「コルビュジエの休暇小屋」を読み解く

8/17金曜日、今日から出勤となる。日曜日をはさんでの雑務処理的なスタンスである。

盆休中、カーポート下に新しく購入したテント小屋を設営した。
目的は、孫が喜ぶ恒例の「ソーメン流し」のための日除けであるのだが、これがなかなか居心地がよい。
日除けの効果と基地的囲まれ感。ここに入るだけで、孫のハシャギぶりのテンションが上がる。



そんなこんなで、居心地の良い理想の小屋について考えてみた。

理想は、やはり巨匠ル・コルビュジエが南仏の小さな村に建てた「カップ・マルタンの休暇小屋」である。



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縦横366センチ四方の部屋。左奥の服入れの裏側に、入り口に通じる廊下がある。右奥には極小のトイレ。その手前が木製ベッド。台所や浴室はなく、食事は隣の食堂で、風呂は外にある簡易シャワーで済ませていたという。

世界遺産に認定された彼の作品のうち7カ国17施設のなかには、夫人と2人で最小限の暮らしを営むために建てた簡素なこの小屋も選定されている。

南仏の小さな村にある「カップ・マルタンの休暇小屋」である。この小宇宙に凝縮された、コルビュジエの思いを読み解いてみよう。




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■8畳の1R まるで茶室

質素な材料を使い、一見するとログハウスのようである。海水浴を愛したコルビュジエは、小屋付近の海岸で水泳中に心臓発作を起こし、77歳で永眠した。

有名建築を数多く手掛けた巨匠ル・コルビュジエの、加えて「風光明媚なコート・ダ・ジュールに立つ別荘」といえば、さぞや豪華な建造物を連想するであろうが、その素朴で小さな小屋にまず驚く。

夫人と2人で過ごすために設計した「カップ・マルタンの休暇小屋」は、なんとわずか8畳ほどのワンルームなのである。



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左隅にステンレス製の洗面器、窓の折戸には、鏡が付いている。地中海の強い光とは対照的に、内部はベニア合板張りのほの暗い空間。目が慣れるのにしばらく時間がかかるほど、外光との差がある。

驚くほど小さく、簡素。まるで茶室のようだという。 休暇小屋は、コルビュジエが人間にとって「極小の住居空間」とはどのようなものかを構想し、実験的に作ったものだという。

天井の高さを一部変えて収納にしたり、彩色したりして空間に変化をつけている。木製ベッドの下部には収納用の引き出しも。コルビュジエは家具デザインの名手でもあった。

 「日本には、人が生活するのに最低限必要なスペースは『立って半畳、寝て一畳』、という考え方がある。それに似た発想がコルビュジエにもあったといえよう。





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この休暇小屋には、コルビュジエ自身が人体の寸法と黄金比をベースにして作った基準寸法、「モデュロール」が当てはめられている。

例えば、天井高の226センチは身長182.9センチのおとなが立って手を上に伸ばしたときの寸法。

内部は薄暗く洞窟のよう。竪穴式住居的な住まいの原型を感じさせ、巣にこもっているような居心地の良さがあるという。実際に、コルビュジエは「住み心地が最高のここで一生を終えるであろう」と語ったほど気に入っていたという。




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集合住宅や美術館など、巨大な建築を多く手掛けたコルビュジエにとって、この小屋は「飛び抜けて異質」だという。20世紀を代表する建築家が「人が住む家」のあるべき姿を考え抜いた結果が、この小屋だというのは興味深い。










☆☆☆GGのつぶやき
小屋には心をくすぐる魔力がある。終生憧れ続けた地中海に面することも大きいが、無駄がなく機能的なこの小屋に帰ってくると、コルビュジエは人間本来の暮らしに立ち返ることができたのであろう。一丈四方の庵を結び、「方丈記」を著した鴨長明の「立ち返る原点」とでもいえよう。























































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# by my8686 | 2018-08-17 13:48 | 挑発する建築&空間 | Trackback | Comments(0)

