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「フィルモア・イースト」の7人のサムライを読み解く

1970年6月「NYフィルモア・イースト」に乗り込んだマイルス・デイヴィス率いる7人のサムライ達を読み解いてみよう。


マイルス・デイヴィス、スティーヴ・グロスマン、キース・ジャレット、チック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・デジョネット、アイアート・モレイラの「7人のサムライ」が70年の夏「フィルモア・イースト」でくり広げた熱い、あまりにも熱い演奏を全身で浴びながら、一人ひとりのその後を見てみよう。



①マイルス・デイヴィス

1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。

1972年公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。

1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、75年の大阪でのライヴ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間に入る。




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②スティーヴ・グロスマン

とりわけマイルス・デイヴィスのジャズ・フュージョン・バンドでウェイン・ショーターの入れ替わりだった。その後、1971年-1973年、彼はエルヴィン・ジョーンズのバンドに在籍していた。

1970年、1981年に2度、日野皓正と、1980年11月-1981年1月に菊地雅章と、1970年にチック・コリアと、1974年にディジー・リースと、1990年にルネ・ユルトルジェ (Rene Urtreger) と、1998年にミシェル・ペトルチアーニと、2000年にジョニー・グリフィンと、録音で共演した。

1986年1月、1987年1月、2014年10月の3度に渡り来日し、東京のジャズクラブSOMEDAYで各1週間、及び全国ツアーを興行。




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③キース・ジャレット

マイルス・グループ在籍中の1971年、グループのヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会う。
同年録音の初のピアノ・ソロ・アルバム『フェイシング・ユー』とジャック・ディジョネットとのデュオ『ルータ・アンド・ダイチャ』を嚆矢として、現在まで30年以上に渡ってECMより作品を発表し続けることになる。

『フェイシング・ユー』ではあらかじめジャレットが作曲した曲がスタジオで演奏されており、このスタイルのピアノソロ作品としては『ステアケイス』、スタンダードを演奏した『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』などが挙げられるが、1972年頃よりプログラムの一切無い完全即興(Total Improvisation)によるピアノ・ソロ・コンサートを行うようになる。

ECMもそれらを積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組(CDでは2枚組)の大作『ソロ・コンサート』をリリースし、音楽界に衝撃を与えた。

このスタイルでの実況録音盤の第2作である『ザ・ケルン・コンサート』はジャズのレコード・CDとして最も高い売上を記録したヒット作の一つで、ジャレットの名を広く知らしめた。以後、現在に至るまで世界各地でピアノ・ソロ・コンサートを行い、折に触れて実況録音作品をリリースしており、ジャレットの一つのライフワークとも言える。

70年代においては、ピアノ・ソロでの活動と並行して2つのバンドを率いた。1971年には以前から活動していたチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンとのトリオにサックスのデューイ・レッドマンを加えた通称「アメリカン・カルテット」を結成。カルテットの音楽には、オーネット・コールマンとの共演歴があったレッドマン、ヘイデンによるフリージャズの要素や、ゲストとしてパーカッショニストのギレルメ・フランコやアイアート・モレイラらがしばしばバンドに参加したことからエキゾチックな民族音楽の要素も見られた。

初期にはアトランティックや、コロムビア、中後期にはインパルス、ECMといったレーベルに作品を残している。ジャレットは1974年にこのカルテットを率いて初来日を果たしている。

もう一つのバンドである通称「ヨーロピアン・カルテット」はパレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン、そしてジャレットと並びECMを代表するミュージシャンであるヤン・ガルバレクという3人の北欧出身ミュージシャンを擁するカルテットで、ECMに5つの作品を残した。

スタイルとしてはアメリカン・カルテットに似ていたものの、こちらはヨーロッパの民謡に影響を受けた音楽を展開。このカルテットも1979年に来日しており、これはヤン・ガルバレクの初来日でもあった。




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④チック・コリア

1968年後半からハービー・ハンコックに替わりマイルス・デイヴィスのグループに加入。『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチェズ・ブリュー』などのアルバムに参加する。

この頃からマイルスの指示でエレクトリック・ピアノ(フェンダー・ローズ)を弾くようになる。当初この楽器を嫌っていたチックだが、1970年代にはチックのサウンドに欠かせない楽器となっていく。

同じ時期チックはアバンギャルドなアプローチを見せるようになっており、マイルス・グループでもライブで聴かれるチックのソロは、かなりフリーの要素が強い。1970年、マイルス・グループを脱退した後、ベースのデイヴ・ホランド、ドラムのバリー・アルトシュルとグループ「Circle」を結成。後にサックスのアンソニー・ブラクストンを加えフリー・ジャズ寄りの演奏を展開する。

1971年に、ベーシストのスタンリー・クラークらとクロス・オーバー/ジャズのバンド、リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return To Forever)を立ち上げ、ECMレコードからアルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を1972年に発表。

カモメのジャケットで有名なこのアルバムは70年代ジャズ・フュージョン最大級のヒット作となる。革新的な音楽性と卓越した演奏技術に裏打ちされたこのバンドは数々の作品を生み出し、トップアーティストとしての地位を確立する。

