今朝ふとガレージに「相棒86」の姿のないことに気がついて、奴といろんな「お気に入りの場所」に行ったことを思い出していた。回想していくと、ふと「焚火」や「ソロキャンプ」への欲求が湧いてきた。
そういえば、寺山修司の作品に「事物のフォークロア」という現代詩があったことを思い出す。
少し触れてみよう。
一本の樹にも
流れている血がある
樹の中では血は立ったまま眠っている
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできないだろう
世界が眠ると
言葉が目をさます
大鳥の来る日 甕の水がにごる
大鳥の来る日 書物が閉じられる
大鳥の来る日 まだ記述されていない歴史が立ちあがる
大鳥の来る日 名乗ることは武装することだ
大鳥の来る日 幸福は個人的だが不幸はしばしば社会的なのだった
一八九五年六月のある晴れた日に
二十一才の学生グリエルモ・マルコニが
父親の別荘の庭ではじめて送信した
無線のモールス信号が
たった今 とどいた
ここへ来るまでにどれだけ多くの
死んだ世界をくぐりぬけてきたことだろう
無線電信の歴史のすべてに返信を打とうとして
少年はふと悲しみにくれてしまった
書くことは速度でしかなかった
追い抜かれたものだけが紙の上に存在した
読むことは悔誤でしかなかった
王国はまだまだ遠いのだ
今日の世界は演劇によって再現できるか
今日の演劇は世界によって再現できるか
今日の再現は世界によって演劇できるか
そうそう 中学生の頃、公園でトカゲの子を拾ってきたことがあった。
コカコーラの壜に入れて育てていたらだんだん大きくなって出られなくなっちまった。
コカコーラの壜の中のトカゲ、コカコーラの壜の中のトカゲ
おまえにゃ壜を割って出てくる力なんかあるまい
日本問題にゃおさらばだ
歴史なんて所詮は作詞化された世界にすぎないのだ!
恨んでも恨んでも恨みたりないのだよ、祖国ということばよ!
「大事件は二度あらわれる」とマルクスは言った
一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてだ!
だが真相はこうだ!一度目は事件として、二度目は言語として、だ
ブリュメールの十八日は言語だ!連合赤軍も言語だ!
そして俺自身の死だって言語化されてしまうのを拒むことが出来ないのだよ!
ああ、喜劇!
まだ一度も作られたことのない国家をめざす
まだ一度も想像されたことのない武器を持つ
まだ一度も話されたことのない言語で戦略する
まだ一度も記述されたことのない歴史と出会う
たとえ
約束の場所で出会うための最後の橋が焼け落ちたとしても
(寺山修司「事物のフォークロア」)より
☆☆☆GGのつぶやき
寺山修司の詩集を持ってソロ・キャンプに行くも一興。
焚火の火をチラチラ眺めながらホットウィスキーでもやろう。