カテゴリ:フッサールを読み解く( 22 )

フッサールの「間主観性/相互主観性」を読み解く

盆休5日目。早朝ウォーキングのあと庭木に散水。台風の影響で珍しく曇り雨模様となる。
午前中に約束の用事を済ませ、ランチまでに帰宅する。


ランチのあとは、本日もフッサールの術語とリヒターノートを読み解いてみよう。

他人とは私と同じく心(Seele)と身体(Leib)を持っており、私ではない主観であると考えられている。
このように心と身体を持っており、私と同じように主観を持っているような性格を「他我」と呼ぶ。




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さらに「間主観性」とは、「他我」も私と同様に唯一同一の世界の存在を妥当しているはずだという、私自身の妥当を意味する。
つまり、他我(alter ego)から間主観性/相互主観性(Intersubjektivität)までという認識にいたる。





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さらに、リヒターの「ノート 1962」を読み解いてみよう。



「みえないものを、みえるようにする」、知らないものを知らしめる、考えられないものを考えにもたらす-------これらは無意味な要求であり主張だ。
確かにみえていないものを推測することはできる、つまりそういうものが存在していることを、ある程度ははっきりと前提できるのだが、我々が表現できるのは、その不可視のものの比喩にすぎないのであって、それ自体ではないのだ。





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伝統をそのままうけいれなければいけない理由はない。どんなものでも、それ自体で良かったり悪かったりするのではなく、特定の状況のもとで、我々の主観的意思においてのみ、そう判断されるからだ。





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うけつがれてきた因習は、この事実のまえでその保証力や絶対性を失うが、良いものと悪いものについて日々判断をくだす責任は、我々が負うことにもなる。




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想像すること、見解をもつこと。それが我々を人間らしい人間にする。芸術とは意味をあたえ、形にするものであり、神を探求する宗教に似ている。
たとえ、すべての意味付与や想像は人為であり、幻影であるとわかっていても、それらを放棄することはできない。なぜなら、信仰(現在を思考し未来に思いをはせること)は、我々の非常に重要な特質なものだから。





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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの語る「芸術とは意味をあたえ、形にするものであり、神を探求する宗教に似ている」は、感性を刺激する。
alter egoからIntersubjektivitätまで、根源的現在化についても思考が拡散されていく。




















































































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by my8686 | 2018-08-15 15:30 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「Noesis―Noema」を読み解く

盆休4日目。今朝も早朝にウォーキングで汗する。筋トレにはならないらしいが、朝の澄んだ空気を吸うことで気分も爽快になる。
歩いたあとは、庭木に散水後、長男のBMWを洗車してやる。暑い夏の朝ならではの軽い全身ストレッチのつもりである。
全身汗したあとの熱いシャワーの快感を身体が覚えているあいだは、躊躇わずできそうである。





それはさておき、本日もフッサールの術語とリヒターノートを読み解いてみよう。



フッサールは、「知覚と知覚対象それ自体は一つになって結合されているものではない」という。




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知覚とパースペクティブなものとして現れる知覚事物とは、「意識とはすべて、何ものかについての意識である」という志向性ゆえに切っても切り離せない関係にある。

この関係をフッサールは、相関関係(Korrelation)と呼ぶ。





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この相関関係のうち、意識の作用的側面は「ノエシス」と呼ばれ、対象的側面は「ノエマ」と呼ばれる。
つまりノエシスとは、意識に現れた感覚的ヒュレー(hyle)(素材)に志向的な意味統一を与えて、ひとつの存在対象の妥当を構成する意識の働きであり、ノエマとはノエシスによって構成された対象性のことである。






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さらに、リヒターの「ノート1992.9.22」を併読してみよう。


ひっかいて剥がす。ここ一年、作品を描くといえば、ひっかいて剥がすことしかできない。
絵具をのせて、またとる。下にあったものを表に出すわけではない。





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もしやり直しのために剥がすということなら、表にでてくるべきもの(具象、記号あるいはパターン)を、つまり、まちがえなければ直接描くこともできた映像を、私は考えておかないといけないだろう。




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また、それは、失われた映像、埋もれた映像を再びみいだすといったような、象徴的な小技になるだろう。
絵の具をのせ、壊し、重ねるプロセスは、絵画を制作するときの微妙な操作に役立つだけである。