DVD 映画「歌行燈」を観る

盆休6日目。明け方、借りていたDVD「歌行燈」を観る。

泉鏡花が1910年に発表した小説の映画化である。
1960年、衣笠貞之助監督、市川雷蔵、山本富士子主演で再度映画化されたものである。




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重厚にして衣笠貞之助監督の映像美が官能を刺激する。
やはり、山本富士子の美貌が秀逸であり官能を始終魅了する。






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恩地喜多八は能のシテ方宗家の甥であったが、謡の師匠宗山と腕比べを行い自殺に追い込んだために勘当される。
宗山には娘お三重がいたが、親の死によって芸者となっていた。






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肺を病み流浪する喜多八は偶々お三重と会い、二度と能をしないとの禁令を破ってお袖に舞と謡を教える。

クライマックスは、喜多八の父と知らず、お袖が“玉の段”を舞った時、その見事さに源三郎は地の謡を、雪叟は鼓をつとめた。
鼓の音に魅入られたように、喜多八の姿が近づき、かたくだき合ったお袖と喜多八の体に傍の白梅が散る。





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鏡花は元来能に深い造詣があったという。深夜に響く鼓と謡、舞と海音に深い静けさを表出させている。








☆☆☆GGのつぶやき
創り込まれた古き良き時代の映画が、やっと理解できる年齢となった。
雷蔵作品も今一度見直してみるのもよかろう。































































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# by my8686 | 2018-08-16 20:16 | たかが映画、されど映画 | Trackback | Comments(0)

フッサールの「間主観性/相互主観性」を読み解く

盆休5日目。早朝ウォーキングのあと庭木に散水。台風の影響で珍しく曇り雨模様となる。
午前中に約束の用事を済ませ、ランチまでに帰宅する。


ランチのあとは、本日もフッサールの術語とリヒターノートを読み解いてみよう。

他人とは私と同じく心(Seele)と身体(Leib)を持っており、私ではない主観であると考えられている。
このように心と身体を持っており、私と同じように主観を持っているような性格を「他我」と呼ぶ。




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さらに「間主観性」とは、「他我」も私と同様に唯一同一の世界の存在を妥当しているはずだという、私自身の妥当を意味する。
つまり、他我(alter ego)から間主観性/相互主観性(Intersubjektivität)までという認識にいたる。





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さらに、リヒターの「ノート 1962」を読み解いてみよう。



「みえないものを、みえるようにする」、知らないものを知らしめる、考えられないものを考えにもたらす-------これらは無意味な要求であり主張だ。
確かにみえていないものを推測することはできる、つまりそういうものが存在していることを、ある程度ははっきりと前提できるのだが、我々が表現できるのは、その不可視のものの比喩にすぎないのであって、それ自体ではないのだ。





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伝統をそのままうけいれなければいけない理由はない。どんなものでも、それ自体で良かったり悪かったりするのではなく、特定の状況のもとで、我々の主観的意思においてのみ、そう判断されるからだ。





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うけつがれてきた因習は、この事実のまえでその保証力や絶対性を失うが、良いものと悪いものについて日々判断をくだす責任は、我々が負うことにもなる。




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想像すること、見解をもつこと。それが我々を人間らしい人間にする。芸術とは意味をあたえ、形にするものであり、神を探求する宗教に似ている。
たとえ、すべての意味付与や想像は人為であり、幻影であるとわかっていても、それらを放棄することはできない。なぜなら、信仰(現在を思考し未来に思いをはせること)は、我々の非常に重要な特質なものだから。





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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの語る「芸術とは意味をあたえ、形にするものであり、神を探求する宗教に似ている」は、感性を刺激する。
alter egoからIntersubjektivitätまで、根源的現在化についても思考が拡散されていく。




















































































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# by my8686 | 2018-08-15 15:30 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「Noesis―Noema」を読み解く

盆休4日目。今朝も早朝にウォーキングで汗する。筋トレにはならないらしいが、朝の澄んだ空気を吸うことで気分も爽快になる。
歩いたあとは、庭木に散水後、長男のBMWを洗車してやる。暑い夏の朝ならではの軽い全身ストレッチのつもりである。
全身汗したあとの熱いシャワーの快感を身体が覚えているあいだは、躊躇わずできそうである。





