小雪がちらちらと舞っている日曜の朝。
昨日に続き、ゲルハルト・リヒターのカラーチャートとグレイ・ペインティングを読み解いてみよう。
「カラーチャート」は、正方形や長方形の色彩鮮やかなカラーチップを配列した幾何学的な絵画である。
工業製品の色見本として売られているカラーチャートを利用して、一枚の画面に色彩を表示している。
どの色をどの位置に塗るかは偶然に任せ、主観的決定を下さない。
リヒターは、絵画上におけるこの試みをケルン大聖堂の南側の窓のステンドグラス制作にも展開した。
アンティーク・グラスの手法をとり、その色彩は、光によって繊細な色を放つ。
「グレイ・ペインティング」は、グレイという色のみからなる絵画である。
カラーチャートが色の細分化であれば、グレイ・ペインティングはその対極にあり、全ての色の集積であるといえる。
リヒターにとって、グレイという色は「無」を表している。
自己を超越するものとしての「無」という概念は、現代音楽家ジョン・ケージの言葉「私にはなにもいうことはない、だからそのことを言う」の影響を受けているという。
2年前の想いが脳裏をよぎる。
人間の構成要素を五蘊と分析する際には、識蘊としてその一つに数えられる。
この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいう。
事物を了知・識別する人間の意識に属する。
リヒターの言う、「虚が実になり、実が虚となる。」も同意であろう。
また古い経典には、識住(vijJaanasthiti)と言われ「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとされる。
分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は営む。
しかしながらいずれも、人間は「五蘊仮和合」といわれる。
物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合し形成されたものだと考え、固定的に人間という存在があるとは考えられていない。
まさに、リヒターの絵画には「智慧の光」が耀き官能を煽る。
☆☆☆GGのつぶやき
自己を超越するものとしての「無」。
「絵画とはあるいは、別の状態になっていくということです。そう、すでにアインシュタインのあのエネルギーと質量の公式です。質量、エネルギー、そうなのです。」
リヒターの言葉が、やはり官能を刺激して止まない。