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2018年 02月 17日 ( 1 )

「フッサールの言葉」を読み解く

今週は、リヒターの絵画を通して、さまざまな事象と現象を観察してきた。
その観察を通して感じるのは、フッサール自身の言葉の重さである。

土曜休日の朝は、あらためて、その「フッサールの言葉」を読み解いてみよう。




 
認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。
しかも認識には認識される客観が対立しているのである。




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ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?
認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?






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自然的思考にとっては、認識客観が認識の中に与えられていることは自明的であったが、しかしいまはこの所与性が謎になるのである。







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自然的思考とは、我々の日常的な態度(フッサールはこれを自然的態度と呼ぶ)に基づいて成立する世界観を指す。
具体的には、自然科学・実証科学の世界像がイメージできよう。






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自然科学では、対象を区別したり分類したり、あるいは総合したりすることで、それまでの原理が再確認され、より深められていく。
その際、その対象が存在しているという前提を取っている。
これはつまり、たとえば物質の化学反応について研究するときに、その物質がそもそも存在しているのかと疑うことはない。

対象がそこに存在していることは、自然的態度においては初めから明らかであって、それを疑っても何も始まらない。
我々は「この対象は幻にすぎない」と考えて生きているわけでも、学問的にそれを扱っているわけでもない。






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だが、認識のあり方そのものに目を向けるとき、我々はひとつの「謎」に突き当たる。



個人の体験だけが、これらの思考作用だけがあるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在している。
すなわち一般に認識に対立する客観として措定されるであろう何かが存在していることを、認識者たる我々はいったいどこから知るのであろうか。
またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろうか?





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我々が何かを認識するとき、その認識は、ただ自分のうちで生じている主観的なものでしかない。
我々は、自分の意識から抜け出て、その「何か」を直接に確かめることはできない。





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にもかかわらず、我々はその「何か」が存在していることを知っている。
これは一体どのようにしてか。どのような根拠でそうなっているのか。
認識そのものを捉え直すとき、こうした問題が解きがたい「謎」として現れてくる、






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの作品には、「仮象の仮象」、「二重化した仮象」、「真理の仮象(輝き)」に強く魅かれる。
「ヘーゲル理解」、「真理のシャイン」、「芸術の二義性」を経て「フッサール現象学」にまで至るリヒターの画歴。
その深淵さに、あらためて驚愕する。これからも、ますます、目が離せまい。
マイルスの音歴を辿りながら、読み解いていきたい。
















































































































by my8686 | 2018-02-17 09:23 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)