本日は、「那覇市立城西小学校」を読み解いてみよう。
場所は、沖縄県那覇市の首里駅から徒歩約14分の真和志町にある。
1987年に老朽化した校舎の増改築で竣工した那覇市立城西小学校。
屋内運動場、幼稚園、児童クラブの改築も計画されている。
基本計画を開始した1983年当時から、首里城公園の計画(1992年開園)が想定されていた。
ここと連続するようなランドスケープが原によって構想され、約30年を経て、敷地の樹木が育ち、森のような環境が生まれている。
当時はプロポーザル方式もなく、原のアトリエ・ファイと地元の末吉栄三計画研究室が共同して、「守礼門」に隣接する敷地で、30の普通教室、図書室、視聴覚室、職員室、給食室などの改築(87年竣工)に向けて設計が始まったという。
その後、2003年に特別教室棟の改築が行われた。
そして、2018年に改築部分として残されていた、屋内運動場(体育館)、幼稚園、児童クラブの工事が行われた。
つまり、戦後に建てられた校舎の改築計画は、およそ35年かけて完成をみている。
ひとえに那覇市教育委員会の執念に支えられた設計でもあるといえる。
改築工事のスタート時は、敷地がやがて歴史公園になるという条件があり、どのような小学校を建設すべきか公開ミーティングが行われている。
「将来歴史公園の一角を占める」という条件から、〈集落=村としての小学校〉というコンセプトを主として景観イメージが素直にデザインされている。
ひとつには、当初、原広司が沖縄の歴史を全く理解していなかったという。
そのため、沖縄諸島の文化については集落調査の一端として訪れ、その形態的特徴や赤瓦屋根の建築を明確に把握していったという。
末吉栄三は、すでに新しいタイプの「オープンスクール」の校舎をいくつか実現しており、建築家でもある教育委員会の知念盛信部長は、「沖縄の学校建築は、日陰と通風を旨とするから、おのずとオープンスクールの形式となる」との信念を持っており、この地域論的形態論に感動したという。
公開ミーティングは、それぞれ独立して、教育関係者、沖縄の建築家、地元の人々、県土木課といったグループに対して重ねられた。
主たる説明は、教育委員会と設計者側が行い、趣旨となる考え方の了解が図られた。
おそらく、ここで行われた公開ミーティングは、その後一般に行われるようになったワークショップ形式の出発点となった。
「歴史公園の一角」という課題は、坂本万七遺作写真集「沖縄・昭和10年代」の1枚の写真、つまり戦争で那覇市中心部が灰じんと化す以前の写真が、それぞれのミーティングの場で、人々がイメージを共有するうえで、大きな働きをしたという。
原は設計に関して、某講演会で次のように語っている。
「城西小学校は、集落の教えでいえば最もストレートな建物になっています。」
「守礼之門の横という、沖縄文化の代表的シンボルに隣接し、将来は歴史公園として整備していこうという首里城跡の中に敷地が位置しているので、こういう場所でどんなものをつくるかといったときに、かつてこの同じ場所にあった集落の再現という方法をとったわけです。」
「この同じ場所の50年前の写真が出てきたので、それを参考にしました。戦争でこうしたかつての集落は壊れてしまったんです。そこで沖縄の人びとに、かつての集落を再現するような、そんな小学校をつくってみたらどうだろうと持ちかけたわけです。これは、集落の最もストレートな写しなんです。」
「集落のつくり方のさまざまなボキャブラリーを採用しています。換気や採光用のいろいろなトップライト、そこからいろいろな光が射し込んでくる。熱気を抜く換気孔、そういうようなものがついています。」
明日は、校内の様相について読み解いてみよう。
☆☆☆GGのつぶやき
原広司設計「那覇市立城西小学校」を読み解きつつ、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。