山本理顕の2024年度プリツカー賞受賞が基因となり、あらためて山本の主要作品を読み解いている。
本日は、「岡山の住宅」を読み解いてみよう。
場所は、岡山の田畑が残る某市内。
施主は「山本クリニック」の精神科医。クリニックを建てる約4年前に自宅を山本理顕に設計依頼している。
その当時の状況がA新聞に紹介されている。
あらためて、その概要を見てみよう。
施主が30代半ばになって、家を建てようかと考え始めた。住んでいた借家で夜中、積みあげた本が崩れてきたのがきっかけだった。
知り合いの設計士に相談し、住宅メーカーの展示場を見て回る。しかし提案されるのは、30坪の2階屋という「標準仕様」ばかりだ。
「ピンとこない」。そんな時期、恵子さんが一冊の本を見つけてきた。
「意地の都市住宅」(87年刊、中原洋著)。若手建築家が条件の悪い土地に情熱で建てたローコスト住宅の事例が並び、写真からは、その家の空気が立ち上ってくるようだった。
夫婦は地元の高校で同学年だった。展覧会に行くと、気に入った絵が一致する。好きな家も同じだった。
「気づくと中庭を眺めています」と夫人。大きなガラスのサッシ。空が近い。春風も、めったに降らない雪も、肌で感じる。
高校の頃、父が純和風の家を建てた時は、意見はいうけれど、「私なら、こうはしないな」と思っていた。
子育てを始めたのはアパートだ。何もかもコンパクトで使い勝手はよいが、「毎日に追われ、家どころではなかった」。
そしていまの住まい。「私たちにとって、余分なものも、足りないものもない」。満ち足りた気持ちで暮らせる。
精神科医の施主は、地域医療で高齢者の自宅を回った時期がある。かつては大家族で囲んだちゃぶ台に、老夫婦がふたり。鴨居には代々の家族の写真、裏庭に手入れされない農機具……。
さびしい、と胸のうちを明かす人もいれば、満足だと言い切る人もいた。「何が幸せかは、ぼくが決めることじゃない。納得できるなら、人はどこにでも住めるんじゃないかな」
娘は、ロンドンに留学中だった。家が完成した時は小学6年生。真新しい自分の部屋は素直に喜べたが、トイレに行くのに「雨が降り始めた、ヤバイ」と気にする毎日は、「せめて廊下がほしい」と本意ではなかった。
「いまも引っかかります。私は、居心地のよさを一番に考えたいから」
ただ海外で暮らすようになって、家族とあの家が、いまの自分を育ててくれたとわかる。
「個とか我とかいうものが、ここでは大切だから」
両親は「すごい深い親友」。昔は「枠」をはみださないものにあこがれた。いまは家族という言葉ではくくれない、つながりを感じる。
建築家・山本理顕から「応接間は?」と聞かれて、すぐに「いりません」と答えた。
出した希望は、
「家族3人各自に個室」
「たっぷりの書庫」
「蛍光灯の照明は嫌い」
「床は木に」
の四つだった。
隣はファミリーレストラン。裏は干し柿をつるした古い民家。田んぼ1枚分の敷地に、ぐるりと鋼の塀が巡る。玄関すぐに個室の棟、広い中庭を囲んでキッチンの棟とお風呂の棟。三つの独立した建物が向かい合う。家族が互いの部屋を行き来するのは、一度外に出てから。朝起きて顔を洗いに行く時も靴を履く。雨が降れば傘をさす。
山本理顕は、個と家族と都市社会をテーマに実験的なプロジェクトを多く手がけていた。
この家も、新しい家族関係の住宅モデルとして、専門書にたびたび取り上げられてきた。
山本はこの住宅の設計について次のように記している。
両親と子供、計3人の住宅である。娘はまだ小学生だった。
玄関を入ったところは長い土間のような場所である。その土間に面して3つの個室が並んでいる。
その3つの個室の向こう側に中庭があって、その中庭に台所、バスルーム、洗面所などが配置されている。
全体が分棟形式である。
中庭を囲んでそうした諸室が配置されている。
この中庭は保田窪第一団地の中央広場と同じように外側からは極めて閉鎖的につくられているのである。
3つの個室は外に対して開いているけど、その背後にある中庭は閉ざされている、というような関係をつくりたかったからである。
閾論的集合論である。
でも、今考えるとこれほど閉じなくてもよかったんじゃないかと思う。
住宅はもっと外に対して開かれているべきだと最近は考えている。
当時はもちろんそう考えていたけど、開かれる場所が個室部分に偏っていた。
そしてその個室という部屋が極めて形式的に考えられていたように思う。
外に開かれる部屋は必ずしも個室である必要はない。
