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再考「伊丹十三監督」を読み解く

先週オフィスのデスクファイルを整理していて、一枚の古い切り抜き写真に目がとまった。


俳優で映画監督だった伊丹十三が自宅のリビングに猫を抱いて座っている写真である。

伊丹十三といえば、70年代に岸田秀と『モノンクル』という精神分析テイストの文明批評雑誌を出していた社会派の映画監督である。

その写真は、書棚やテーブルに雑然と積まれた本たちに囲まれた、なんとも居心地の良さそうな、まるで黒い絨毯バーのような空間であった。それが妙に気になってスクラップしたものである。




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「近頃こんな絨毯バーが増えたよね~と、友達が夜な夜なやって来るんですよ~」などと伊丹十三の微笑ましいコメントが掲載されていた雑誌の切り抜きである。




伊丹十三といえば、中学生時代に見たNHKの「あしたの家族」というテレビドラマで、その飄々とした存在感が気になった役者でもある。

後年には、「マルサの女」「お葬式」など日本社会の不条理を面白おかしく、エンターテインメント性豊かに描いて見せ、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」ブランドを築いてしまったことは承知のとうりである。




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しかし、1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見され、「自殺」と断定され報道もされた。

当初からその経緯については様々な説が飛び交い、その真相はいまだに闇のなかである。




伊丹は当時、後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを阻止すべく後藤配下5人を使った「コロシ」ではないかという、ネット風評まで広がった。さらに、伊丹が死の直前に医療廃棄物問題(環境汚染+バイオハザード)を追及していたという事実から、別の死の原因を探ろうとする動きもあったという。





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伊丹は『ミンボーの映画』を制作・公開した直後、映画の内容に怒った暴力団員に刃物で斬り付けられ重傷を負ったことがある。この時、手術で一命を取りとめたあと、妻の宮本信子を通じて「これからも脅しに屈せず社会派映画を作っていきます」との声明を発表している。






あらためて、その関係ブログを読み解いてみよう。


自殺から約3か月経った3月にNHKテレビが興味ある番組を放映する。伊丹の自殺の背景には「医療廃棄物問題」があったらしいというもの。

NHK総合テレビ3月31日午後10時00~10時45分の『伊丹十三が見た医療廃棄物の闇~病院の裏側を追った伊丹監督最後の3カ月間』である。
伊丹は自殺の5日前まで、この番組の医療廃棄物問題の取材を続けていたという。





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本来経費をかけて、有害な影響が周囲におよばないように適切に処理されなければならない医療廃棄物。ウィルス等に汚染された恐れのある注射針や脱脂綿、包帯、あるいは肉片、最悪の場合は中絶胎児などである。廃棄費用をけちる医療関係者によって、不法にそこらへんの空き地に無造作に捨てられている事実に注目し取材を重ねていたという。

医者の世界は、炙りだせばいくらでも「犯罪的事実」が出てきかねない伏魔殿のような世界である。


「葬式」とか「課税」とか「暴力団対策」といった日常性の中にある不条理に着目し、優れた「娯楽映画」に仕立て上げていた伊丹十三監督。
日本の「医者の世界」と医療関連業界との癒着ぶりを炙り出そうとしていた矢先の突然の死である。


医者と医療関連業界の「犯罪」に国民全体の関心が集まり、そして「薬害エイズ」など比較にならないような大スキャンダルが惹起されるであろうことは、容易に想像できよう。

是が非でも伊丹の医療廃棄物問題をテーマとする映画の制作をやめさせなければならなかったという動機が透けて見えてくる。




☆☆☆GGのつぷやき
不自然な死亡の真相は、いまだに闇のなかである。
炙り出されては困る輩たち、創価学会筋なのか、はたまた医療関係筋なのか、あるいは傷害事件で仮出所した輩の報復行動だったのか。
確認できていることは、伊丹の司法解剖結果からブランデーのヘネシーボトル一本分のみが胃から検出されたという事実のみである。
自分から飲んだのか、あるいは口漏斗で無理やり胃の中に流し込まれたのか、事実関係は不明である。
ただ、次回作が観れなくなったことだけが、悔やまれる。


2026.2.10 追記


「不自然な死」が“構造的な不信”を増幅させた

伊丹の死については、公式には自殺とされているが、当時の報道の仕方、現場の状況、司法解剖の情報の断片性などが、「説明されていない感」を強く残した。
人は説明されない空白を前にすると、そこに“構造的な不信”を投影する。

•医療業界
•暴力団
•宗教団体
•行政
•過去に恨みを持つ人物

こうした“社会が抱える不安の象徴”が、伊丹の死に貼り付けられていった。
つまり、伊丹の死は、個別の事件というより、90年代日本の不信の総決算として語られたということである。





伊丹作品の構造分析:

伊丹作品は「制度=システム」を主役に据え、その周囲で右往左往する人間たちをユーモアと観察眼で描く構造を持つ。物語は常に、既存の慣習・業界ルール・暗黙の了解が「当たり前」として機能している場にカメラを据え、その「当たり前」がどれほど不条理で滑稽かを、観客自身に気づかせるように設計されている。告発映画ではなく、笑いと快楽を通じて制度の異様さを“自覚させる”娯楽映画である点が決定的に独特であり、観客は楽しみながら自分が属する社会の構造を相対化させられる。



90年代の医療行政の背景:

