一柳慧「何にも属さないのがオノ・ヨーコ」を読み解く

昨日に続き一柳慧のインタヴュー記事を読み解いてみよう。


■多種多様な芸術ジャンルが互いの垣根なく、それぞれの「常識」を突き崩し、時代の表現を探していた50年代のアメリカ。その象徴的存在だったモダンダンスの巨匠、マース・カニングハム(1919~2009)の新作で、音楽をたびたび担当した。




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彼は、音楽には驚くほど注文をつけませんでした。こういうタイトルで、これぐらいの長さのものをつくるのでよろしく、という感じ。一緒に作品をつくるアーティストをコントロールしようという気が全くなかったんです。





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自分のダンスが音楽を従えるというのではなく、そこに集うすべての芸術を等価にするという感覚。これは新鮮でした。ニューヨークのアート界を牽引していた画家のジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグに対しても、同じことを言っていましたね。観客にも、ひとりひとりが自分なりの見方で舞台を見ることを求めました。






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ラウシェンバーグは「禁じ手」で自己表現する人でした。最初から照明をつけないとか、光を横の同じ位置に固定して当て続けるとか。俳優やダンサーをスポットライトで追うだけという手法がいかにありきたりか、逆に鮮明になる。これは強烈でした。





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■様々な日本人芸術家との交流も盛んだった。中には後に結婚することになる、前衛芸術家のオノ・ヨーコも。



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内的な闘いを表現する彼女の作品は、アメリカのアートシーンでも特別な存在感がありました。彼女そのものがひとつのジャンルだった。もとは詩人ですが、何にも所属しないというのが彼女自身のアイデンティティーでした。






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一緒にやった仕事はあまりないのですが、社会通念にとらわれず、自分の胆力で本質を見いだしていく力は魅力的でした。私も参加した2001年の横浜トリエンナーレで、貨物列車を使った彼女の作品を見ました。






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人間を入れず、音だけを仕込んで、アウシュビッツに運ばれていく人たちが詰め込まれた風景を想起させた。いい発想だな、彼女らしいな、と思いました。





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☆☆☆やんジーのつぶやき
一柳は、1956年にオノ・ヨーコと結婚し1962年に離婚している。
学生時代、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの一連の平和運動パフォーマンスには辟易とさせられた記憶がある。
ビートルズを解散させ、ジョンを早死にさせた女性という悪いイメージが強いが、アートパフォーマンスの発想には瞠目させられた。
熱き時代の残像として今も棘のように記憶の壁に刺さっている。













































































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# by my8686 | 2017-06-22 12:57 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧「どの音も対等、現代の私たちの象徴」を読み解く

昨日に続き、一柳慧のインタヴューコラムを読み解いてみよう。


ジョン・ケージは、禅の文化を世界に広めた仏教学者、鈴木大拙(1870~1966)に心酔していた。のちに一柳の手引きで、日本でも面会を果たしている。



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何にもとらわれない。自己主張しない。あるがままに生きる。そんな大拙の教えを、ケージは自分の芸術で実践しようとしていました。





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かの「4分33秒」も1952年、大拙に感化されて生まれました。

ケージ自身にとっての「禊ぎ」の作品です。自分から発するものだけを音楽と思うなかれ。いま、この場で鳴り響いているすべてが音楽なのだ、と。

ケージのものの見方、考え方、すべてがこの作品をきっかけに変わりました。非西欧の社会の人々に積極的に会い、西洋的なモノサシに感化された自身の価値観に疑問符を突きつけるようになった。私自身も時間と空間を、別々の概念でなく、互いに浸透しあう関係としてとらえるようになりました。





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■「4分33秒」が転機となり、ケージは五線譜を離れ、自身のルールに基づく自在な図形楽譜を書き始める。





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私も彼の影響で、50年代からずいぶん奔放な図形楽譜を書くようになりました。もっとも帰国すると、徐々に人間の手触りを感じる五線譜に戻っていったわけですが。

