感性のおもむくまま官能の共振現象をもとめて「シミュレーションの旅」を続けよう。
本日は、「県立ぐんま天文台」の「ストーンサークル」を読み解いてみよう。
動機は、昨晩の中秋の名月と満月の重なる天体メカニズムの不思議からである。
旧暦と新暦に1年で11日のズレがあること。
さらに、太陽暦には、4年でほぼ1日のズレが生じること。
このズレを調整するために「閏日」が設けられ、この4年に1度やってくる閏日を数えるために、ストーンヘンジの四方に目印となるステーション・ストーンが配置されていること。
このステーション・ストーンを、磯崎は「ストーンサークル」に配置したのだろうか、という素朴な疑問からである。
磯崎が「県立ぐんま天文台」を設計したのが1998年10月、竣工が1999年1月。
ボーンマス大学の研究により、「古代の暦(カレンダー)」説が有力であると科学雑誌『Antiquity』に発表されたのが2022年3月2日。
ストーンヘンジは、夏至の日の出と、冬至の日の入りを見通せるように設計されていたことは知られていた。
しかし、ここから「カレンダーとしての機能があるのでは?」と示唆されてはいたが、他に並んでいる石が暦とどう関係するのかは不明で、最近まで実証されていなかった。
しかし2020年の研究で、ある事実が判明し、この説に進展があった。
それは、ストーンヘンジの大部分を構成する「サルセン石」が、すべて同じ産地のものであり、同時期に設置されていたこと。
つまり、これらの石が一つのユニットとして、何らかの機能を持たせられたと考えられる。
ボーンマス大学の研究主任は、これら石の配置が暦と関係していると考え、調査を開始。
古代の数秘術や、同じ時代に存在した暦法を調べ、ストーンヘンジと照らしあわせて行くと、ストーンヘンジは、「365.25日の太陽暦にもとづくカレンダー」であることが濃厚になったという。
太陽暦とは、地球が太陽のまわりを回転する周期をもとにした暦。
周期は約365.25日で、1年を365日とすると4年でほぼ1日のズレが生じる。
このズレを調整するために閏日(うるうび)が設けられている。
ストーンヘンジの太陽暦は、研究主任いわく「非常にわかりやすい仕組みになっている」という。
ストーンヘンジの配置図を確認してみよう。
まず、外側の輪には全部で30個のサルセン石があり、1個が1日を表している。
これが10個ずつ、3つの週(Decan1〜3)に分けられて、円1周で1カ月となる。
ちなみに、円中央の赤線の上側が夏至、下側が冬至の方向。
1カ月30日、これが12カ月で360日になる。
そして足りない5日分は、円の内側に配置された5つのトリリトン(3つの石を組み合わせた門型の構造物)が担う。
研究主任は、この5日を閏月として追加したと指摘し、これで365日となる。
ただ、太陽暦の周期は365.25日なので、4年で1日のズレが生じる。
その4年に1度やってくる閏日を数えるために、ストーンヘンジの四方に配置された「ステーション・ストーン」を目印としたと考えられる。
さらに、太陽暦の機能を果たすことで、毎年同じ石のペアの間を通して、夏至と冬至が見られるのだ。
「これは、日付のカウントの誤差をチェックするのに役立ったのでは」と本研究主任は指摘する。
夏至の日だと思っていたのに太陽の位置がズレていたら、何日分ズレていたか一目で分かるからだ。
以上のことから、ストーンヘンジは太陽暦と見て間違いないようだが、こうした暦法は当時から存在していたのだろうか?