ひとつの住宅はその外部との関係によって、どう開かれるべきかその都度違ってくるはずなのである。
つまり、住宅のつくられ方は地域社会との関係によって変わってくるはずである。
2020年の夏、山本はある建築討論会で「距離のポリティクス」と題して、地域と家族を調停する住宅として「岡山の住宅」について語っている。
「岡山の住宅」は、個室が分散し、家族同士の距離が十分に確保されていて、現在から見ると家族間の距離を保つことのできるある種理想的な住宅モデルにも見える。
このように近代的な家族を個に解体していくモメントが当時はあったと思うが、その後の集合住宅、地域社会圏では家族単位で住居を開く方向にシフトしている。
変化の背後に家族に対するどのような認識の変化があったのだろうか、との質問に次のように答えている。
東雲キャナルコートCODANを設計するあたりで考え方が大きく変わった。
それまでは家族の中で、個人はどのように自立した個として存在できるのかを考えていた。
そこには黒沢隆氏の個室群住居という考え方からの影響もあったと思う。
しかし、そこに大きな矛盾が孕んでいたことに気がついた。
個室群住居における個人は、すでに家族のメンバーなのではないか。
つまり父親と母親の関係があって子どもがいる。個人の自立と言ってもその家族の関係からは抜け出せない。住宅を開きたいと思ったときに、黒沢氏のように個室を開こうとすると、どこを開いたらいいのか。個室に何があるかというと結局ベッドになる。
「岡山の住宅」では、ベッドルーム=個室という考えがあったが、ベッドルームは外に開くようなものではない。これはどこかに矛盾があると気がついた。
住宅は静かで安らぐ場所であることが前提なので、店舗は許されていない。
バウハウス以降、世界中がそういう考え方で住宅をつくってきた。個室を開こうが、住宅そのものを開こうが、開く理由がない限り開けない。
そこに住宅という存在は大きな矛盾を孕んでいる。住宅が地域社会の中にあるということを忘れているからだと思う。
地域社会という大きな共同体と、家族という小さな共同体を調停する。
それが住宅という存在。けれど近代化の過程で「1住宅=1家族」という形式が標準的な住宅になって、住宅はただ家族がプライバシーを守るためだけの建築になってしまった。
住宅は家族の内側を守るための隔離施設の様になってしまった。
「親密な関係」を「家族」が独占する様になったのは近代化されて「1住宅=1家族」が標準化されて以降のことだから、地域も含めた複数のスケール感が成り立つためには、今の住宅のあり方そのものを疑う必要があるのだと思う。
今のテレワークは会社のサテライトだ。地域につながっているわけではなく会社に直接つながっている。
テレワークそのものは否定しないけれど、それは自宅が会社の一部。地域との関係がつくられる訳ではない。
テレワークによって経済活動が活性化されるようなことが起こっていないと、テレワークだからといってそれを評価するのは難しい。
我々が考えなければならないのは、地域社会にどうすれば参加できるのかだと思う。
住みながら店をやるとよいと言っているのは、地域経済に関わっていると必然的に近隣との関係を作らないといけないからだ。
店をやっていると周りとはうまくやらないといけない。周りと良い関係をつくれば、お客さんも増えるかなという思いはある。
経済活動によって他者とのコミュニケーションが取れる。そうした地域社会の関係を窮屈だと感じるだろうか。そのような空間をつくるのは建築家の責任だと思う。
空間をつくるのは建築家にしかできないことだ。
コミュニティとプライベート、そしてパブリックとの関係がなんだかあまりにも混乱しているように思う。
整理すると、プライベートな空間は、家族のための空間。その空間は「家」と呼ばれる。
古代ギリシャではオイコスと呼ばれた。その家が集まって作られる空間がパブリックな空間。
古代ギリシャではポリス(都市国家)と呼ばれた。
オイコスの側からみればポリスはパブリックな空間。オイコスに住む人は、パブリックな空間において行われる政治に参加する資格を持っている。
これがプライベートな空間とパブリックな空間の基本。
ところが、そのポリスを、さらにその外側からみるときに、それはそこに住む人びとによって占有的に支配される空間に見える。
外側の人びとにとってはパブリックな空間ではない。内側の人たちだけのための空間、それをコモン(common)と呼ぶ。