それはさておき、本日もフッサールの術語とリヒターノートを読み解いてみよう。



フッサールは、「知覚と知覚対象それ自体は一つになって結合されているものではない」という。




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知覚とパースペクティブなものとして現れる知覚事物とは、「意識とはすべて、何ものかについての意識である」という志向性ゆえに切っても切り離せない関係にある。

この関係をフッサールは、相関関係(Korrelation)と呼ぶ。





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この相関関係のうち、意識の作用的側面は「ノエシス」と呼ばれ、対象的側面は「ノエマ」と呼ばれる。
つまりノエシスとは、意識に現れた感覚的ヒュレー(hyle)(素材)に志向的な意味統一を与えて、ひとつの存在対象の妥当を構成する意識の働きであり、ノエマとはノエシスによって構成された対象性のことである。






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さらに、リヒターの「ノート1992.9.22」を併読してみよう。


ひっかいて剥がす。ここ一年、作品を描くといえば、ひっかいて剥がすことしかできない。
絵具をのせて、またとる。下にあったものを表に出すわけではない。





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もしやり直しのために剥がすということなら、表にでてくるべきもの(具象、記号あるいはパターン)を、つまり、まちがえなければ直接描くこともできた映像を、私は考えておかないといけないだろう。




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また、それは、失われた映像、埋もれた映像を再びみいだすといったような、象徴的な小技になるだろう。
絵の具をのせ、壊し、重ねるプロセスは、絵画を制作するときの微妙な操作に役立つだけである。






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターのアブストラクトと対峙するとき、やはりフッサールの「ノエマとはノエシスによって構成された対象性」に思考が及び。
意識に現れた感覚的ヒュレーに志向的な意味統一という術語が重なる。








































































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# by my8686 | 2018-08-14 12:18 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解く

盆休3日目。早朝、それも太陽がまだ山の頂から顔を出さないうちに歩きはじめる。
コースは、昨日と同様。緩やかな下りから始まり最後に上り坂で終わる。時間にすれば、およそ30分。
一日のはじめのウォーミングアップには程良い運動である。



それはさておき、フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解いてみよう。


内在と超越、すなわち「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念である。





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フッサールのこの文脈における「超越」とは、神やイデアのような何かを超越した事物ではないということである。





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ここでの「内在」とは「原的な体験」であるがゆえに、それ以上疑うことのできない不可疑性のもの、先所与性のものである。





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ところが「丸い」「赤い」「光っている」といったものを知覚する際も、それが何か他のものから構成されている、すなわち超越した存在ではないのかという先構成論的な批判があるかもしれない。





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ただし、我々は「丸く感じた」、あるいは「赤く」、「光っているように感じた」という感じたことそのものは「ひょっとしたら丸く感じたのではないかもしれない」と疑うことはできない。





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したがって、フッサールの「内在」とは、より厳密には知覚におけるこの「不可疑的な感覚体験」、人がそのように感じたという「初源的な事実性」ということになる。






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リヒターの「ノート 1971」を追読してみよう。


おそらく、ドア、カーテン、表面性の絵画、ガラス板などは、視覚は我々に事物を認識させはするけれども、同時にそれが現実の認識を限定し、部分的に不可能にしてしまうというジレンマを、絶望的に比喩したものだ。





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さらに、「ノート 1973」を追読してみよう。


「中心」の喪失を肯定する。同様に、信条、態度、個性の喪失を肯定する。
ただ機械のように反応すること、不安定で、無関心で、依存していること。
客観性のために自分をすてること。





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☆☆☆GGのつぶやき
今年の2月にも同じことをつぶやいている。
フッサールの「不可疑的な感覚体験」とリヒターの「中心の喪失の肯定」。
それ以上疑うことのできない不可疑性に、やはり不思議な官能反応を覚えるのである。

























































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# by my8686 | 2018-08-13 21:08 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)