リヒターと月下美人と現代詩「感幻楽」

日曜日の朝、昨年我家の玄関先に咲いた月下美人の写真をみていたらリヒターの写真論が脳裏によみがえった。


「写真は、いうまでもなく具象として現れる。しかしそれを複数枚組んでいくと、そこに色の量としての次元、そして反復による抽象化の次元が立ち現れてくる。ぼくはそのことについて、尽きない関心があるんだ」


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「絵画は、写真の登場によって部分的に役目を奪われてしまった。その結果、具象絵画は過去のものとされ、抽象絵画が進むべき道として考えられた。けれどもそれは はたしてしあわせなことだったろうか。ぼくはそうはおもわない。ぼくは、人類の全芸術史を視野におさめ、この2項対立を活性化させ、さらなる高みで融合させたいんだ」




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「ぼくは、日常/芸術という分離をのりこえ、より高い次元で、生きることそのものを芸術にしたいんだ」




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さらに、塚本邦雄の短歌が脳裏をめぐる。


暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ


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「感幻楽」より

こころは肉にかよふ葉月のうすら汗武者が髪結はるる頸の汗




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馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ




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言葉、青葉のごとし かたみに潸然と濡れて世界の夕暮に遇ふ




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はやき死を待たるることのさはやかに三月の芹スープにうかぶ




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壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひちすぢのきず




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少年発熱して去りしかば初夏の地に昏れてゆく砂絵の麒麟






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☆☆☆やんジーのつぶやき
今年ももう少しで月下美人が咲く。
ある夜、突然咲き乱れる月下美人。
今年はどんな狂い咲きをみせてくれるのか。





















































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# by my8686 | 2015-07-05 08:21 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Richter of art book

土曜の早朝、MTBを愛車86に積み込みいつものスーパー銭湯パーキングへ向かう。
そこから約2時間いつものお気に入りサイクリングコースを快走。

川沿いの景色を眺めながらひた走る。
山鳥、川のせせらぎ、川面の風景を楽しみつつひた走る。

曇り空のなか涼しい風が心地よい。
滲み出る汗も風に吹かれて心地よく乾く。

サイクリングの後は風呂の湯で汗を流しサウナと水風呂で身体を癒す。
露天のジャグジーで全身の緊張を解す。
心地よい疲労感がさらに官能を解す。

風呂から帰ればさっそくランチホッピーで好物の枝豆と焼き鳥を食す。
仕上げは黒霧島のロックを軽く2杯。

少しほろ酔い気分でワイフとランチベッドイン。
その後は、熱いシャワーを浴びて午睡へと落ちる。



それはさておき、午睡から覚めた土曜の夕方は、リヒターの書籍をみてみよう。


リヒター曰く
「絵画とはあるいは、別の状態になっていくということです。そう、すでにアインシュタインのあのエネルギーと質量の公式です。質量、エネルギー、そうなのです。」




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仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされる。





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リヒター曰く
「見かけと実際」「実存と仮象」。
「虚が実になり、実が虚となる。」





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仏教では十二因縁の根源に無明をおく。
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。




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我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。




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すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。
この四諦、八正道を知らないことも無明である。




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たとえば、闇について、多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。
しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。




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闇がどこか別のところに移動したわけではない。
つまり、闇は始めから存在しなかったということである。
闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。




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精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。
智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。




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苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。
実際には無いものを有ると考えるのは無明である。




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☆☆☆やんジーのつぶやき
人間の構成要素を五蘊と分析する際には、識蘊としてその一つに数えられる。
この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいう。
事物を了知・識別する人間の意識に属する。

リヒターの言う、「虚が実になり、実が虚となる。」も同意であろう。

また古い経典には、識住(vijJaanasthiti)と言われ「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとされる。
分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は営む。

しかしながらいずれも、人間は「五蘊仮和合」といわれる。
物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合し形成されたものだと考え、固定的に人間という存在があるとは考えられていない。

まさに、リヒターの絵画には「智慧の光」が耀き官能を煽る。






















































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# by my8686 | 2015-07-04 18:06 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Words of Gerhard Richter

トヨタ自動車は3日から、先月の株主総会で注目を集めた異例の新型株の申し込みを正式に受け付ける。
事前の予約だけで、発行数の5倍近い数が殺到しているとされ、希望通り買えない人が出る可能性が高い。
今回の発行でトヨタは4749億円を手にする。

トヨタは今後も新型株を発行し、発行済み株式の5%弱を切り替える計画。
これにより総額で約1・5兆円が集まると想定。全額を次世代技術の研究開発に回す。
今後10年間は毎年の予算を増やし、年平均で直近の5割増の1500億円を投じることを検討しているという。



それはさておき、ゲルハルト・リヒターの言葉を反復しつつ作品に触れてみよう。



「単純で、変にごちゃごちゃしていない構成の『素朴』な写真の方が好きだ。だからモナリザはとても気にいっている。モナリザには何もないから。」



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「コンポジションは重要な問題ではない。写真を選別するとき、せいぜい否定的な役割を演じるくらいである。つまり、ある写真の魅力は際立ったコンポジションにあるのではなく、その写真が表出しているもの、つまりその情報にある。またコンポジションが正当性をもつのは常に偶然である」




