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京都ひとり旅残像「龍安寺 石庭/仏教を結ぶ五と十五」説

京都ひとり旅を終え、鮮明に残像として残る風景がある。

龍安寺 石庭に置かれた五つの石組がそれである。





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なぜ、十五の石を五つの石組に分けたのか。これらの数字にはなんらかの根拠があったことは確かである。


先達たちの推理の中でも有力視されるのが、「仏教にまつわる五の世界」との対比説である。

「五仏」説、「五智五仏」説、「禅宗の京都五山」説などもある。

五山とは政府が住持を任命する五つの官寺をいい、禅宗寺院では最上の寺格を示すという。

建武年間(一三三四─三八)に、第一南禅寺(大徳寺と同格)、第二東福寺、第三建仁寺、第四建長寺、第五円覚寺と制定されたのが、全部の名前が判明する最初の五山である。

その後、将軍や天皇の就任に合わせて何度か入れ替わったが、応永十七年(一四一〇)以降は、足利義満が定めた南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺という序列が長く定着していたという。





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そして、石庭に置かれた十五の石は「仏教にまつわる十五の世界」を見立てたとする説である。

「十五宗」説、「十五尊観音」説、「十五童子」説、「十五大寺」説がある。





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禅宗には「臨済宗十五寺派」があり、宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられたという。

その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。

栄西が伝えたのは黄竜派の教えとされ、俊芿(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになったという。

江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派であり、師から弟子への悟りの伝達(法嗣)を重んじ、釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。

同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府、室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つとされ、京都五山、鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えたが、その後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していき、江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建された。

現在の臨済禅は白隠禅とも言われ、白隠は「中興の祖」として知られる。
この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが、白隠も妙心寺派の出である。

妙心寺派はこのほか、愚堂東寔や一糸文守を輩出しており、一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。
また、江戸時代は各宗派において学林が栄え、臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った。





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十五寺の名前と開山を下記に列挙しておこう。

建仁寺(明庵栄西)、東福寺(円爾弁円)、建長寺(蘭渓道隆)、円覚寺(無学祖元)、南禅寺(無関普門)、国泰寺(慈雲妙意)、大徳寺(宗峰妙超)、妙心寺(関山慧玄)、天龍寺(夢窓疎石)、永源寺(寂室元光)、向嶽寺(抜隊得勝)、方広寺(無文元選)、相国寺(春屋妙葩)、仏通寺(愚中周及)、興聖寺(虚応円耳)。





☆☆☆GGのつぶやき
十五個の石を五つの石組で構成した根拠が「仏教」にまつわるものであったという説には、なんとなくうなづけるものがある。
しかし、誰にもその正解は謎とされるだけに、興味つきないのである。
















































by my8686 | 2019-05-14 14:57 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

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