京都ひとり旅を終え、鮮明に残像として残る風景がある。
作日に引き続き、「龍安寺 石庭」における気になる推理を読み解いてみよう。
現代科学において、宇宙の始まりはビッグバンと呼ばれる大爆発であったとするのと同じように、禅の世界にも、「無がいきなり爆発する」という考えがあるという。
これを「驀然打発」という。
驀然打発、驚天動地。
驀然(まくねん)として打発(だはつ)せば、天を驚かし地を動ぜん。
「驀」の意味は、 のりこ(える)・の(る)・まっしぐら。
突如として爆発し突き抜けることを意味する言葉。
ひとたびそういう状態が驀然として打ち破られると、驚天動地のハタラキが現われるという。
石庭を一本の線で分割すると、庭は二つに分かれる。
二本の線で分割すると、庭は三つに分かれる。
分割する線を増やすと、ある段階で無がいきなり爆発し、石庭は不思議な見え方をする。
まさしく「無の爆発」である。
さらに、この図式をより分かりやすく説いた『無門関』の第一則「趙州の無字」を読み解いてみよう。
ある僧が趙州和尚に尋ねた、「犬(狗子)にも仏性が有りますか?」
趙州は云った、「無」。
禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師達が設けた関門を透過しなければならない。
素晴らしい悟りを得るには一度徹底的に意識を無くすことが必要である。
祖師の関門も透らず、意識も絶滅できないような者は、すべて草木に憑り付く精霊のようなものである。
さて、それでは祖師の関門というものは一体どのようなものであるか。
ここに提示された一箇の「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つに他ならない。
そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。
この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるだけでなく、同時に歴代の祖師達とも手をつないで行くことができ、祖師達と眉毛どうしを結び合わせて、祖師と同じ眼で見たり、同じ耳で聞いたりすることができるのだ。
なんと痛快なことではないか。どうしてこのような関門を透過しないでおられようか。
360の骨節と84、000の毛穴を総動員して、全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。
昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。
あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。
これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。
ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう。
それは、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢いだ。
この生死の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中でも遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになるだろう。
さて、諸君はどのようにしてこの無の字をひっ提げるか。
ともあれ持てる力を総動員して、この無の字と取り組んでみよ。
もし絶え間無く続けるならば、ある時、小さな種火を近づけただけで仏法の灯火が一時にパッと燃え上がるだろう。
犬に仏性が有るかどうかと、仏陀の命令が丸出しされたのだ。
うっかり有無の話だと受け取れば、忽ち命を奪われるだろう。
この話をどうとらえるかが重要である。
趙州に質問したこの僧は「涅槃経(大乗涅槃経)」に説かれた「一切衆生悉有仏性」の文句を充分知った上でこの問を発していることが分かる。
従って、僧の質問は「犬に仏性があるかどうか?」を質問しているのではなく、「仏性とは何か?」という質問をしていると考えることができる。
趙州はこの質問に対し「無」と答えている。
この趙州の「無」とは何かが第一則の主題でもあり「無門関」の主題ともいえるだろう。
趙州は同じ質問に対しある時は「有」とある時は「無」と答えている。
ある時は「有」、ある時は「無」と答えるのは論理的矛盾ではないかと、一般人は考えるだろう。
無門もこの矛盾に気が付いている。
実際彼は、「評唱」に於いて、「この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。」と言っていることからも分かる。
この矛盾は禅の悟りの核心をなす「仏性」とは何かが分かれば解決される。
仏性とは何かという問題は、中国禅の実質的な大成者である馬祖道一禅師の禅が分かれば解決される。
さらに、馬祖道一禅師の禅とその思想について、明日からは読み解いていかねばなるまい。
☆☆☆GGのつぶやき
龍安寺の石庭から馬祖道一禅師の禅思想に話が至るとは、思いもよらぬ展開となってきた。