フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解く

盆休3日目。早朝、それも太陽がまだ山の頂から顔を出さないうちに歩きはじめる。
コースは、昨日と同様。緩やかな下りから始まり最後に上り坂で終わる。時間にすれば、およそ30分。
一日のはじめのウォーミングアップには程良い運動である。



それはさておき、フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解いてみよう。


内在と超越、すなわち「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念である。





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フッサールのこの文脈における「超越」とは、神やイデアのような何かを超越した事物ではないということである。





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ここでの「内在」とは「原的な体験」であるがゆえに、それ以上疑うことのできない不可疑性のもの、先所与性のものである。





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ところが「丸い」「赤い」「光っている」といったものを知覚する際も、それが何か他のものから構成されている、すなわち超越した存在ではないのかという先構成論的な批判があるかもしれない。





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ただし、我々は「丸く感じた」、あるいは「赤く」、「光っているように感じた」という感じたことそのものは「ひょっとしたら丸く感じたのではないかもしれない」と疑うことはできない。





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したがって、フッサールの「内在」とは、より厳密には知覚におけるこの「不可疑的な感覚体験」、人がそのように感じたという「初源的な事実性」ということになる。






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リヒターの「ノート 1971」を追読してみよう。


おそらく、ドア、カーテン、表面性の絵画、ガラス板などは、視覚は我々に事物を認識させはするけれども、同時にそれが現実の認識を限定し、部分的に不可能にしてしまうというジレンマを、絶望的に比喩したものだ。





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さらに、「ノート 1973」を追読してみよう。


「中心」の喪失を肯定する。同様に、信条、態度、個性の喪失を肯定する。
ただ機械のように反応すること、不安定で、無関心で、依存していること。
客観性のために自分をすてること。





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☆☆☆GGのつぶやき
今年の2月にも同じことをつぶやいている。
フッサールの「不可疑的な感覚体験」とリヒターの「中心の喪失の肯定」。
それ以上疑うことのできない不可疑性に、やはり不思議な官能反応を覚えるのである。

























































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by my8686 | 2018-08-13 21:08 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

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