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「写真を集め(今では多くの人が送ってくれることもある)そして繰り返し眺める。といっても『芸術写真』ではなくて、素人写真や、ありふれた報道写真である。芸術写真は技巧やトリックが透けて見えて、退屈なのだ」



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「私には従うべき意思もないし、システムも方向性もない。プログラムもスタイルも関心ごとももたない。美学上の問題、作品の主題、ヴァリエーションや名人芸などどうでもよい。決めつけられるのは御免だ。自分に求められるものなど知らない。」




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「いい作品を描くためにはあまりにも才能に恵まれすぎているような、一群の画家がいるのだ。何かができるということは、何かをする理由にはならない。だから私は『構成されていない』写真を愛するのだ。それはある出来事について報じる以外の何も望んではいない。」




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「私は様式の全くないものを愛する。それは辞書であり、写真であり、自然であり、わたしであり、わたしの絵画である。なぜなら様式は暴力であり、わたしは暴力的ではないからだ」




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「わたしはいかなるイデオロギーの支えも持たずに考え、行動することを誓った。私を助けることができるものは何もなく、わたしが仕えることのできる、あるいは逆に私がすべきことを教えることのできるいかなる考えも存在しない。いかなる規則もどのようにやるのかを決めず、いかなる信念もわたしに道を示すことはなく、いかなる将来の展望も、いかなる構築も高度な意味を与えてはくれないのである」




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さらに、リヒターの技法についてみてみよう。

表面のテクスチュアについては、偶発性による様々な表現の可能性に気付き、様々な試みを積み重ねる。



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ワイパーで押し潰され、引き延ばされた絵具による表面は、マチエールを形成しない、ツルツルの表面であり、絵具は画面の内部に塗り込められ、深さを伴うテクスチュアとして定着される。




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リヒターの画面が表面にとどまらず、絵画的な深さを志向するものである。




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リヒターの手法が絵画空間の深さを形成させやすく、表現の幅広さを志向するものである。




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リヒターの作品に潜む「表現への意思」を通じて、抽象絵画についての理解を深め、表現の多様さを学ぶ。




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☆☆☆やんジーのつぶやき
謹むべきリヒターの言葉に官能の振動が増幅されていく。

「様式は暴力である。」
「芸術写真は技巧やトリックが透けて見えて、退屈だ。」

※近年、この透けて見えるものが増えてきた気がする。




「私を助けることができるものは何もなく、わたしが仕えることのできる、あるいは逆に私がすべきことを教えることのできるいかなる考えも存在しない。」

※自己に縛られず、他者を縛らず、ましてや他者に縛られることのない無の境地を説いているのか。




「いかなる規則もどのようにやるのかを決めず、いかなる信念もわたしに道を示すことはなく、いかなる将来の展望も、いかなる構築も高度な意味を与えてはくれないのである。」


仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。
仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しないとする。

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。
輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。

なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。
恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。
このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない。

※リヒターもこのことを言いたいのだろうか。



























































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# by my8686 | 2015-07-03 09:29 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

The colored smeared landscapes: Gerhart Richter’s landscape art

米国のオバマ大統領は1日午前(日本時間2日未明)、米国とキューバ両政府が大使館を再開させ、1961年の国交断絶以来、54年ぶりに国交を回復させると発表した。
今月20日にも現在の両国利益代表部を大使館に格上げする。
ケリー国務長官が今夏にキューバを訪問することも明らかにした。
国交断絶以来、米国務長官がキューバを訪問するのは初めてとなる。

オバマ政権は対キューバ制裁を緩和。
4月には、オバマ氏とラウル氏による半世紀ぶりの米キューバ首脳会談が実現し、米政府は5月にテロ支援国家の指定を正式に解除した。

ただ、キューバが求める禁輸措置の全面解除や米国が求める人権状況の改善など、両国の間には未解決の課題が残っている。
オバマ氏は1日、議会に残された制裁の解除を求めた。
両国政府は二国間関係の正常化までにはなお時間がかかるという立場で、引き続き関係正常化のための交渉を続ける方針だという。



それはさておき、ゲルハルト・リヒターの風景芸術についてみてみよう。



成瀬 厚氏による論評「塗り重ねられた風景:ゲルハルト・リヒターの風景芸術」から

リヒターは 1932 年東ドイツ生まれの芸術家であり,特に西ドイツに移住してからの 1960 年代から数多くの作品を手がけ,その主題や形態は非常に多岐にわたる。
そのなかでも,彼の名前を有名にさせ,1960 年代から取り組み,多くの風景画にも応用されているのがフォト・ペインティングである。



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印刷メディアに掲載された写真やリヒター自身が撮影した写真を元にし,それを油彩で模倣し,ぼかしや重ね塗りなどを施す手法である。




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また,彼は抽象画も多く手がけており,具象と抽象,写真と絵画などの二項対立を止揚する芸術家といわれている。