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターのアブストラクトと対峙するとき、やはりフッサールの「ノエマとはノエシスによって構成された対象性」に思考が及び。
意識に現れた感覚的ヒュレーに志向的な意味統一という術語が重なる。








































































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by my8686 | 2018-08-14 12:18 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解く

盆休3日目。早朝、それも太陽がまだ山の頂から顔を出さないうちに歩きはじめる。
コースは、昨日と同様。緩やかな下りから始まり最後に上り坂で終わる。時間にすれば、およそ30分。
一日のはじめのウォーミングアップには程良い運動である。



それはさておき、フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解いてみよう。


内在と超越、すなわち「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念である。





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フッサールのこの文脈における「超越」とは、神やイデアのような何かを超越した事物ではないということである。





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ここでの「内在」とは「原的な体験」であるがゆえに、それ以上疑うことのできない不可疑性のもの、先所与性のものである。





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ところが「丸い」「赤い」「光っている」といったものを知覚する際も、それが何か他のものから構成されている、すなわち超越した存在ではないのかという先構成論的な批判があるかもしれない。





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ただし、我々は「丸く感じた」、あるいは「赤く」、「光っているように感じた」という感じたことそのものは「ひょっとしたら丸く感じたのではないかもしれない」と疑うことはできない。





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したがって、フッサールの「内在」とは、より厳密には知覚におけるこの「不可疑的な感覚体験」、人がそのように感じたという「初源的な事実性」ということになる。






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リヒターの「ノート 1971」を追読してみよう。


おそらく、ドア、カーテン、表面性の絵画、ガラス板などは、視覚は我々に事物を認識させはするけれども、同時にそれが現実の認識を限定し、部分的に不可能にしてしまうというジレンマを、絶望的に比喩したものだ。





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さらに、「ノート 1973」を追読してみよう。


「中心」の喪失を肯定する。同様に、信条、態度、個性の喪失を肯定する。
ただ機械のように反応すること、不安定で、無関心で、依存していること。
客観性のために自分をすてること。





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☆☆☆GGのつぶやき
今年の2月にも同じことをつぶやいている。
フッサールの「不可疑的な感覚体験」とリヒターの「中心の喪失の肯定」。
それ以上疑うことのできない不可疑性に、やはり不思議な官能反応を覚えるのである。

























































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by my8686 | 2018-08-13 21:08 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの根源的呈示と間接的呈示を読み解く

盆休2日目。早朝、庭に散水後ウォーキングに出かける。
太陽が顔を出し始める7時前。空気はまだ澄んでおり涼気を感じる。山影に入ると冷気さえ覚える。
この道はかつて、父と母が二人で日課にしていた散歩道である。
暑い夏の朝、聴こえるのは夏虫のささやきと蝉の鳴き声と風の音。
晩年視力を無くした父の耳に刻まれたであろう記憶を辿りながら、一人歩く朝である。


昨日に続きフッサールの「Präsentation」と「Appräsentation」について読み解いてみよう。

我々は客観の妥当に際して、現象学的還元という手法を用いた。
その手法とは主観と客観の枠組を取り外し、主観から出発するものであった。




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さて、ここには当然のことながら現象学は独我論に陥るという批判が生まれてくる。

それに対してフッサールは独我論の問題、他我の問題を解決すべく、根源的呈示と間接的呈示という概念を持ち出してくる。

今ここに他我、すなわち私と同じように心と身体を持ち、私とは違った主観の持ち主が存在すると仮定しよう。
そのとき我々に、その他我が根源的に与えられ、他我自身の本質が直接的に把握されるならば、他我の本質が私の一要素となってしまい我々は独我論に陥ってしまうのである。





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つまり根源的呈示により他我を直観することは退けられなければならない。
したがって、他我経験には、間接的な志向性(Intentionalität)が働いているとみなさねばならない。
それは共に現在化させること(Mitgegenwärtigung)であり、つまりは間接的呈示でなければならないのである。





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では、我々は間接的呈示によってどのようにして他我を妥当するのか。

フッサールは類比であるという。

この類比は、私がボールペンとシャープペンシルの類似を類比するときのような物質的存在を類比するのとは異なる。
他我の類比に至っては我々と同じような身体を持ち、同じように話し、また私とは違うが同じような主観を持っているということが言える。
さらに「根源的創造作用」を介することにより、間接的に類比し、我々は他我の存在を妥当するのである。






