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2019年 05月 09日 ( 1 )

京都ひとり旅残像「きぬかけの路-龍安寺」

京都ひとり旅を終え、鮮明に残像として残る風景がある。


京都初日、MTBに乗って向かった「きぬかけの路」も忘れることができない。
「金閣寺」から「龍安寺」を経て「仁和寺」に向かう歴史街道である。





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金閣寺周辺は、早朝から修学旅行生の団体バスが集まりざわついているため、周辺探訪のみにして龍安寺に向かう。

龍安寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受け、山号は大雲山と号し、石庭で知られる。
本尊は釈迦如来、開基は細川勝元、開山は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。






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「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺。
室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。

衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘を建立した。

この山荘を細川勝元が譲り受け寺地とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

龍安寺は、開基細川勝元らと守護大名山名持豊(宗全)らが争った応仁の乱(1467-1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と4世住持・特芳禅傑によって、明応8年(1499年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。

絵入りの名所案内書によれば、当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名であったという。

寛政9年(1797年)に京都奉行所へ提出された古地図には23か寺の塔頭があったが、寛政9年(1797年)の火災で方丈、仏殿など主要伽藍が焼失したため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)とし、現在にいたっている。






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その後、明治初期の廃仏毀釈によって衰退するが、イギリスのエリザベス2世が1975年に日本を公式訪問した際、龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道された。

そのため、昨今では世界各地での日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになった。



ガイドの口から必ずこの逸話が聴こえてくる。

石庭にこめられた諸説を、エリザベス2世がはたしてどう感じとったのか、その本質を知りたいとも思った。
そして、15個全ての石を見ることができる「部屋のある地点」の存在にも言及していたのであろうか。





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☆☆☆GGのつぶやき
龍安寺の枯山水は、年齢を重ねるごとに感じ方が変わる。
そこに禅的世界を夢想し、諸説の意味を問い直す。
その謎解きに夢中になれる年齢というものがあるのであろう。
ここで知った「山田無文」と「明石散人」の著作を図書館にリクエストしたのは、今朝のことである。




















































by my8686 | 2019-05-09 10:08 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)