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彼は自身の一連の作品アーカイヴに『Atlas』(1972年~)と名付け,2011 年の回顧展は『Panorama』と名付けられた。





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1998 年に展示・出版された『Landscapes』を中心に考察された。





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Gandy はボイス(Joseph Beuys,独,1921-1986)とリヒターの対照的な自然表象を分析しているが,『アトラス』が中心でリヒターの風景芸術の詳細を考察する余地を残している。




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リヒターの風景画はタイトルに Landschaft の語が用いられたり,具体的な地名が用いられたりする。
一方で,抽象画のタイトルは直接的に Abstraktes Bild とされたり,色の名称などの一般名が用いられたりする。

形式的には区別される風景画と抽象画は図像的には連続,ないしは相互浸透している。
風景の代替的な見る方法は,Crouch and Toogood(1999)が明らかにしたような日常の動態的で複雑な地理的経験を絵画空間に創造することだけでない。




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リヒターは風景写真を用いることで,複雑な地理的経験を排除し,風景画という画像を単なる色彩構成とみなし,風景が有する事物の空間的近接性に基づく美的秩序を内省的に批判する。




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☆☆☆やんジーのつぶやき
リヒターの一見無秩序に見える表現の変遷の中に計算された二項対立意識が読み取れる。
具象と抽象,写真と絵画。
既成の美的秩序を解体することで官能を暴力的に煽る。
その快感に人々は酔い痴れる。

































































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# by my8686 | 2015-07-02 14:29 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

Transition Social Orientation: Gerhard Richter

神奈川県を高速で走る東海道新幹線のぞみ225号の車内で、昨日30日に火災発生。
油のようなものを自らかぶって死亡した林崎春生容疑者(71)は火をつける直前、涙を浮かべていたという。
逃げ場のない密室で起きた突然の惨事。
乗客たちは青ざめ、恐怖にさらされた。

日本の安全神話がもうひとつ崩壊していく。

それはさておき、昨日に続きリヒターの変遷ぶりをみてみよう。


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リヒターにおける進歩信仰、芸術信仰の欠如は、既に彼の生い立ちと、その後の人生によって形作られた。




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1932年ドレスデンに生まれ、30才も目前の1961年になって西ドイツへ移住。
社会主義リアリズムの教育から逃れたが、同様にここでの抽象表現主義にも満足することはなかった。
この反発をきっかけとして、リヒターは、彼が1963年までアンフォルメルの巨匠カール・オットー・ゲッツに師事したデュッセルドルフ美術アカデミーでの学友、コンラート・リューク-後の画商コンラート・フィッシャー-そしてジグマー・ポルケやブリンキー・パレルモと親交を結ぶ事となった。



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ポルケと同様、旧東ドイツDDRからの亡命者という立場から、彼は知的な位置付けをされ、それにより、ポップアート、ミニマルアート、コンセプチュアル・アートの様な、やがて押し寄せるアヴァンギャルドの流れや抽象主義の様々な変種に対して、懐疑的な観察者として近づいて行くことが出来た。



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デュッセルドルフの大型家具店で行われた、消費社会に対するアイロニカルな批判である彼らの「資本主義リアリズムのためのデモンストレーション」に対して、センセーショナルであるとかポップな態度であるとかという誤った解釈がなされるべきではない。



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リヒターは、絵を一枚描くごとに、絵画は現実の信頼できるコピーを作ることは出来ないとの認識を強くしていった。



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この懐疑的態度から発して、彼は、写真を用いたおそらくより客観的な手法を介する迂回を試みた。



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彼自身、この媒体もまた個人的色合いを帯びてしまうことを認識した上での事だが…。



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これ以後、彼は雑誌や広告に載った何の変哲もない写真を模写し、乳牛、顔の一部分、走行中の車、ポルノ写真あるいはオンケル,Onkel ルーディ,Rudi(ルーディ叔父さん)を描いた伝記的なモティーフ等の様な対象を、カンバス上で幻のようにしか認識出来なくなるまでぼかし、そして絶え間なく見る者の視覚を試す。




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それによって実物のドキュメントとしての写真に、さらに絵としての新しい現実を与えるのである。




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リヒターは彼の作風上の特徴を消し去ろうとしているにもかかわらず、それは常に容易に見分けることが出来る。



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全ての細部に同等の意味を与えるための努力に、内容的な平凡さが対応している。




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色彩におけるヒエラルヒーや理想的な分類は存在しない。



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☆☆☆やんジーのつぶやき
リヒターのことばである。
「私はプログラムも、様式も持っていないし、これといった関心事もない。」
まさに南無の境地。
何事にも耐え偲び、穏やかで素直な気持ちで生活し、南無妙法蓮華経と唱えてでもいるかのようだ。
既成の芸術信仰などにとらわれず、こだわらず、まさに無の境地に近い。
だからこそ、見る者の視覚を幻惑し官能を刺激し昂ぶらせつつ無我の境地に誘う。

























































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# by my8686 | 2015-07-01 18:36 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)