2018年 02月 12日 ( 1 )

「Gerhard Richter&différance」を読み解く

明け方から降り積もった雪も一時休止し、太陽の日差しに路面の雪は融け始めている。
振替休日の昼前、昨日に続いてリヒターの語る「無」について読み解いてみよう。



どの色をどの位置に塗るかは偶然に任せ、主観的決定を下さない。
自己を超越するものとしての「無」という概念をリヒターは説く。



c0352790_12095389.jpg





哲学者ジャック・デリダの説いた差延(différance)に通じる概念であろうか。

「語でも概念でもない」

およそ何者かとして同定されうるものや、そのものの自己同一性が成り立つためには、必ずそれ自身との完全な一致からのずれや、違い、逸脱といった、つねにすでにそれ自身に先立っている他者との関係が必要である。

このことを示すために、「差延」という概念が導入された。




c0352790_11114410.jpg





論理を簡略に述べれば、同定や自己同一性は、主語になるものと述語になるものの二つの項を前提とする。

「AはAである」

そのため、主体や対象は、反復され得なければならない。

「同じである」ということは、二つの項の間の関係であり、自己同一性においてもその事情は変わらない。
自己自身が差異化することによって、そこで初めてそれが複数の「同じ」であるが「別の」項として二重化しうる。


そして、そうなってはじめて、同定や自己同一性が可能となる。




c0352790_11120889.jpg





このことは、それ自身に完全に一致し、他を成立のために必要とせず、他に制約されておらず、自己充足した、根本的で特権的なもの、「他のもののうちにあり、他のものによって考えられるのではないもの(スピノザ『エチカ』 実体の定義)」というのは、たとえ概念の世界だけであっても、副次的に構築された名目的概念としてよりほかにはありえない、ということを意味する。






c0352790_11122800.jpg





差延は、再帰的な性質を持つが、このとき、この再帰を媒介する他の項は、あくまでも不在の形で、自己の側に残された、自己の側の対応する痕跡から遡及的に確認されるにすぎない。

しかし他方で、こうした痕跡は、あくまでもそうした不在の媒介項を前提とし、痕跡が刻まれたその項が自己充足することを許さない。
原・痕跡、あるいは原・エクリチュールとも表現される。





c0352790_11124703.jpg





ものが存在するという出来事をハイデッガーは、存在する対象として語りうるものとは、どうあっても異なるものであると考え、この違いを存在論的差異(Ontologische Differenz)と呼んだ。

この還元できない根源的な違いにこだわる限り、「ものが存在するということは、そのもののこれこれこういう性質である」という形式の説明は一切できない。





c0352790_11130978.jpg




性質や属性は、「これこれの性質が存在する」という形で語りうる対象だからである。

存在することは、ものの属性ではない。また「ものが存在するということは、より基本的な何かの在り方のモードや振る舞いである」という形の説明も解決にならない。

その基本的な何かは、依然として存在する何かなので、その存在がやはり問題として残るからである。









☆☆☆GGのつぶやき
ドゥルーズはヘーゲル的な差異への批判をニーチェとアンリ・ベルクソンを範例としてデリダとは異なる形で遂行した。
そこでは差異は微分(differenciation)と関係付けられ、自らを自己差異化する生産的な力、充溢した多様な強度として把握された。
とうぶん、Gerhard Richterから眼が離せそうにない。









































































































[PR]

by my8686 | 2018-02-12 11:13 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)