「1週10日間」というのは今では考えられないが、当時は普通にあったようだ。
研究主任によると、古王国時代のエジプトでも同様の太陽暦が記録されており、その他にも「1週10日間」を採用した地域があったという。
「このような太陽暦は、BC3000年以降に東地中海で開発され、エジプトでは、BC2600年ころの古王国時代の始まりに広く使われていた」
しかし一方で、この知識がどうやってイングランド南部にまで伝わったのかは謎だという。
ストーンヘンジの造り手たちが独自に開発したとは考えにくく、時代も近いことを踏まえると、他地域から伝播してきたと考えるのが妥当。
可能性のひとつとして、「エームズベリーの射手(Amesbury Archer)」の存在を指摘する。
「エームズベリーの射手」とは、2002年5月に、ストーンヘンジの近くで発見されたBC2300年ころの男性の遺骨。
調査の結果、フランスとスイス国境辺りのアルプス地方で生まれ、ブリテン島に渡って来たことが判明している。
つまり、時代は少し前になるが、彼と同じルートを介して、太陽暦がイングランドに持ち込まれた可能性があるという。
こうした疑問は、今後の遺物分析やDNA解析によって解決されるだろう。
研究主任は次のように語る。
「ストーンヘンジに太陽暦の機能があるとわかったことで、その地が当時の人々の生活拠点になっていたという新たな見方ができるようになった。儀式や祭りのタイミングは、この暦にもとづいて行われていたのだろう。」
磯崎の設計した「ストーンサークル」の真ん中にある「ステーション・ストーン」は、閏日を数えるための目印として賦活化されているのだろうか。それとも、単なるモニュメントとして建っているのだろうか。
☆☆☆GGのつぶやき
「県立ぐんま天文台」の「 ストーンサークル」を読み解きつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
2026.3.6追記
ストーンヘンジの太陽暦構造は、エジプト古王国の太陽暦(BC2600頃)と時期的に近く、独自発明とは考えにくいことから、知識の伝播があったと推測される。しかし、その経路は依然として謎である。重要な手がかりとして挙げられるのが、ストーンヘンジ近くで発見された「エームズベリーの射手」である。彼はアルプス地方で生まれ、ブリテン島へ移動した人物であり、当時すでに長距離移動ネットワークが存在していたことを示す。太陽暦の知識も同様のルートで伝わった可能性は高い。現在、古代DNA解析・アイソトープ分析・遺物の起源分析が急速に進み、移動経路や文化交流の実態が詳細に復元されつつある。太陽暦がどのようにイングランドへ伝わったのかという疑問は、今後の分析によって解明される可能性が高まりつつある。
「古代の天文装置」と「現代の建築的引用」がどう接続されるかという、非常におもしろい論点である。
「ストーンヘンジ=太陽暦装置という理解がもたらす視点」
ストーンヘンジが太陽暦として機能していたという近年の研究は、「あれは儀式の場」から「生活のリズムを刻む拠点」へという解釈の転換を生んだ。
- 年間の太陽の動き
- 祭祀のタイミング
- 農耕・移動・共同体の再編
こうした「生活の周期」を可視化するための巨大なカレンダーだった可能性が高い。
つまり、儀式は“暦に従って”行われていたのではなく、暦そのものが儀式と生活を統合する構造だった。
磯崎新の「ストーンサークル」とステーション・ストーン
磯崎のストーンサークルは、ストーンヘンジの幾何学的構成を参照しつつ、「原型(archetype)」を現代に再解釈する装置として設計されている。
中央の「ステーション・ストーン」は何をしているのか。
1. 閏日を数える“機能”として賦活化されているのか?
磯崎の設計思想を踏まえると、実際の天文学的機能を持たせる意図は薄いと考える方が自然である。
磯崎は、古代の構造を「機能」ではなく“構造の記憶”として現代に召喚することを好む建築家である。
つまり、古代の暦の仕組み、天体観測の幾何学、儀式と生活の統合、こうした“意味の層”を引用しつつ、実際に暦として使える精度を求めてはいない。
ステーション・ストーンが閏日を数えるための「実用装置」になっている可能性は低い。
2. では単なるモニュメントなのか?