こんな風に、作曲の手法が多様かつ複雑になるにつれ、現代音楽が一般の人々の感覚から離れていったという批判もあります。でも、私にはこの「自由」が救いだった。





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クラシック音楽っていうのはもともと、王様とか貴族を喜ばせるためのものだった。でも、時代は変わった。今はひとりひとりが自分の人生に自覚を持ち、主張し、表現して生きていく社会です。

調性やメロディーやハーモニーといったくびきを逃れた1音1音は、現代を生きる私たちの象徴。どの音も互いに従属せず、対等に立ちながら、ひとつの社会の一員として世界を呼吸している。

調性を捨てた現代音楽は、そうした社会を渇望する人々の無意識が、表現となってあらわれ出たものではないかと。




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☆☆☆やんジーのつぶやき
くびきを逃れた1音1音に魂を込める。
どの音も互いに従属せず、対等に立ちながら、ひとつの社会の一員として世界を呼吸する。
しかし、いまだに世界のどこかで戦争とテロが勃発している現実に目を背けずにいたい。





























































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# by my8686 | 2017-06-21 18:04 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

一柳慧の語る「人生の贈りもの 戦後、自由の国でケージと出会う」を読み解く

作曲家一柳慧氏のコラムが昨日からAH誌に掲載されている。

一柳慧といえば、1950年代のアメリカで世界的アーティストたちと垣根を越えた人脈を築いた先駆的音楽家として知られる。

作曲家ジョン・ケージやオノ・ヨーコ、画家のジャスパー・ジョーンズ、モダンダンスのマース・カニングハムなど最先端の前衛芸術達である。



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「演奏」という枠を超えた舞台上のパフォーマンスで伝統や権威から音楽を解放してきた。今なお現代音楽界のトップランナーといって過言ではなかろう。




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あらためて、彼のインタヴューを読み解いてみよう。


現代音楽の道に足を踏み入れたのは、そこに自由の可能性を感じたからです。既存の手法に、さらには音楽というジャンルにすら束縛されず、どこまでも開かれた世界で生きていきたかった。

そんな決意の礎となったのが、何者にも心を縛られてなるものかという強烈な反抗心でした。





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戦後、家計を助けるため、進駐軍のクラブでピアノを弾いていたことがありました。まだ10代でしたが、将校も兵隊も友人のようにレコードや楽譜を貸してくれて驚きました。人間は誰もが対等。弱き者は助ける。この感覚に、自分が渇望してやまない自由の本質を見た気がしました。





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■1952年の秋、前衛芸術のるつぼだったアメリカへ。あらゆるジャンルが連携して新たな表現を模索する、強烈な前衛芸術の世界のただ中に飛び込んだ。ミネソタ大学を経て、ニューヨークの名門ジュリアード音楽院に。画廊などに入り浸って出会いを広げ、自由を謳歌する。





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多様な芸術家が集まったのは、大戦のあだ花でもありました。民俗音楽を創作の礎にしたバルトークや現代音楽の基盤を築いたシェーンベルクら、最先端の作曲家たちが欧州から相次いで逃げてきましたから。

戦後も、破壊された欧州からアメリカに来ることを望む芸術家は少なくなかった。この時代のアメリカにいることそのものが、伝統や制度といった「枷」への抵抗だったのかもしれません。






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■この地で前衛音楽の旗手、作曲家のジョン・ケージ(1912~92)と運命の出会いをする。あらゆる素材を使い、音楽の概念を変えた20世紀最大の実験音楽家。演奏者が一切音を発さず、その間にきこえる雑音の全てを音楽としてとらえる「4分33秒」で世界に衝撃を与えた。






