盆休2日目。早朝、庭に散水後ウォーキングに出かける。
太陽が顔を出し始める7時前。空気はまだ澄んでおり涼気を感じる。山影に入ると冷気さえ覚える。
この道はかつて、父と母が二人で日課にしていた散歩道である。
暑い夏の朝、聴こえるのは夏虫のささやきと蝉の鳴き声と風の音。
晩年視力を無くした父の耳に刻まれたであろう記憶を辿りながら、一人歩く朝である。
昨日に続きフッサールの「Präsentation」と「Appräsentation」について読み解いてみよう。
我々は客観の妥当に際して、現象学的還元という手法を用いた。
その手法とは主観と客観の枠組を取り外し、主観から出発するものであった。
さて、ここには当然のことながら現象学は独我論に陥るという批判が生まれてくる。
それに対してフッサールは独我論の問題、他我の問題を解決すべく、根源的呈示と間接的呈示という概念を持ち出してくる。
今ここに他我、すなわち私と同じように心と身体を持ち、私とは違った主観の持ち主が存在すると仮定しよう。
そのとき我々に、その他我が根源的に与えられ、他我自身の本質が直接的に把握されるならば、他我の本質が私の一要素となってしまい我々は独我論に陥ってしまうのである。
つまり根源的呈示により他我を直観することは退けられなければならない。
したがって、他我経験には、間接的な志向性(Intentionalität)が働いているとみなさねばならない。
それは共に現在化させること(Mitgegenwärtigung)であり、つまりは間接的呈示でなければならないのである。
では、我々は間接的呈示によってどのようにして他我を妥当するのか。
フッサールは類比であるという。
この類比は、私がボールペンとシャープペンシルの類似を類比するときのような物質的存在を類比するのとは異なる。
他我の類比に至っては我々と同じような身体を持ち、同じように話し、また私とは違うが同じような主観を持っているということが言える。
さらに「根源的創造作用」を介することにより、間接的に類比し、我々は他我の存在を妥当するのである。
今見たように、フッサールによれば、他我の妥当は間接的呈示であり、私の一部として直接的に私の中から出てきたものではない。
これがフッサールによる現象学は独我論に陥らないと主張しうる主要な論拠であると考えられる。
☆☆☆GGのつぶやき
暑い夏にこそ沸騰する頭でフッサールの言葉と対峙してみよう。
普段見えないものが見えてもこよう。