福島県の旅から少し道草して、感性のおもむくまま官能の共振現象をもとめて「シミュレーションの旅」を続けている。
気がつけば、ダニエル・リベスキンドのヴォイドの深みに填ってしまった。
本日はドイツのオスナブリュックにある美術館「Felix Nussbaum House」を訪れてみよう。
「出口のない美術館」と題した設計コンペ優勝案。
リベスキンドとしては処女作となる1998年完成のプロジェクトである。
フェリックス・ヌスバウム(1904年12月11日 - 1944年8月9日)は、ユダヤ系ドイツ人のシュールレアリスムの画家。
1944年にアウシュヴィッツ強制収容所で殺害されている。
この建物を探訪する前に、画家ヌスバウムについて少し予習しておこう。
ヌスバウムは、ドイツ、ニーダーザクセン州のオスナブリュックの金属を扱うユダヤ系の商人の息子に生まれた。
芸術を愛する家族の出身で、父親はアマチュア画家で、フィンセント・ファン・ゴッホの作品を賞賛していた。
家族は夏を北海のドイツ領の島、ノルダーナイ島やベルギーの海岸の街、オーステンデで過ごしていた。
父親の影響で、ヌスバウムは絵に強い関心をもった。
1922年からハンブルクの美術学校で学び始めるが、1923年の夏にはベルリンの美術学校(後のベルリン芸術大学)に移った。
パウル・プロンケやセザール・クラインに学びハンス・マイトの修士学生となり1929年に卒業。
1929年にベルリンの画廊で最初の個展を開いた。
作品の傾向はゴッホのスタイルから、アンリ・ルソーやジョルジョ・デ・キリコ、カール・ホーファーといった画家に関心が移っていった。
この頃後に結婚することになるポーランド人画家、フェリカ・プラテックと知り合う。
1928年にゴッホの影響から離れるためにゴッホが最後に活動したフランス南部を旅したとされる。
ベルリンにスタジオを開き、画家として働き始め、1932年にVilla Massimo Prizeを受賞。
ローマでの奨学金を得て、1932年10月にローマに移った。
アドルフ・ヒトラーが1933年にドイツで権力を握ったため、ヌスバウムはドイツに戻って活動することはできなくなった。
ローマからスイス、フランスを経由してベルギーのオーステンデで観光ビザで滞在。
フェリカ・プラテックと再会し、1937年9月に2人はオステンドを離れてブリュッセルに移り、10月に結婚。
ベルギー人彫刻家と友達になり、展覧会に出展。
1938年にパリで開かれた「自由ドイツ展(Freie Deutsche Kunst)」にも参加。
第二次世界大戦が始まると、ベルギーの市民権のないドイツ人として、南フランスのサン=シプリアンの収容所に収容。
フランス降伏の後、脱出しブリュッセルに逃れ、4年間ブリュッセルに潜伏していたが、1944年6月20日にドイツ軍に逮捕された。
7月31日にアウシュヴィッツ強制収容所に送られヌスバウムとプラテックは、8月2日にガス室で殺害された。
しばらく忘れられた画家となっていたが、1970年代に再発見され第二次世界大戦中に描いた作品が再評価。
生誕地のオスナブリュック市では1980年代からヌスバウムに対する顕彰や作品の収集を始め、ヌスバウム作品を集めた個人美術館であるフェリックス・ヌスバウム美術館が1998年に開館。
この建物の設計コンペで優勝したのが、ベルリン・ユダヤ博物館の設計も手掛けたダニエル・リベスキンドである。
明日からこの「出口のない美術館」を読み解いてみよう。
☆☆☆GGのつぶやき
「Felix Nussbaum House 」を探訪しつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。