ。いま、この場で鳴り響いているすべてが音楽なのだ、と。

ケージのものの見方、考え方、すべてがこの作品をきっかけに変わりました。非西欧の社会の人々に積極的に会い、西洋的なモノサシに感化された自身の価値観に疑問符を突きつけるようになった。私自身も時間と空間を、別々の概念でなく、互いに浸透しあう関係としてとらえるようになりました。





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■「4分33秒」が転機となり、ケージは五線譜を離れ、自身のルールに基づく自在な図形楽譜を書き始める。





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私も彼の影響で、50年代からずいぶん奔放な図形楽譜を書くようになりました。もっとも帰国すると、徐々に人間の手触りを感じる五線譜に戻っていったわけですが。

こんな風に、作曲の手法が多様かつ複雑になるにつれ、現代音楽が一般の人々の感覚から離れていったという批判もあります。でも、私にはこの「自由」が救いだった。





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クラシック音楽っていうのはもともと、王様とか貴族を喜ばせるためのものだった。でも、時代は変わった。今はひとりひとりが自分の人生に自覚を持ち、主張し、表現して生きていく社会です。

調性やメロディーやハーモニーといったくびきを逃れた1音1音は、現代を生きる私たちの象徴。どの音も互いに従属せず、対等に立ちながら、ひとつの社会の一員として世界を呼吸している。

調性を捨てた現代音楽は、そうした社会を渇望する人々の無意識が、表現となってあらわれ出たものではないかと。




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☆☆☆やんジーのつぶやき
くびきを逃れた1音1音に魂を込める。
どの音も互いに従属せず、対等に立ちながら、ひとつの社会の一員として世界を呼吸する。
しかし、いまだに世界のどこかで戦争とテロが勃発している現実に目を背けずにいたい。





























































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by my8686 | 2017-06-21 18:04 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧の語る「人生の贈りもの 戦後、自由の国でケージと出会う」を読み解く

作曲家一柳慧氏のコラムが昨日からAH誌に掲載されている。

一柳慧といえば、1950年代のアメリカで世界的アーティストたちと垣根を越えた人脈を築いた先駆的音楽家として知られる。

作曲家ジョン・ケージやオノ・ヨーコ、画家のジャスパー・ジョーンズ、モダンダンスのマース・カニングハムなど最先端の前衛芸術達である。



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「演奏」という枠を超えた舞台上のパフォーマンスで伝統や権威から音楽を解放してきた。今なお現代音楽界のトップランナーといって過言ではなかろう。




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あらためて、彼のインタヴューを読み解いてみよう。


現代音楽の道に足を踏み入れたのは、そこに自由の可能性を感じたからです。既存の手法に、さらには音楽というジャンルにすら束縛されず、どこまでも開かれた世界で生きていきたかった。

そんな決意の礎となったのが、何者にも心を縛られてなるものかという強烈な反抗心でした。





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戦後、家計を助けるため、進駐軍のクラブでピアノを弾いていたことがありました。まだ10代でしたが、将校も兵隊も友人のようにレコードや楽譜を貸してくれて驚きました。人間は誰もが対等。弱き者は助ける。この感覚に、自分が渇望してやまない自由の本質を見た気がしました。





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■1952年の秋、前衛芸術のるつぼだったアメリカへ。あらゆるジャンルが連携して新たな表現を模索する、強烈な前衛芸術の世界のただ中に飛び込んだ。ミネソタ大学を経て、ニューヨークの名門ジュリアード音楽院に。画廊などに入り浸って出会いを広げ、自由を謳歌する。





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多様な芸術家が集まったのは、大戦のあだ花でもありました。民俗音楽を創作の礎にしたバルトークや現代音楽の基盤を築いたシェーンベルクら、最先端の作曲家たちが欧州から相次いで逃げてきましたから。

戦後も、破壊された欧州からアメリカに来ることを望む芸術家は少なくなかった。この時代のアメリカにいることそのものが、伝統や制度といった「枷」への抵抗だったのかもしれません。






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■この地で前衛音楽の旗手、作曲家のジョン・ケージ(1912~92)と運命の出会いをする。あらゆる素材を使い、音楽の概念を変えた20世紀最大の実験音楽家。演奏者が一切音を発さず、その間にきこえる雑音の全てを音楽としてとらえる「4分33秒」で世界に衝撃を与えた。






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彼こそ、私が進駐軍で憧れていた、寛大な良きアメリカ人そのものでした。彼の曲の多くを初演したピアニスト、デイビッド・チューダーのリサイタルに行くと客席にいたんです。終演後、チューダーに紹介してもらい「あなたの音楽は、時間にも何にも縛られていない」というような正直な意見を片言で言ったように覚えています。





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すると「明日、遊びにこないか」。

そんな彼と同じく、家も変わっていました。家具がまったくないんです。考え方や行動が影響を受けるからと。椅子もなく、床に座って話をしたような覚えがあります。









☆☆☆やんジーのつぶやき
学生時代に衝撃を受けたのは吉田喜重や松本俊夫の映画音楽だった。
吉田秀和をして「ケージ・ショック」と言わしめるほどの衝撃を日本の音楽界に与えた。
一柳慧の存在は今も鮮烈でありあの時代の残像がふつふつと官能を沸騰させる。
あらためて、もう一度彼がかかわった映画を観たいと思った。




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■おとし穴(1962年、勅使河原宏監督)
■エロス+虐殺(1970年、吉田喜重監督)
■エクスパンション<拡張>(1972年、松本俊夫監督)
■戒厳令(1973年、吉田喜重監督)
■色即是空(1975年、松本俊夫監督)
■湾岸道路(1984年、東陽一監督)





































































































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by my8686 | 2017-06-20 14:30 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)