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彼こそ、私が進駐軍で憧れていた、寛大な良きアメリカ人そのものでした。彼の曲の多くを初演したピアニスト、デイビッド・チューダーのリサイタルに行くと客席にいたんです。終演後、チューダーに紹介してもらい「あなたの音楽は、時間にも何にも縛られていない」というような正直な意見を片言で言ったように覚えています。





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すると「明日、遊びにこないか」。

そんな彼と同じく、家も変わっていました。家具がまったくないんです。考え方や行動が影響を受けるからと。椅子もなく、床に座って話をしたような覚えがあります。









☆☆☆やんジーのつぶやき
学生時代に衝撃を受けたのは吉田喜重や松本俊夫の映画音楽だった。
吉田秀和をして「ケージ・ショック」と言わしめるほどの衝撃を日本の音楽界に与えた。
一柳慧の存在は今も鮮烈でありあの時代の残像がふつふつと官能を沸騰させる。
あらためて、もう一度彼がかかわった映画を観たいと思った。




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■おとし穴(1962年、勅使河原宏監督)
■エロス+虐殺(1970年、吉田喜重監督)
■エクスパンション<拡張>(1972年、松本俊夫監督)
■戒厳令(1973年、吉田喜重監督)
■色即是空(1975年、松本俊夫監督)
■湾岸道路(1984年、東陽一監督)





































































































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# by my8686 | 2017-06-20 14:30 | 現代音楽のたしなみ | Trackback | Comments(0)

「ブラジル大規模汚職 捜査拡大の陰に司法取引」を読み解く

世界遺産都市ブラジリアを首都とするブラジルが大規模な汚職スキャンダルに揺れている。
学生時代、建築家オスカーニーマイヤーによる未来的モダニズムデザインの素晴らしさに羨望した記憶がある。





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理想的な都市デザインのはずであったブラジルに何が起きているのであろうか。

あらためて、その内容を読み解いてみよう。




政財界の癒着を巡る大規模な汚職スキャンダルが南米の大国ブラジルを揺るがしている。発覚から3年余りで、有力政治家や企業幹部ら270人以上が起訴され、言い渡された有罪判決は140件余り。政治家が長年にわたり巨額の賄賂を受け取ってきた実態が次々と明らかになっている。





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疑惑にはテメル大統領の名も挙がり、検察が収賄容疑などで捜査に着手。五輪招致を成功させ、一時は8割超の支持率を誇ったルラ元大統領はすでに5回も起訴されている。





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汚職に対する国民の怒りと政治不信を背景に、昨年はルセフ前大統領が弾劾裁判で罷免された。副大統領だったテメル氏が大統領に就いても、ブラジル史上最悪とされる汚職スキャンダルが収まる気配はない。





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拡大を続ける捜査の陰には「司法取引」の存在がある。刑事処分の軽減と引き換えに他人の犯罪を告白するよう容疑者に求める捜査手法で、ブラジルでは2013年の立法で汚職の捜査に利用しやすくなった。

仲間を裏切って検察に情報提供すれば自らの刑が軽くなるとあって、逮捕された企業幹部らは次々と政治家の名を暴露。これまでに計158人が司法取引に応じ、政界の腐敗解明が芋づる式に進みつつある。





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「司法取引とは犯罪者との駆け引きだ。ジレンマを利用したゲームによって最終的に口を割らせる」。捜査の中心を担うカルロス・リマ連邦検察官はそう胸を張る。「米国やイタリアでも広く使われてきた。極めて有用な捜査手法だ」ただ、行き過ぎを危惧する声もある。





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サンパウロ大学のアラミロ・ネット教授(刑法)は「うその告白があれば、冤罪を招く。自分本位の裏切りを期待した手法で、過度の利用は危険だ」。実際、司法取引で得た供述内容には多くの矛盾点があるとの指摘もある。

この司法取引。刑事司法改革の一環で日本でも来年までに導入される。ずるさや裏切りを前提とした捜査手法がどんな功罪をもたらすか。ブラジルを揺るがす汚職事件の行方は、日本にとっても無縁ではない。