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今見たように、フッサールによれば、他我の妥当は間接的呈示であり、私の一部として直接的に私の中から出てきたものではない。
これがフッサールによる現象学は独我論に陥らないと主張しうる主要な論拠であると考えられる。









☆☆☆GGのつぶやき
暑い夏にこそ沸騰する頭でフッサールの言葉と対峙してみよう。
普段見えないものが見えてもこよう。



































































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by my8686 | 2018-08-12 16:09 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「本質直観」を読み解く

その昔、お気に入りだった「ビジネススクール流知的武装講座」を読み返してみよう。


商品を開発したり、新たなビジネスを始めたりする際に、よく行われるのがマーケティング・リサーチである。

マーケティング・リサーチの基本は、顧客に「なぜ」と聞いて答えを出すことだが、マーケティングにおいて、顧客に「なぜ」と聞いてはいけない。




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それは、顧客に「なぜ」と聞いても、顧客が答えを持っているわけではない。合理的な理由づけを相手に強制することになりがちで、その答えは本心からのものとは言えない。
100人が「欲しい」と答えたからといって、その商品が売れるとは限らないのが現実である。

「なぜ」と聞くべき対象は顧客ではなく、「自分」である。顧客が「これが欲しい」と言っているからつくるのではなく、「これをつくろう」という自分の確信を問い直すことが寛容である。

ほかの人がどう思っているのか、本当のところはわからないのである。しかし、自分が何かを見て感じたことは、確かなことであり、確実なことを調べたほうが、より生産的なのである。





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このように、自分がなぜそのようなことを考えているのか、確信を持っているのかを、確かめ直すような思考を「本質直観」と呼ぶ。
本質直観は、もともと哲学者フッサールが生み出した考え方である。


これは、『はじめての哲学史』(竹田青嗣・西研編)に「直観補強型思考」と「直観検証型思考」という2つの思考法が紹介されている。




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直観補強型思考とは、我々が普段しているような、一般的な思考法。自分の何かしらの思いや考えを、関連する知識を手に入れることで、より強固にしていく思考法である。

一方、直観検証型思考は、哲学の思考法で、自分が何かしらの思いや考えを抱いていることに対して、そもそもどうしてそんなことを考えてしまったのかを考え、問い直す思考法である。

どちらも自分の抱く確信を出発点にするものの、そこから向かう方向は真逆である。

直観補強型は自分の外部に出ていくことを通じて、直観検証型は自分の内部に入っていくことを通じて、その正しさを確認しようとする。





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2つの思考法のうち、直観検証型思考を重視するのがフッサールの現象学である。
外に向かう思考は相手に到達しようがない(相手が何を考えているのかはどこまでいってもわからない)のだから失敗せざるをえない。

一方、我々が時に何かしらの確信を得ることがあるのは確かであり、そういう確信が得られたこと自体は疑いようがない。本質直観とは、この直観検証型思考を指している。


事例で探れば、古くはウォークマンの確信的アイデアやスティーブ・ジョブズの自己確実性が思い浮かぶ。

マーケティング・リサーチで得た結果を、直観視する「きっかけ」とし、「これは何だ」と感じた瞬間に、なぜ自分がそう感じたのかを読み解くことが寛容であろう。






☆☆☆GGのつぶやき
AIに教育するサンプル数は、多いほど精度があがるという。
フッサールの「本質直観」を凌駕する日も時間の問題なのだろうか。






























































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by my8686 | 2018-04-17 13:57 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「実証主義批判(Positivisums)」を読み解く

米誌フォーブスが6日発表した2018年版の世界長者番付によると、米アマゾン・ドット・コム創業者ジェフ・ベゾスが初の首位についたという。

保有資産額は1120億ドル(約11兆9千億円)と前年比392億ドル増加。年間の増加幅として番付史上で最大を記録し、17年まで4年連続首位だった米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツを抜いた。

ベゾスが保有するアマゾン株が高騰していることに加え、ゲイツが慈善活動に多くの保有株を寄付したことが逆転の主な理由だという。2位のゲイツの資産額は900億ドル、3位の米著名投資家ウォーレン・バフェットは840億ドルだった。

