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「リヒターとフッサール現象学と差延の関係」を読み解く

明治安田生命保険は2019年4月からの定年延長に伴い、60歳以上の給与水準を60歳前の7~8割程度に維持するという。
ホンダも60歳以上の給与を59歳時点の半分から約8割に引き上げた。

25年までに厚生年金の支給開始が男性で65歳に引き上げられ、定年や再雇用で収入が減る「60歳の崖」が課題となっている。
人手不足が続くなか、経験豊かなシニアの士気低下を防ぎながら、雇用を維持する動きが広がってきているという。

大いに賛成である。60歳という年齢でバッサリ一刀両断されてしまうことに、違和感を感じた世代である。
これも人生100年時代に向けての、働き方改革であろう。






それはさておき、リヒターの作品と対峙することで、現代西洋哲学や大乗仏教思想、さらに現代物理学から相対性理論、さらにさらに、宇宙論からフッサール現象学にまで思いが及んでこようとは、予期せぬ展開に官能がふつふつと沸騰してきてしまっている。



あらためて、その内容をじっくりと読み解いてみよう。


フッサール現象学は、経験される現象を、純粋に意識に直接与えられている。
いわば疑いようのない確実なものだけにいったん還元して、そこから現象を再構成することで、認識の不確実性やそれにまつわる哲学的問題を克服しようという、デカルト的な試みであった。




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そのためには、そこからすべての現象が構成される「根源」として、純粋かつ直接的に意識に与えられた現在(現前 present)というものが考えられなければならない。
ここで、現象学にとって、時間性というものがアポリアとして現れる。






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意識に直接与えられているのは、あくまでも現在の瞬間であって、そこから他の時間を引き出すことはできない。
そこでフッサールは過去と未来は独立した、現在と対等の何かではなく、唯一存在する「現在」が持っているひとつのモードであるとした。







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こうしてフッサール現象学において、根源的かつ自己充足した現在の、意識への純粋な自己現前という、絶対的な位置づけが成立する。
このような現在のあり方は他を必要とせず自らを、余すところなく提示するということであり、デリダは「声」がそのようなありようのモデルとしてフッサールだけでなく過去の形而上学を規定してきたと批判する。






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音声中心主義。声は直接的に意味を伝え、文書はそうした生き生きとした「声」の間接的な反響に過ぎないとされてきた。
これに対して提出されるのがエクリチュールの概念である。


差延 (différance)は、デリダによるこの絶対的な現在への批判に関係する。




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彼の批判によれば、意識は現在を純粋かつ直接的に経験することはない。
デリダはこうした、自己自身に直接的に、何ら媒介をともなわず、明晰に意味が現前( present )する、届くという想定を指して『自分が-話すのを-聞く』と表現する。

「直観」や「明証」、また透明な理想的コミュニケーションとは、『自分が-話すのを-聞く』かのごとき概念なのである。
しかし、聞く自己と話す自己の差異=差延が、またそれに加えて話される言葉の話されなかった他の言葉との差異=差延が、聞くことの条件である限りで、この直接性も実際には汚染されている。





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つねにすでに現在は、過去によって不在の形で、つまりその痕跡の形で取りつかれており、過去に間接的に媒介されない直接的な現在というものはない。
現在は不可避的にすでに過去によって痕跡という形で汚染されている。






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言い換えると、過去の痕跡との関係によってはじめて現在は意味を為すことができる。痕跡の形で現在と関係している当の過去は、あくまでも痕跡の形でしか現在に含まれていない。そのため現在にとっては不在であり、フッサールの受動的総合のように、現在にその一部として所有されているわけではない。

こうして、現在はその自己充足性を失い、つねに欠如をはらんだ動的な時間性を帯びることとなる。
現在は独立して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。






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現在を構成する記号や表現は、それが意味を成すためには、それ自身とは別の記号や表現を指し示すことが必要であるが、この参照は無時間的なものではなく、必然的に時間的な「遅れ」を伴う。

記号は別の記号への参照によってはじめて記号として機能するのだが、この参照に不可避的に孕まれる「遅れ」によって、指し示す記号と指し示される記号は、同一の現在の内部にあることができない。






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こうして、現在において不在の記号が過去として、現在の記号に痕跡として憑依するのである。






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デリダはこの事実から、根源的なものは、そもそも存在し得ない「意識に直接与えられた純粋な現在」ではなく、こうして不在の過去と現在とを引き裂きつつ関係付ける差異、記号参照において孕まれる「遅れ」「ずれ」としての痕跡の働きであるとみなし、これを、差延 (différance)と名づけた。












☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品を読み解いているうちに、いつの間にか、フッサールにまで思考が及んでしまった。
リヒターの作品と対峙することで、フッサール現象学を思い起こすことは、あくまでも不在の過去の痕跡でしかない。
そもそも、相対性理論の四次元時空連続体としての宇宙は、フッサール現象学の「相互主観的世界」と同一の論理的存在構造であると認識している。
大乗仏教の思想も、現代物理学と対応させることにより、現代西洋哲学が取り組んでいる根本的な思想課題の解決に向かうための、過去の痕跡として憑依するのであろう。




































































































































by my8686 | 2018-02-14 09:18 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)