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フッサールの「生活世界(Lebenswelt)」を読み解く

雨模様となった月曜の朝。明け方から雷が轟き、いよいよ春の訪れを知らされる。
そういえば、もう三月なのだ。夏タイヤへの交換も、そろそろ気にかけねばと思う。



それはさておき、本日もフッサールの術語を読み解いてみよう。

フッサールの「生活世界(Lebenswelt)」である。
生活世界とは、フッサール後期の著作『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』における中心的な概念となる。




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これは、中期の著作『純粋現象学及び現象学的哲学理念』の自然的態度(素朴な世界像)に類似する概念であり、生活世界に関しては、あらゆる意味形成と存在妥当の根源的な地盤として科学的な世界理解に先立った、つねにすでに自明のものとして与えられている世界を意味する。





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生活世界というのは科学的な世界理解に先立っているにもかかわらず、近代の科学的世界、すなわち生活世界と対置される世界は、学的、理念的な世界こそが客観的世界であるといった具合に本来客観的世界であるはずの生活世界と逆転している。





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そこにこそ、フッサールはヨーロッパ諸科学の「危機」があるという。




あらためて、フッサールの未完の遺著「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」を読み解いてみよう。

約280ページの現行の定本は、関連諸論文とともに1954年初版の『フッサール著作集』第六巻に収録されている。



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彼の他の著作と比べて本書の特徴は、ヨーロッパの科学と哲学の運命(おもにガリレイ以降の)に歴史哲学的な考察を加えて、近代科学の偉大な発展にもかかわらず、科学の危機、ひいては人間性の危機が到来した事情を論じている点にある。

危機が生じたのは、存在者の世界全体を理性の立場から統一的‐普遍的に認識しようとする学問本来のテオリア(観想)の目標が放棄された結果、学問の領域にも物理学的客観主義と哲学的主観主義への分裂が生まれ、実証主義や非合理主義が台頭してきたからである。

それゆえ本書では、科学の成立基盤である生活世界についての存在論的考察を通して、さらにそれを成立させる超越論的主観性の能作を究明するという仕方で、現象学的理性主義の立場から、主観と客観的存在者との関係について、新たな解明が試みられたという。




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純粋な理念の世界とそれによって構成された科学的世界はいずれも生活世界に基盤をもっている。

しかし、ガリレオが発見し、また隠蔽をした科学的世界は生活世界の一部分であって、生活世界のすべてではない、生活世界は科学的世界をみずからのうちに含んだ包括的な世界として私たちの前に姿をあらわしているのである。

とすれば我々がなすべきは科学的世界から生活世界への還元である。なぜなら生活世界こそ我々が生きる基盤であるからだ。

還元された生活世界は主観でも客観でもない。すべてを包み込む地盤である。それは私と万人がともに生きている世界である。生活世界を導入することで、従来から現象学は独我論的傾向があると言われていた批判にも答えているのである。以前は現象学的還元を行うにしても、それは「私一人」でのことがらであった。





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「他人の存在をとれば相対主義を招いてしまう。他人が存在しなくなるか、世界が一つでなくなるか、要するに他者の存在と世界の共有はどう成立するのかが問題」となるのである。
生活世界はそのジレンマからの脱出口でもあった。

「私は今の世界から抜け出せない。それを外から眺められるのは神のみである。ところが科学はあたかも神のような視点で世界を見ている」ことになる。
いいかえれば「客観的世界=科学の世界=神の視点の世界。生活世界=日常の世界=人間目線の世界」という構図が描ける。

すなわち「客観的世界は個人の経験を超えた集まりであり、私の視点からじかに眺めることはできない。それは神の視点」である。





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ところがいつの間にか有限な人間はあたかも無限な彼方まで知っていると錯覚するようになる。これを超越論的還元することで、生活世界に立ち返るのである。人は有限であるとともに神の視点をも持ちたいと願うのである。だが、それは可能なのだろうか。未完の論文ながら「ヨーロッパ諸学の危機」の最後は次のような文で終わっている。

「哲学、つまり学門はそのあらゆる形態においてより高い合理性への途上にある。それはその不十分な相対性を繰り返し発見しつつ、真の完全な合理性にゆきつかんとする苦難、それを闘いとらんとする意志へ駆り立ている合理性なのである。だが、この合理性はついには、そうして真の完全な合理性とは無限の彼方に存する理念であり、したがって事実上は必然的にそれへの途上にあるしかないことを発見する」と。





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我々の外に無限に拡がる世界、有限な人間はいかにしてそれをとらえられるのか。神の視点に人間が立つこと、これこそフッサールが現象学で一貫して追求してきたことである。神の視点は無限に遠くても、フッサールは不断に思索を続けていくしかないという。







☆☆☆GGのつぶやき
無限な彼方まで知っていると錯覚する有限な人間。
それが人間といってしまえば、それまでなのだが。
抽象論として終わらせず、その真理を読み解くもまたよし。



















































































by my8686 | 2018-03-05 10:16 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)