米アマゾン・ドット・コムのビジネスモデルがここまで拡大成功するとは、誰にも予想できなかった。

フッサール流に言えば、自然的態度の一例であり、学的・理念的な科学的世界からすれば、「生活世界」の一断片にすぎないのかもしれない。




本日もこの流れで、フッサールの「実証主義批判(Positivisums)」を読み解いてみよう。

フッサールが記述心理学から出発していることを確認してきたが、彼はそれまでの実証主義にさらなる批判を加えて行く。
フッサールは、自然的態度そのものを疑い、さらに後期の『危機』においては、学的・理念的な科学的世界を疑うのである。



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フッサールの視点からは、実証主義のごとくその基礎を科学的知識に置くものは、諸原理の原理とはなりえない。フッサールは、後期に入り『危機』の中で「生活世界」という新しい術語を提出する。




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この「生活世界」という術語の意味は、フッサールの前期と後期において思想的整合性がとれないとする意見もある。

「自然的態度」と後期の「生活世界」をどう読み解くか。

この問題については「他我論」とも密接に結びつくものであり、様々に解釈の分かれる問題でもある。




あらためて、「他我」についてみてみよう。
他我は、他者の持つ我のことを指す哲学の用語。

「他我をいかに認識ないし経験できるのか」との問題を「他我問題 (Problem of Other Mind)」という。




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デカルトは、懐疑主義的立場からしても絶対に疑えない精神の存在を出発点とし、物体・身体・世界等の存在について証明しようとした。

このように近代哲学では、自我の存在は確実であるとされるが、他我の存在は(懐疑主義的に)、必ずしも自明のこととは言えない、と考えることができ、「他者の持っている我=他我を体験することは不可能である」といわれることがある。これは独我論の裏返しである。




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イギリス経験論は、私の心と身体的状態の経験から類推して他人の身体的状態から他人の心を認識するという「類推説」の伝統があるが、T.リップスは「感情移入説」をもってこれを批判した。




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デカルトは他我問題は理性の問題ではなく、実生活の問題であるとし、カントは同様に純粋理性の問題でなく、実践理性の問題とした。また、現象学の立場からは、他我問題は、デカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提にしているが、それがそもそもの間違いであると批判されている。

その上で、フッサールは、現象学的還元の理論を発展させて、間主観的還元によって、身体、行為、言語を媒介に自我との類比から他我を構成することができるとした。

サルトルは、ハイデッガーの真理を隠れたものの存在の開示であるとの説を承継した上で、他人という存在者の我の存在は明証によって直接に知られるとする。




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メルロ=ポンティは、自我と他我は互いに独立した存在ではなく、前人称的存在である「ひと」が分極化した結果、自我が発生し、他我との区別が生じるとする。





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ウィトゲンシュタインによれば、他我問題は言語の誤用にすぎないとする。

以上のような様々な批判にもかかわらず、他我問題は異文化理解の問題とも結びつきアクチュアリティを失っていない。レヴィナスは理性の他者という新たな問題提起をしている。




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東洋哲学では、古くから西洋哲学よりもある意味深く考察されており、そもそも他者だけでなく自分であっても、「自我がある」という考え自体が必ずしも自明ではないとされている(→無我説)。






☆☆☆GGのつぶやき
「他我」と「無我」は、永遠のテーマである。
出発点をどこに置くかにより、方向性は異なってくる。
ジェフ・ベゾスのスタートラインを読み解いてみたいと思った今朝である。















































































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by my8686 | 2018-03-07 09:09 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「記述心理学(deskriptive Psychologie)、志向性」を読み解く

外気温4℃の朝。昨日とはやや冷えた朝となる。寒暖をくりかえしつつ、春に向かうのであろう。外気温7℃が冬タイヤ交換の目安となる。タイヤ交換は、3月の4週目あたりになりそうだ・・・と思いつつの朝である。




それはさておき、本日は、フッサールの「記述心理学」を読み解いてみよう。

記述心理学とは、説明心理学(erklärende Psychologie)と対置される心理学上の立場であり、物理化学をモデルにした因果的な説明方法を排除し、心的現象を与えられるがままに記述し分類することを目指すものである。




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記述心理学は「内的知覚」(innere Wahrnehmung)の明証にもとづく記述によって心的現象の普遍的な構造についてのアプリオリな認識を得ようとするもので、「心理構造学」ともよばれる。




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ブレンターノはこの立場から心的現象を分類して「表象」(Vorstellung)「判断」(Urteil)「情意活動」(Gemütstätigkeiten)という区分を提出し、また心理的現象の本質的な特徴は「志向性」にあるとした。