これも「単なる」と言い切ると、磯崎の意図を取り逃す。
磯崎のストーンは、“機能を失った機能の形”を現代に置くことで、人間の時間感覚や儀式性を呼び覚ます装置として働いている。
つまり、実際の暦ではない、しかし暦の“原型”を想起させる、そのことで空間に「時間の厚み」を与えるという、半ば機能的・半ば象徴的な存在である。
結論:ステーション・ストーンは「閏日を数える装置」ではなく、「暦の記憶を呼び起こす装置」
磯崎のストーンサークルにおけるステーション・ストーンは、古代の天文的機能を“引用”しつつ、現代の空間に時間性・儀式性・原型性を立ち上げるための“記号的・構造的装置”と読むのがもっとも自然であろう。
つまり、実用的な暦ではない、しかし暦の構造を思い出させる、そのことで空間に「時間の場」をつくるという、磯崎らしい二重構造のデザインと考えたい。
ストーンヘンジを引用した理由は、磯崎新が建築を「機能」や「様式」ではなく、より根源的な“構造”として捉えようとした姿勢にある。ストーンヘンジは屋根も壁も持たないが、囲いと配置だけで共同体の時間・儀式・生活を統合する「建築の起源」を示す装置であり、磯崎にとっては建築が成立する最初の条件が露呈した原型だった。また、太陽の運行を空間化した巨大な暦として、時間そのものを建築化する古代の思考を体現しており、近代建築が失った時間性を再び呼び戻す手がかりとなった。さらに磯崎は、古代の機能をそのまま再現するのではなく、「機能を失った機能の形」を現代に置くことで、記憶や儀式性を喚起することを重視した。ストーンヘンジはその象徴として、現代建築に“起源の構造”を召喚するための最も強力な引用だったのである。
磯崎の“円環”モチーフは、初期にはストーンヘンジ的な「起源の構造」への参照として、囲い・儀式・時間性を象徴する原型的形態として用いられた。その後、都市や建築の境界を曖昧化する装置として拡張され、円環は「閉じる」よりも「循環し続ける」構造へと転じる。晩年には、円環は機能を超えた“記憶のフレーム”として扱われ、時間・歴史・空虚を包む抽象的な場をつくるための思考装置へと変化した。
ストーンヘンジ的構造は、現代建築で「天文装置としての機能」を再現するのではなく、時間・儀式・共同体を統合する“原型的構造”として再解釈されている。円環や環状配置は、境界を示しつつ開放性を保つ「場のフレーム」として用いられ、光・影・季節の変化を取り込み、時間経験を空間化する装置へと転換された。また、古代の儀式性は、記憶・共同性・循環性を喚起する抽象的な構造として読み替えられ、機能を超えた“時間の建築”として現代に生きている。
磯崎は、戦後の焼け跡で「都市も歴史も一度消えた世界」を経験し、建築の基盤そのものが揺らぐ感覚を生涯抱え続けた。だからこそ、機能や様式ではなく、文明が成立する以前の“起源の構造”へ遡る必要を感じた。ストーンヘンジ的な円環は、時間・儀式・共同体を束ねる最古のフレームであり、崩壊後の世界で建築を再び立ち上げるための「ゼロ点」として機能した。磯崎はそこに、現代を読み解くための普遍的な構造を見たのである。
磯崎新の戦後経験は、彼の建築思想の根幹を形づくった。焼け野原となった大分で、都市も歴史も一度「ゼロ」に戻る瞬間を目撃した彼は、建築の安定した基盤が崩れ去る感覚を深く刻み込まれた。そのため、機能や様式ではなく、文明以前の“起源の構造”へ遡る姿勢が生まれた。廃墟から再び世界を立ち上げるには、普遍的で時間に耐える構造が必要だと考え、円環・ストーンヘンジ的装置を通じて、時間・儀式・共同体を束ねる原型を現代に再構築しようとしたのである。
「日本にもストーンヘンジに相当する“環状列石(ストーンサークル)”が多数存在した」
