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F.Y.I 「リヒター大規模回顧展」を読み解く vol.3

彼の作品が本質的に深いのは、歴史の影に向き合う勇気を持つからだという。

RAF(ドイツ赤軍)のメンバーが1977年10月18日に獄中死した事件をめぐり、リヒターが新聞写真をもとに描いた15点のシリーズ「October 18, 1977」、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロで崩れ落ちるワールドトレードセンターの情景を描いた《September》(2005)、そしてアウシュヴィッツの写真を起点としながら像を消去した4点組の《Birkenau(ビルケナウ)》。


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赤と緑、黒と白が重なり、何かが燃え尽き、残骸だけが残っているようなその画面。
かつて戦後ドイツに生まれ、歴史の影を抱えたリヒターは、沈黙の形で歴史を描いたのだ。


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リヒターの歴史作品は、ドゥルーズ的に言えば 「歴史の影を生成する場」。沈黙や消去は欠如ではなく、差異の生成を駆動する。燃え尽きた残骸のような画面は、歴史を再現するのではなく、歴史が生成され続ける場を提示している。

「October 18, 1977」や《September》、そして《Birkenau》は、歴史的事件を直接描くのではなく、写真や痕跡を媒介にして「像の生成」を提示している。ドゥルーズ的に言えば、これは「出来事のイメージ」を固定するのではなく、差異の生成として開く試み。歴史は再現されるのではなく、生成され続ける場として示される。



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2017年、リヒターは「もう絵画を描かない」と宣言した。
体力の問題だけではなく、次へ進むため、あるいは絵画の可能性を十分に押し広げたという自負からか。


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だが、彼は描くことを止めても表現をやめたわけではない。ガラス作品、デジタルストリップ、ドローイングへと表現を更新し、93歳の今日も制作に向かっている。展示の終盤に置かれた最終抽象画群は、長い旅の果てに到達した透明な静寂のようで、色彩はほとんど呼吸だけを残して消えていく。
この展示会を手がけたキュレーターは「リヒターは世界の責任を絵画に負わせた画家。止まらせ、見させるために」と語る。



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リヒターの晩年の表現は、ドゥルーズ的に言えば 「生成の持続と差異の極限」 に到達している。絵画を止めても、表現は別の媒体で生成し続ける。最終抽象画群は、色彩が消えながらも呼吸のように残ることで、沈黙の中に差異を生成し続ける場となり、世界の責任を「見させる」力を持ち続けている。

ドゥルーズにとって重要なのは「生成(devenir)」。リヒターが絵画を止めても、ガラスやデジタルストリップ、ドローイングへと移行するのは、表現の「生成」が持続している証。「描かない」という選択は終わりではなく、むしろ新しい生成の契機となる。



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その言葉どおり、彼の作品の前では足が止まり、像の奥に自分自身の記憶や感情を見てしまう。膨大な作品群を見終えたあとに胸に残るのは、結局のところ「世界をどう見るのか」という問いである。像と沈黙のあいだに差し出されたその問いかけは、観る者の視線をそっと反転させ、自身の内側へと向け直す。リヒター晩年の作品は、ドゥルーズ=ガタリ的に言えば 「無器官の身体としての絵画」。器官=像や意味を剥ぎ取ることで、絵画は純粋な生成の場となり、沈黙の中で差異と強度が脈動する。そこに観る者は足を止め、世界と自己の生成を同時に体験する。



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ドゥルーズ=ガタリにおいて「無器官の身体」は、固定された機能や秩序を失い、純粋な生成の場となる存在。器官=役割や機能を剥ぎ取ることで、身体は「流れ」「強度」「差異」の場として開かれる。晩年の抽象画群は、色彩が呼吸のように消え、ほとんど「器官を失った場」に近づいている。具体的な像や機能を持たず、ただ「生成の強度」だけが残る。ガラス作品やデジタルストリップも、像を固定せず、光や線の流れを「強度」として提示する。


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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターから学べるのは、「歴史も表現も、固定された対象ではなく生成のプロセスである」という認識である。沈黙や消去は欠如ではなく生成の契機。出来事や記憶は固定されず、常に更新され続ける。終わりは停止ではなく、新しい生成の始まりであり、像や役割を剥ぎ取ることで、純粋な強度と差異が立ち上がるのである。



by my8686 | 2026-01-06 06:06 | ぶらぶらアート鑑賞 | Trackback