☆☆☆やんジーのつぶやき
日本の怪文書疑惑の顛末をみれば、刑事司法改革の功罪が透けてみえてくる。
ローエの「神は細部に宿る」をブラジルの都市計画にも宿してもらいたいものである。






















































































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# by my8686 | 2017-06-19 11:38 | ヘビーな話は、謹んで | Trackback | Comments(0)

書評『アンディ・ウォーホルのヘビのおはなし』を読み解く

日曜の朝は、ベッドの中で書評を斜め読みするのが定例となった。老眼が進んで読書量が極端に減ってしまったが、気になる本はネットで図書館の蔵書を検索し貸出をする。気に入った本は別途購入して手元に置くこともあるが、基本的に整理して貯めない主義である。


そんな朝、久しぶりにウォーホルの名前に官能が反応した。
ウォーホルになりすました横尾忠則の語り口に思わず微笑んでしまった。





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あらためて、その書評を読み解いてみよう。



■アートってなんだと思う?

ボクはアンディ・ウォーホル。芸術家になるために前歴のイラストレーターを闇に葬って、見事芸術家になりすまして大成功した。ところが芸術家としての名声を手に、評価が決定的になった頃、かつての隠蔽していたイラスト作品を公開した。





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「この野郎!」と思ったのは評論家と学芸員だったろうな。というのは埋葬したはずのイラストを再発掘することで、逆にイラストを芸術作品として昇華させる作戦にでたからだ。ピカソが(若い内に成功しちゃえば、あとは何でもありさ)と言ったその教訓に従ったボクの作戦勝ちということさ。






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そんなボクのしたたかさを見せつけたのがこの絵本さ。出版社も読者もボクの戦略にまんまと騙されちまったよ。大方の人間はこの本のイラストはボクの1950年代のイラストレーター時代の作品だと信じているに違いない(笑)。ところがこれは63年作で、ボクはこの頃すでにミスター・ポップアートなんて呼ばれるスターになってたわけさ。






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あの有名な「ゴールド・マリリン・モンロー」やキャンベルスープ、コカコーラの反復作品、さらに……etcと挙げていくとキリがないさ。この事実に驚いただろう?





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この本のイラスト、いや絵だよね? とにかくよーく見てごらんよ。50年代のボクのイラストと違うだろ? ほら、この書評の書き手のYは「手抜きだよ、アンディ!」と言ったが、「その通り」だよ。だからさ、そのイラストはアートになっているんだよ。つまりYが指摘するように真面目に描くとイラスト、不真面目に描くとアートになるってことさ。ここんとこが面白いだろ? 判るかな?





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さて、本書の主人公は蛇。蛇皮会社がボクに依頼した本さ。ボクにはHigh & Lowの境界がないから通俗だって何だって区別がないんだ。成功者のボクには〈ねばならない〉という大義名分は通用しないさ。ボクは名士になるために社交界に出入りしながら、セレブのリストを増やしていったんだ。







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そんなある日、蛇皮会社の社長が人が嫌う蛇の絵を描ける画家としてボクに目をつけた。ボクって蛇に似てるじゃない? くねくねしてて。他のイラストレーターが描くとヘビメタ(笑)になっちゃうよ。こうして蛇の絵を引き受けたボクはセレブな人間や商品や場所に蛇になって侵入してなぐり描きの絵を描きまくったさ。まあ社長と忖度のお遊びに興じたってわけさ。





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とにかくボクのイラスト時代の絵と見比べてみてよ。やがてボクに騙されている自分に気づくかも。もし見る目があればの話だけどね。芸術って怖いだろう? まるでテロだよね。








☆☆☆やんジーのつぶやき
まざまざと騙されてしまった世代である。
1970年代のあのアメリカンポップアートの熱さが今は懐かしい。




























































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# by my8686 | 2017-06-18 12:12 | 気になる本 | Trackback | Comments(0)