グレースケールで塗り潰すように描かれた初期作品、例えば、鹿の姿を淡く写しとった《Hirsch(Deer)》の静謐さは、写真が持つ冷たい正確さと、絵画が抱える曖昧さがせめぎ合う場所にある。
《Hirsch》の静謐さは、単なる動物の再現ではなく、冷たい正確さと曖昧さのせめぎ合いから生まれる差異の生成にある。
ドゥルーズ的に言えば、それは「像が生成される場」であり、見る者に「可視と不可視の間にある生成の運動」を体験させる。
グレースケールの塗り潰しは、像を見せると同時に隠す。
ドゥルーズ的に言えば、これは「可視の生成」であり、像は固定された対象ではなく、見えたり消えたりする流れの中で生成される。
《Hirsch》は「鹿そのもの」ではなく、写真を経由した像の再生成であり、さらに絵画によって曖昧化される。
ここでは「本物/コピー」の序列が崩れ、シミュラークルとしての像が立ち上がる。
その後、彼は写真の精度を“ぼかす”ことで、像の本質を逆説的に浮かび上がらせた。
《Betty(ベティ)》や《Lesende(読書する女)》といった肖像画は、ぼかしのヴェールの向こうで、むしろ驚くほど感情豊かだ。
モデルの顔は見えないのに不思議な親密さが宿り、「見ることとは何を見ないことなのか」を問いかける。
画家は主観を差し挟まない。しかし、見る者の感情は否応なく立ち上がってしまう。その構図自体が、リヒターの美学である。
リヒターのぼかし肖像は、ドゥルーズ的に言えば 「像の生成を体験させる装置」。
顔が見えないことで、見る者は「見えないものを見てしまう」経験をする。
そこに立ち上がる感情は、画家の主観ではなく、像の生成そのものから生じる。
ドゥルーズにとって「像」とは固定された対象ではなく、生成のプロセス。
リヒターのぼかしは、像を消すのではなく、像が生成される運動を可視化する。
つまり「見えないこと」が「見えること」を立ち上げる契機になる。
展示の中盤にあたる、抽象作品の部屋に足を踏み入れると、巨大な「Abstraktes Bild(アブストラクト・ビルト)」群が視界を占める。
彼が使用するのは巨大なスキージ(絵の具を大胆に引き、ときに意図せぬ線を生むゴム製ヘラ)で色を引き延ばし、偶然がつくり出す軌跡を受け入れながら、二律背反で生まれた作品。
近づくほど、掻き取られ、引き伸ばされ、重ねられた色の層が、ほとんど地層のように脈動しているのがわかる。完璧に構築されていながら予期せぬものが紛れ込む、リヒター自身が語る「制御と偶然の共存」が、まさに眼前で脈動している。
リヒターの抽象作品は、ドゥルーズ的に言えば 「差異の生成が脈動する場」。
制御と偶然のせめぎ合いは、像を固定するのではなく、生成の運動を可視化する。
地層のような色の堆積は、知覚が生成される地質学的プロセスを体験させ、絵画を「見ることの生成」へと開いている。
☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品から学べるのは、「像は固定された対象ではなく、生成のプロセスである」という認識。見えるものと見えないものの間に立ち会うこと。そして、不在や曖昧さを豊かな生成の契機として受け入れること。さらに制御と偶然の共存から新しい差異を生み出すこと。そして、本物/コピーの序列を超えて、生成そのものを価値とすることである。