人気ブログランキング |

京都ひりと旅残像「龍安寺 石庭/瞑想するための装置」説

京都ひとり旅を終え、鮮明に残像として残る風景がある。


引き続き、「龍安寺 石庭」における気になる推理を読み解いてみよう。



建築家磯崎新の視線として「瞑想するための装置」説がある。

映画作家の飯村隆彦氏と建築家の磯崎新氏は、平成元年(一九八九)、映画「間─龍安寺石庭の時/空間」を共同で制作。





c0352790_10121676.jpg





磯崎は詩(テキスト)で、「庭は瞑想のための装置である。空白を感知せよ、静寂の声を聞け、空虚の浸透を想え」とした。


「装置、空白、静寂、空虚」と並ぶ言葉の中で、気になるのは最後の「空虚」という単語である。


これは、「内部に何もないこと」を意味し、また「実質的な内容や価値がないこと。むなしいこと。」の意味にもなる。

「空虚の浸透を想え」というテキストは、何を伝えているのだろうか。





あらためて、この映画を読み解いてみよう。



三人のアバンギャルド―飯村隆彦、磯崎新、小杉武久が日本の古典空間に挑戦した「アートについてのフィルムであると同時に、フィルムにおけるアート」である。

1989年、ニューヨークの芸術団体 THE PROGRAM FOR ART OF FILM(メトロポリタン美術館とゲティ財団の共同出資による、アートに関する映画を製作・配給する組織)の委嘱を受け、飯村隆彦と磯崎新による共同作品として完成された。

この映画は、世界的に重要な、古典的美術および建造物より選ばれた作品に関する映画で、映画作品としても芸術的に優れたものを目指し、プログラム・フォー・アート・オン・フィルム(PAF) の 「Art on Film /Film on Art 」シリーズのひとつとして制作されたものである。

単なる芸術紹介作品ではなく、「アートについてのフィルムであると同時に、フィルムにおけるアート」という2つのアートを同時に実現している。

「映画の美学は、そのメッセージであり、実験映画、コンセプチュアル映画の質をもち、映画自体がひとつの芸術作品となっている。」
ネディン・コバート (アート・オン・スクリーン、ニューヨーク、1991)




石庭を左端から、そして右端からそれぞれ全景の固定ショットでとらえた後、次のようなテキストが現れる。




c0352790_10142349.jpg





   間

庭は瞑想のための

 装置である

空白を感知せよ

静寂の声を

 聞け

空虚の浸透を想え




これは、磯崎新による「間」についての力強いメッセージである。







次にカメラは、石の各グループ間を移動しつつ、最後のパンダウンへと続いた後、次のようなテキストが現れる。





c0352790_10145335.jpg







物ではなく

その間に生まれる

距離を

音ではなく

それが埋め残した

休止部分を

感知せよ




西洋的論理の二者択一論ではなく、東洋的論理での「物」も「距離」も視点移動すれば交換可能であるとする考え方である。







次にカメラは、広角な標準レンズから望遠へと変化し、やや早い移動スピードで数度にわたる移動とズーミングを繰り返した後、次のようなテキストが現れる。





c0352790_10153832.jpg






地面に置かれた

  石は

シュミセン(須弥山)のある

島なのだろうか

 白砂は

それをこの世界から

隔てている

大海なのだろうか





石庭を「大海」に浮かぶ島に見立てたメタファーである。







次にカメラは、最後の移動ショットが現れ、作為的な遠近法で虚構としての壁を設けることで、絶対的な空間として設定する。

三回目のカメラ移動の後、次の言葉が現れる。





c0352790_10160997.jpg





呼吸せよ

この庭をのみこみ

のみこまれ

合一せよ





飯村隆彦は、作品ノートの最後に次のように語っている。


「空白を感知」することから始まるこの逆説に満ちた一連のテキストは、不可能を可能とするきわめて、コンセプチュアルな次元において、働きかける。






☆☆☆GGのつぶやき
龍安寺の石庭に「不思議な禅的哲学」を感じてしまうのは、作者の意図なのだろうか。
まさに立体コンセプチュアルアートの世界といってよかろう。
この宇宙空間を大いに遊べ!!


































by my8686 | 2019-05-11 23:00 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)