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フッサール現象学は記述心理学から出発し、それを徹底化することによって成立したものである。





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「心理構造学」と向き合う時、脳裏にイメージされるのは、やはりゲルハルト・リヒターの作品 「エマ」である。

この作品と比較されるのがマルセル・デュシャン作の「階段を降りる裸体 No.2」である。




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さらに、横浜美術館「マルセル・デュシャンと 20 世紀美術」展でのチェックシート・プログラム サポートシートを読み解いてみよう。


デュシャンの≪階段を降りる裸体 No.2 ≫は、彼に画家であることを疑問視する発端を与えた作品である。

1912 年のアンデパンダン展に、二人の兄と仲間のキュビスムの画家たちと共にデュ
シャンはこの絵で参加しようとした。彼らはピュトー派と呼ばれ、展覧会を自分たちをアピールする場にしようと考えていた。

無審査展であったが、マルセルの作品を問題視する意見が仲間内で大勢を占め、せめてタイトルだけでも変えたらどうかと兄たちが説得に来た。それは、裸体という古典的なモチーフがタイトルにあることが問題だったようである。




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デュシャンはその裸体に螺旋階段を歩かせるという前代未聞の絵画を作った。彼は黙って作品を引き上げ、前衛の画家でさえ偏狭な見方に凝り固まっている現実を知ったデュシャンは、それ以後グループから離れ、ひとりでミュンヘンに旅立つ。

「動き」は絵画になじみにくいテーマだが、写真の分野では既に 1880 年代以降マレイやマイブリッジによって運動する裸体の動きを連写したイメージが作られ、ひろく知られていた。

しかしデュシャンはそれを引き写したわけではなく、人体を機械のような形態に置き換え、運動に回転する方向を与えていた。この絵のすぐ後、デュシャンは≪コーヒーミル≫を描くが、そこでも取っ手の回転をシルエットの繰り返しで表し、矢印で方向を強調していた。




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ゲルハルト・リヒターには、絵画観や芸術観でデュシャンと通じ合うところがある。

学生時代、友人と家具店を借りてパフォーマンスを催した際、リヒターは椅子やテーブルを台座に載せ、日常の間隔より離して設置することでそれらを「作品化」したことがある。

≪エマ≫は、1966 年の自作の油彩画を撮影した写真作品である。その油彩画も実はモデル ( 当時の妻 ) を前に描いたのではなく、写真をもとにしている。
画家は肖像を描くとき、モデルの人柄や精神を描くべきではないとリヒターは言う。




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「画家は、決まった自分の流儀でモデルを見てもいけない。写真に基づいて肖像を描けば ( 人ではなく ) イメージを描くことになる。それはモデルその人と何も共有しない場合さえも許される」。





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作品を特定の人格から切り離すこと、主体である芸術家からも、客体であるモデルからも切り離し、芸術を個人の美学から解放すること。丹念にぼかされたリヒターの画面は、≪泉≫の琺瑯の肌合いに近い。










☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの絵画手法を読み解くうちに、「心理構造学」と向き合うことになる。
因果的な方法を排除し、心的現象を与えられるがままにキャンバスに投影し爆発させていく。
これも心的現象の普遍的な構造といえなくもあるまい。
























































































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by my8686 | 2018-03-06 11:23 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「生活世界(Lebenswelt)」を読み解く

雨模様となった月曜の朝。明け方から雷が轟き、いよいよ春の訪れを知らされる。
そういえば、もう三月なのだ。夏タイヤへの交換も、そろそろ気にかけねばと思う。



それはさておき、本日もフッサールの術語を読み解いてみよう。

フッサールの「生活世界(Lebenswelt)」である。
生活世界とは、フッサール後期の著作『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』における中心的な概念となる。




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これは、中期の著作『純粋現象学及び現象学的哲学理念』の自然的態度(素朴な世界像)に類似する概念であり、生活世界に関しては、あらゆる意味形成と存在妥当の根源的な地盤として科学的な世界理解に先立った、つねにすでに自明のものとして与えられている世界を意味する。





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生活世界というのは科学的な世界理解に先立っているにもかかわらず、近代の科学的世界、すなわち生活世界と対置される世界は、学的、理念的な世界こそが客観的世界であるといった具合に本来客観的世界であるはずの生活世界と逆転している。