ラテン語のcommunis。共同体と訳されている。つまり、ひとつの共同体の内側では、家族とその集合との関係こそがパブリックな関係だと認識されるが、その外側からみると、それがいかにも閉鎖的な集団に見える。それが家族(プライベートな空間)とパブリックな空間、そしてコッミュニティーという空間の本質的な関係だと考えられる。
オイコスの側からみたときのポリスはパブリックな空間だが、複数のポリスの相互関係においては、それぞれのポリスは、それぞれにひとつのコミュニティーとして認識されるということになる。
つまり、ひとつの集団がパブリックな集団として見えるか、それともコミューンのような閉じた集団に見えるかというその違いは、位相の違いなのだ。
それを観察する主体がどこに位置しているかということによって、呼び方が変わるというだけの話で、多くの社会学者や政治学者がパブリック、コモン、プライベートという空間がそれぞれ独自に存在していると考える、その考え方が間違っている。それが混乱の根本原因だと思っている。
地域社会の自治のためにテクノロジーは十分使えると思う。
高齢者をケアする眼差しが、地域社会の住人、つまりコミュニティの内側の人によってもたらされることが重要。
見張っているのが国家ではなく、コミュニティの内部で相互に見守りをするのはあり得ると思う。
国家が管理を独占するのではなく、自分たちの自治の中で情報を管理し守っていかなければならない。
ひとつのコミュニティが外的な圧力に抵抗できる仕組みを作るということが小さなコミュニティ単位でできるのがよいと思う。
作法というのは、コミュニティと深く関わっている。
コミュニティの中で人と人とが相互に作法を演じることで、コミュニティが維持されるからだ。
それは自治の中から生まれるが、それは今もあるのだと思う。
失礼にならないような言葉遣いや物腰が、いまも地域のコミュニケーションをつくっている。
加えて、作法というのはそれを見ている他者が必要。
いわば作法というのは演技。リチャード・セネットという社会学者は18世紀は演技の時代だと言っている。
当時は誰もが公的な場ではカツラをかぶリ、服装も決められていたので、都市の中を歩いているとそれが何者かが一目でわかった。
その時代にルソーが登場してきて、こんなのじゃいけないと思ったのだろう。
「本当の自分はどこにあるんだ」と自由な個人を前提としたシビル・ソサエティを提唱し、作法の空間が壊れていった。でも自分というようなものはどこにあるのか。ひとつのコミュニティの中で作法とともにあるようなものなのかもしれない。
建築は地域社会の人のためにつくっているという意識が建築家にとって重要だと思う。
クライアントが地方自治体でも、ディベロッパーでも、建築家にとっては地域社会の人々にその建築が共感されなかったら、本来、建築は建てられないはず。
どのような建築であったとしても、直接のクライアントの背後に地域社会の人々がいる。彼らに迎え入れられない限り、建築は作品として迎えられることはないと思う。
memo
『クラフツマン 作ることは考えることである』
リチャード・セネット著 高橋勇夫訳〈筑摩書房〉
歴史におけるクラフツマンの由来を詳述し、その現代的意味を問い直す。
クラフツマンがもっとも大きな誇りを抱くのは、成熟する技術である。
それだからこそ、単純な模倣は持続的な満足をもたらさないのである。
技術は進化しなければならない。
クラフトの時間が緩やかに流れることが、満足の源泉となる。
実践が埋め込まれて、技術が自分自身のものになるからである。
さらに緩慢なクラフトの時間によって、反省したり想像力を働かせたりすることが可能になる──それはせっかちに結果が追求されているときには不可能なことなのである。
「成熟」の意味は「長い」である。
つまり人は、長い時間、技術の所有者であり続けるということだ。
「ホモ・ファーベル(作る人)」3部作として、
ほかに『The Foreigner』『Together: The Rituals, Pleasures, and Politics of Cooperation』(いずれも日本未訳)がある。
☆☆☆GGのつぶやき
山本理顕設計工場の「岡山の住宅」を読み解きつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。