日本の代表的ストーンサークル(縄文時代)
日本では、縄文時代に環状列石(ストーンサークル)が多数つくられ、北海道〜東北〜中部に176か所以上確認されている。
主な遺跡
•大湯環状列石(秋田県鹿角市)
•縄文後期(約4000年前)
•二重円構造
•北西側に日時計状組石があり、太陽観測の可能性が指摘される
•伊勢堂岱遺跡(秋田県)
•ストーンヘンジと同様、夏至の太陽と一直線に並ぶ構造がある
•小牧野遺跡(青森)・是川遺跡(岩手)など
•川石を用いた大規模な円環
•儀式・埋葬・季節祭祀に関連すると考えられる
日本にもストーンヘンジに類似する構造は存在し、縄文時代の東北・北海道を中心に広がる環状列石がその代表例である。大湯環状列石や伊勢堂岱遺跡では、石の配置が夏至・冬至の太陽と連動する軸線を持ち、日時計状の組石も確認されており、太陽観測や季節祭祀に関わる機能が推定される。これらはストーンヘンジと同様、円環によって共同体の時間・儀式・死者を統合する場を形成していた点で共通する。一方で、文化交流はなく、両者は独立に成立したと考えられる。つまり、太陽の運行を基準に季節を把握し、共同体の秩序を維持するという普遍的な必要性が、遠く離れた地域で同時期に“円環”という構造を生み出したのである。
磯崎の円環モチーフと縄文的世界観の接点は、時間の循環と場の中心性にある。縄文の環状列石は、太陽の運行や季節の循環を共同体の儀式と結びつけ、中心に「空(くう)」を置く構造を持つ。磯崎の円環もまた、機能を超えて“中心の空白”を強調し、時間・記憶・共同体を包むフレームとして働く。両者は、始まりも終わりもない円環を通じて、世界を循環的に捉える日本的な時間観と深く響き合っている。
影を軸にした建築は、太陽そのものではなく“時間の痕跡”を扱う点で、磯崎の思考と深く共鳴する。影は形の不在によって時間を可視化し、空間に遅延や余白を生む。磯崎が重視した「中心の空白」や「機能を失った形」は、影の揺らぎと同質であり、建築を固定的な器ではなく、時間の変化を受け取る場へと変える。影を基軸にすれば、建築は太陽の運行を直接追うのではなく、光と闇の境界が刻む“時間の陰影”を構造化する装置となり得る。
日本建築には、太陽そのものよりも“影”を空間の主役に据える独自の系譜がある。その原点の一つが桂離宮で、深い庇・格子・庭木が光を直接取り込まず、影の濃淡によって空間の奥行きと時間の移ろいを表現する。光は制御され、影が場の品格と静けさをつくる。これを近代に継承したのが谷口吉生である。彼の建築は、壁・床・水面に落ちる影の線や揺らぎを精密に計算し、影そのものを“建築の素材”として扱う点に特徴がある。豊島美術館や葛西臨海水族園では、影が空間の輪郭を描き、光と闇の境界が時間の流れを可視化する。桂離宮が自然と影の調和を極めたとすれば、谷口はそれを抽象化し、影を通じて空間の静謐・余白・時間性を構築する現代的手法へと昇華した。この系譜は、日本建築が光ではなく“影の質”によって世界を形づくる文化的感性を示している。
安藤忠雄と磯崎新は、ともに建築を“時間の器”として捉えたが、その扱い方は根本的に異なる。安藤は、太陽光がつくる影の輪郭を通じて時間を可視化し、光と闇のコントラストが刻む瞬間の変化に建築の意味を託した。彼にとって時間とは、空間に差し込む光の角度や影の揺らぎとして現れる“現象”であり、建築はその受容体である。
一方、磯崎は時間を“循環する構造”として捉え、円環や空白を用いて、歴史・儀式・共同体を包む抽象的な時間のフレームを構築した。安藤が一瞬の光を切り取る“瞬間の時間”を扱うのに対し、磯崎は反復し続ける“構造としての時間”を建築化した。両者は同じ太陽を参照しながら、時間の質そのものを異なる次元で空間化している。