中でも『ライト・アズ・ア・フェザー』に収録されている"Spain"は現在でも他の演奏家にプレイされ続ける、ジャズの、また彼自身の代表曲である。当初、フローラ・プリムやアイアート・モレイラなどブラジル系のメンバーが中心であったためラテン色の強いグループであったが、彼らの脱退後1973年にはギタリストのビル・コナーズが、1974年にはビルに替わってアル・ディ・メオラが加入し、よりロック色の濃い方向性になった。

1978年にリターン・トゥ・フォーエヴァーを解散したチックは、『フレンズ』、『スリー・カルテッツ』などエレクトリックにもストレート・アヘッドなジャズにも、時にはクラシックに挑戦したりと多彩な活動を続ける。

1985年には、デイブ・ウェックル、ジョン・パティトゥッチといった若いメンバーと「エレクトリック・バンド」を結成。圧倒的なテクニックと楽曲で話題を集める。1989年には同じメンバーで「アコースティック・バンド」と名前を変え、スタンダードを中心としたアルバム『スタンダーズ・アンド・モア』を発表した。





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⑤デイヴ・ホランド

1968年にマイルス・デイヴィスに誘われ彼のバンドに参加し、『イン・ア・サイレント・ウェイ』や『ビッチェズ・ブリュー』のアルバムに参加。

1970年にはアンソニー・ブラクストンとチック・コリア、バリー・アルトシェルと「サークル」を結成。
1970年代初期にはスタン・ゲッツやセロニアス・モンク、サム・リヴァースとも共演。
1975年にはジョン・アバークロンビーとジャック・ディジョネットとゲイトウェイを組んでいる。

日本人ミュージシャンとの関わりは、1986年の富樫雅彦(per)の音楽生活30周年記念コンサートで、ドン・チェリー、スティーヴ・レイシーと共演しており、アルバム「BURA-BURA」として発売されている。

2006年、第48回グラミー賞において最優秀ラージ・ジャズ・アンサンブル・アルバムを受賞した。




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⑥ジャック・デジョネット

1968年にトニー・ウィリアムスの後任としてマイルス・デイヴィスのグループに選ばれる。

レコーディング作品『ビッチェズ・ブリュー』や『オン・ザ・コーナー』などの歴史的名盤に参加、いわゆるエレクトリック・マイルス・サウンドの構築者としてだけではなく白人ヒッピーの聴衆の前でもフィルモアやイギリスのワイト島のフェスティヴァルに参加して演奏の録音をのこしている。

幼い頃からピアノも学んでおり、鍵盤ハーモニカを演奏した1968年のリリース作品『Jack Dejohnette Complex』ではロイ・ヘインズ、1974年発表のアルバム『ジャッキーボード』では、ドラムをジョージ大塚に任せ、ジャックはピアノとを担当している。パット・メセニー曰く「マッコイ・タイナーのようなスタイル」。また、余技としてベース演奏もこなし、かなりの腕前である。

マイルス・ディヴィス・グループを抜けた1970年代前半にはECMレコードにてデイヴ・ホランドと共にチック・コリアのレコーディングに参加、自己のグループではギタリストのジョン・アバークロンビーと組み、ディレクションズ、ニュー・ディレクションズの2つのグループで活動し、レスター・ボウイ、ディヴィッド・マレイらとのスペシャル・エディション、ジョン・サーマンやまたゲイリー・ピーコックと共にキース・ジャレットとのスタンダーズ・トリオの活動の録音作品等を残している。

ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ジョン・スコフィールドら、ジャズ界のトップ・アーティスト達の活動を支えるファースト・コール・ドラマーとして活躍した。

2000年代中頃から、プライベート・レーベルGolden Beamsを運営し、自身の作品をリリースしている。
2009年、『Peace Time』が第51回グラミー賞において最優秀ニューエイジ・アルバム賞を受賞。
2012年、ユナイテッド・ステイツ・アーティスツ(英語版)のフェローに選出された。





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⑦アイアート・モレイラ

ブラジルのパーカッショニスト。

15歳でプロのミュージシャンとして活動を開始し、1964年にクァルテート・ノヴォへ参加しアルバム『Quarteto Novo』を発表。渡米後、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』へ参加したのち、ウェイン・ショーター『スーパー・ノヴァ』、ウェザー・リポート『ウェザー・リポート』等、フュージョンの名作にも参加。

1972年にチック・コリアのユニット、リターン・トゥ・フォーエヴァーのメンバーとしてアルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を発表し評価された。 また、同年発売のポール・サイモンのアルバム『ポール・サイモン』に参加。

以後、妻であるフローラ・プリムとのユニット、フォース・ワールドとして活動している。




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☆☆☆GGのつぶやき
マイルスの足跡を辿ることでジャズの名プレーヤー達との「新たな出会い」が始まる。
マイルスとの出会いからおよそ50年経つ今もなお、我が琴線に触れ、官能の襞をゆすぶり続ける。
定年後の今、自分の人生に寄り添い、時に熱く、時に激しく、時にクールに、官能を鎮めてくれる「ジャズの帝王」に完敗、そして乾杯!!



















































by my8686 | 2019-02-16 15:37 | 愛しさとせつなさのJAZZ | Trackback | Comments(0)