山本理顕の2024年度プリツカー賞受賞が基因となり、あらためて山本の主要作品を読み解いている。
本日は、某講演会で「熊本県営保田窪第一団地」について[「契機」を空間的に表現する]と題して山本が語った言葉を読み解いてみよう。
この団地が出来上がったときさまざまなメディアからいろいろな批判をされました。
なぜそんなに批判されたかというのは、ここでも、多くの人は集合住宅のプログラムが先にあると思っているのです。
快適な生活のためのプログラムがあって—そのプログラムを「内容」と呼びましょう—建築家はその内容を受け止めて、そのための容器をつくっていくという構図を想定しているのです。
建築家側からその内容、つまりプログラムに対して提案があるとは思ってもいません。
快適な住まいはこうあるべきであると、あらかじめある理想像に基づいて建築が出来上がっているのだと誤解しているのです。
しかし、そんなものはありません。だれもが納得できる理想的な生活像などあるはずがありません。
ですからわれわれの立場から新たな生活像について提案すると、それは建築家の越権行為だと受け取られてしまう。
「デザインか生活か」という問いかけになってしまうわけです。建築家がデザインばかり頑張るものだから生活が犠牲にされていってしまう、という構図です。
その構図の中では、建築家は単なる装飾屋さんです。快適な生活のためのプログラムを受け止めて屋根のかたちを変えたり、壁の色を考えたり、パンチングメタルを貼っていくのが建築家だと思っているのです。
110世帯がいっしょに住む契機など最初からあるわけがありません。
逆に、もし110世帯が住むとしたらどんなことが空間の構成としてできるか、それを考えることは確かにできます。
ですから私の提案は、もし110世帯がともに住むとしたら、どんな空間の構成が可能かという、いわば仮説に基づいた提案です。
敷地の外周部分をループ状の道路が巡っています。集会室と三つの棟が中庭を囲んでいます。
七つのブロックからなる棟、四つからなる棟、五つからなる棟に分かれていて、ひとつのブロックがふたつの階段室を持っています。
ループ状の道路に面している階段と、中庭側に面している階段です。
中庭への入口はありません。消防車が入れるぐらいの開口はありますが、普段は閉められています。
したがって、中庭に入るには各住宅を通過するか、あるいは集会室を通過しなければ入れません。
つまり、この中庭はここに住む人たちの専用です。非常にプライバシーの高い中庭です。
私はここに住む多数の人たちに帰属するプライバシーを「コモン」と呼び、この中庭をコモンスペースと呼んでいます。
このコモンスペースは不特定多数の人たちが勝手に入ってくるわけではない。
この団地に住む人たちだけしか使いませんから、自分たちの帰属するなかま内の庭ということになります。
なるべく各戸のリビングルームはこの中庭側に開放するようにつくってあります。
最近、私はこんな図ばかり描いていますが、各住宅とコモンスペースの関係が説明しやすい図だと思います。
各住宅を通過して中庭に入る図式です。
仮にひとつの住宅の人たちだけを取りだすと、その人たちは当然外にさまざまなネットワークを持っています。
会社のメンバーやクラブのメンバー、子供たちであれば学校のメンバーなど社会的な関係を外にもっているわけです。
その社会的な関係と同じように、内側にもそのような関係を持っていると考えればいい。
昔の村社会のようにその村に帰属し、あらゆる人格をそこで拘束されるように働く共同体の図を描けといわれれば、これが逆転したかたちになります。
しかし、この図式はそうではなく、コモンスペースに対して参加したくなければ、その関係を切断することが論理的には可能です。
つまり、個々の人たちはコモンスペースを巡る関係に拘束されないで済むわけです。
逆に、コモンスペースだけを考えれば、そこへは個々の住宅を介さなければ入れません。
繰り返しますが、コモンスペースはいつでもここの住宅に済む人たちの意思によって閉じたり開いたりできる関係になっているのです。
その役割のことを私は「閾」と呼んでいます。
閾は境界を意味しています。違う性格のものが出会うその境界面のことです。
☆☆☆GGのつぶやき
山本理顕設計工場の「熊本県営保田窪第一団地」を読み解きつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。