90年代の日本の医療行政は、「専門家と行政と業界」が一体化した閉鎖的な構造が色濃く残っていた時期であり、薬害エイズ問題などに象徴されるように、情報の隠蔽・責任の所在の不明確さ・被害者救済の遅れが社会問題化していた。医療廃棄物処理や医療機関と関連業者との癒着も、規制の不備や監視の甘さと結びつき、グレーゾーンとして放置されやすかった。つまり「命」を扱う領域でありながら、透明性よりも“業界の論理”が優先される構造が強く、そこにメスを入れる表現は、当時としてはきわめて政治的な意味を帯びざるを得なかった。



陰謀論が生まれる社会心理:

陰謀論は、単に「真相を知りたい」という欲求からではなく、「説明されない不条理」に耐えられないときに生まれやすい。とくに、権力・専門家・大企業などへの不信が蓄積している社会では、「公式説明」が出れば出るほど、かえって「隠しているに違いない」という感情が強化される。伊丹のように、まさにその“不条理な構造”を作品で暴いてきた人物が不自然な形で死ぬと、人々はその死を「構造の闇」の証拠として読み替えたくなる。陰謀論とは、多くの場合、事実の説明というよりも、「この社会は信用できない」という感情の物語化だと言える。



伊丹十三の作家性の核心:
伊丹十三の核心は、「社会の制度を、笑いとスタイルで解体する能力」にある。彼は怒号や告発ではなく、洒脱な会話、緻密な美術、テンポの良い編集、魅力的なキャラクターを通じて、観客に制制度の異様さを気づかせる。そこには、上から目線の道徳ではなく、「自分もこの滑稽な社会の一部だ」という自己相対化の視線がある。だからこそ彼の映画は、重いテーマを扱いながらも、観客にカタルシスと笑いを与える。同時に、観終わったあとにじわじわと「この社会は本当にこれでいいのか?」という問いを残す——この二重性こそが、伊丹十三という作家の決定的な魅力であり、危うさでもあった。



「2026年の伊丹十三が何を撮ったか」

この問いは、単なる“もしも”ではなく、現代日本の制度・日常・不条理をどう切り取るかという思考実験でもある。
伊丹の作家性(制度の可視化・日常の不条理・笑いと痛烈な観察)を軸に、2026年の日本社会を重ねると、いくつかのテーマが自然に浮かび上がる。

以下は、伊丹十三なら“本気で映画化しそうな領域”を、彼の語り口・構造・ユーモア感覚に合わせて描いてみよう。


■ 1.「介護ビジネス」

高齢化社会の最前線で、家族・行政・民間企業・医療が複雑に絡み合う領域。

伊丹なら、
- 介護保険制度の複雑さ
- サービスの質と利益のせめぎ合い
- 家族の負担と罪悪感
- “介護ビジネス”の裏側

を、笑いと痛みを交えて描くはず。

『お葬式』の現代版とも言える、「老いの産業化」をテーマにした群像劇が生まれただろう。



■ 2.「食品偽装・サプライチェーン」

『スーパーの女』の現代アップデート。

2026年の食品業界は、

- 産地偽装
- 廃棄ロス問題
- サプライチェーンのブラックボックス化
- インフレと価格転嫁

など、伊丹が好む“日常の不条理”の宝庫。

現代の「食の安全」をめぐる制度と慣習を、軽快なテンポで暴く作品になったはず。



■ 3.「生成AIと情報産業」

伊丹は“新しい制度”に敏感だった。

2026年のAI社会は、

- 著作権
- 情報の真偽
- 労働の再編
- クリエイターの不安
- 行政のAI導入

など、制度と日常が激しく揺れている。

伊丹なら、「AIを使いこなせない官僚」「AIに振り回される企業」「AIに仕事を奪われる人々」をコミカルに描きつつ、最後に鋭い問いを突きつけただろう。



■ 4.「医療DXと巨大病院」

もし伊丹が“医療廃棄物”を撮ろうとしていたなら、2026年の医療はさらに格好の題材。

- 電子カルテの統合
- 医療データの利権
- 大病院の経営
- 医療AIの導入
- 地域医療の崩壊

など、制度と現場のギャップが大きい。

伊丹なら、「医療の効率化」を掲げる行政と、「現場の混乱」を抱える医師・看護師の対比を、笑いと皮肉で描いたはず。



■ 5.「宗教と政治の距離」

『マルタイの女』で“宗教団体と司法・メディア”を扱った伊丹なら、2020年代の日本の宗教と政治の関係は、間違いなく題材にした。

ただし、伊丹は直接的な告発ではなく、制度・慣習・人間の弱さを通して描く。
政治家・宗教団体・一般市民の三者が織りなす“日常の不条理”を、軽妙なタッチで見せたはず。



■ 6.「地方都市の再開発と利権」

伊丹は“都市の制度”にも敏感だった。

2026年の地方都市は、

- 再開発
- 補助金
- 地元企業
- 行政の思惑
- 商店街の衰退

など、利害が複雑に絡む。

『マルサの女』のような、「再開発の裏側に潜む人間の欲望」を描く痛快作が生まれただろう。


■ 結論:伊丹十三は「制度の不条理が最も濃い場所」を選んだ

2026年の日本で最も“伊丹的”なテーマは、制度 × 日常 × 不条理 × 人間の滑稽さが交差する領域。

その条件を満たすのは、

- 介護
- 食品
- AI
- 医療
- 宗教と政治
- 再開発

といった、現代日本の“構造的な問題”ばかり。

伊丹十三が生きていたら、「笑いながら社会の構造を見抜く映画」を、2026年にも確実に作っていただろう。




by my8686 | 2018-10-13 23:23 | 徒然なるままに | Trackback