福島県の旅から少し道草して、感性のおもむくまま官能の共振現象をもとめて「シミュレーションの旅」を続けている。
気がつけば、ダニエル・リベスキンドのヴォイドの深みに填ってしまったようだ。
引き続き、リベスキンドが記した「出口なき美術館」コンセプトを読み解いていこう。
ヌスバウムの絵画は単なる絵画にとどまらない-それらは関与という新たな文脈と、新たな目撃のうちに置かれた、永遠に生き続ける資料であり、芸術という形で歴史を語る行為を、ユダヤ人とヨーロッパ文明がまさにぎりぎりのところで生き延びたことの象徴にまで高めるものである。
この計画の空間構成、形状、計画の内容といった要素は、どれも時代的な枠組みと切り離せないヌスバウムの運命について語っている。
ローマで授けられ、ナチスによって剥奪された賞。ベルリン時代。オスナブリュックからの永久追放が招いた結果。
無益に終わったフランスとベルギーを経由する脱出の道。
最終的にアウシュヴィッツに強制移送され、殺害されたこと。
それでもこの悲劇的な運命は、すべて究極の正義に対するヌスバウムの揺るがぬ希望という文脈に置かれている。
今回提案する計画は、その希望を満たすことを目指すものである。
ヌスバウム・コレクションを新しい美術館を含めた博物館群に収めると同時に、歴史的な建築物の組み合わせ全体を新たなひとつのまとまりに変容させること、それが今回の設計の使命のひとつである。
永遠の不在を表現する「目撃されざるものと実現されざるものの美術館」は、死者と、表現することのできないホロコーストの暗い淵の意味が響きわたる美術館である。
この美術館は、新たな文化的価値を明らかにすることによって、オスナブリュックが抱える歴史的文脈を主題に据えることを目指しており、そのために感傷的な瞬間を避けなければならないという特殊な課題を背負っている。
新しい博物館群の各要素は、統一的な構造を結合し構成するものと見なされると同時に、分断という永遠の地平をあらわすものでもある。
この分断が、逆説的に市内の重要な箇所を結び、歴史的な意義のある地点を空間的記憶に結びつけているのである。
したがって、新しい建物は新しい形として君臨することを目指すのではなく、むしろ既存の歴史博物館と民芸品のコレクションを収めた邸宅のための希望の背景となるように一歩退くべきである。
これらの建物はよく知られてはいるが、めったに人の訪れない日常の形と見なされている一方で、この場所全体は一連の新しい地形図を中心に再構成される。
その結果オスナブリュック市は自らの歴史とつながりをとり戻し、ヌスバウム美術館は失われた歴史をつなぐ絆になる。
この美術館は時間と運命の神秘的な不可逆性を伝えながら、変容を引き起こす装置として作用する。
memo
□ヨハン・ロシュミットの可逆性のパラドックス
ロシュミットは、ルートヴィヒ・ボルツマンが熱力学第二法則の導出として与えたH定理について、ある時間方向に対してエントロピーが増大する場合、エントロピーが減少する時間反転解も必ず存在することを指摘。
□エルンスト・ツェルメロの再帰性パラドックス
ツェルメロはポアンカレの回帰定理により、力学系の微視的状態は、充分長い時間が経過することで、初期状態近傍に戻るため、力学系のエントロピーは減少し得るが増大則が成立しないことを指摘。
ボルツマンは、分子的なふるまいから、エントロピーが増大することを示している。
ただし、H定理は「分子的混沌の仮定」を置いており、一般に証明されたものではない。
デリダは、『グラマトロジーについて』で、把持と予持とを考慮に入れたフッサールの時間意識の現象学は、それでもなお依然として単線的時間に捉われていると指摘している。
「現前の単純性を脱構築することは、単に潜在的現前の諸地平を、つまり予持と把持との一つの「弁証法」――この弁証法は現在を包囲するのではなく、現在の只中に設定されるであろう――を、
考慮に入れることではない。したがって問題なのは、時間の構造にその異質性とその根本的継起性とを保有させることによって(たとえば過ぎ去った現在や到来する現在は生き生きした現在の形式を分割してそれを根源的に構成するのだなどと言うことによって)時間の構造を複雑化することではない。そのような複雑化、つまりまさしくフッサールが記述したような複雑化は、大胆な現象学的還元にもかかわらず、単線的、客観的、内世界的なモデルの明証、現前だけにこだわっている」と語る。
「時間的なものとして、超越論的意識は常に、明証の中で「それ自身独立に」自らに与えられる真理に、アプリオリに先行するものとして現れるのであり、また意識が構成したばかりの真理、つまりすでに意義を賦与されたものとしての産出物として、自律的かつ「即自的」な妥当として与えられ、「対自的」に構成する運動の基盤として与えられるような真理に、後続するものとして現れるのである。意識と真理の明証における見かけ上の同時性はそれゆえ、常にすでに綜合的なのであり、つまりアプリオリな綜合なのである。絶対的同時性、つまり両契機間の、あるいは一方の契機の自己との分析的同一性は、アプリオリな綜合つまり存在の真理とは両立不可能なのである」
この続きは、明日のお楽しみとしよう。
☆☆☆GGのつぶやき
「Felix Nussbaum House / Museum of Cultural History」を読み解きつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。