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そこにこそ、フッサールはヨーロッパ諸科学の「危機」があるという。




あらためて、フッサールの未完の遺著「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」を読み解いてみよう。

約280ページの現行の定本は、関連諸論文とともに1954年初版の『フッサール著作集』第六巻に収録されている。



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彼の他の著作と比べて本書の特徴は、ヨーロッパの科学と哲学の運命(おもにガリレイ以降の)に歴史哲学的な考察を加えて、近代科学の偉大な発展にもかかわらず、科学の危機、ひいては人間性の危機が到来した事情を論じている点にある。

危機が生じたのは、存在者の世界全体を理性の立場から統一的‐普遍的に認識しようとする学問本来のテオリア(観想)の目標が放棄された結果、学問の領域にも物理学的客観主義と哲学的主観主義への分裂が生まれ、実証主義や非合理主義が台頭してきたからである。

それゆえ本書では、科学の成立基盤である生活世界についての存在論的考察を通して、さらにそれを成立させる超越論的主観性の能作を究明するという仕方で、現象学的理性主義の立場から、主観と客観的存在者との関係について、新たな解明が試みられたという。




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純粋な理念の世界とそれによって構成された科学的世界はいずれも生活世界に基盤をもっている。

しかし、ガリレオが発見し、また隠蔽をした科学的世界は生活世界の一部分であって、生活世界のすべてではない、生活世界は科学的世界をみずからのうちに含んだ包括的な世界として私たちの前に姿をあらわしているのである。

とすれば我々がなすべきは科学的世界から生活世界への還元である。なぜなら生活世界こそ我々が生きる基盤であるからだ。

還元された生活世界は主観でも客観でもない。すべてを包み込む地盤である。それは私と万人がともに生きている世界である。生活世界を導入することで、従来から現象学は独我論的傾向があると言われていた批判にも答えているのである。以前は現象学的還元を行うにしても、それは「私一人」でのことがらであった。





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「他人の存在をとれば相対主義を招いてしまう。他人が存在しなくなるか、世界が一つでなくなるか、要するに他者の存在と世界の共有はどう成立するのかが問題」となるのである。
生活世界はそのジレンマからの脱出口でもあった。

「私は今の世界から抜け出せない。それを外から眺められるのは神のみである。ところが科学はあたかも神のような視点で世界を見ている」ことになる。
いいかえれば「客観的世界=科学の世界=神の視点の世界。生活世界=日常の世界=人間目線の世界」という構図が描ける。

すなわち「客観的世界は個人の経験を超えた集まりであり、私の視点からじかに眺めることはできない。それは神の視点」である。





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ところがいつの間にか有限な人間はあたかも無限な彼方まで知っていると錯覚するようになる。これを超越論的還元することで、生活世界に立ち返るのである。人は有限であるとともに神の視点をも持ちたいと願うのである。だが、それは可能なのだろうか。未完の論文ながら「ヨーロッパ諸学の危機」の最後は次のような文で終わっている。

「哲学、つまり学門はそのあらゆる形態においてより高い合理性への途上にある。それはその不十分な相対性を繰り返し発見しつつ、真の完全な合理性にゆきつかんとする苦難、それを闘いとらんとする意志へ駆り立ている合理性なのである。だが、この合理性はついには、そうして真の完全な合理性とは無限の彼方に存する理念であり、したがって事実上は必然的にそれへの途上にあるしかないことを発見する」と。





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我々の外に無限に拡がる世界、有限な人間はいかにしてそれをとらえられるのか。神の視点に人間が立つこと、これこそフッサールが現象学で一貫して追求してきたことである。神の視点は無限に遠くても、フッサールは不断に思索を続けていくしかないという。







☆☆☆GGのつぶやき
無限な彼方まで知っていると錯覚する有限な人間。
それが人間といってしまえば、それまでなのだが。
抽象論として終わらせず、その真理を読み解くもまたよし。



















































































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by my8686 | 2018-03-05 10:16 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「感情移入/自己投入/自己移入(Einfühlung)」を読み解く

日曜休日の朝。どんよりと曇った空模様である。午後からは20℃にまで気温があがるというが、定例どうり筋トレとスパを楽しむ予定でいる。

午前中は、フッサールの「他我の妥当」について読み解いてみよう。




いま私の知覚野(Wahrnehmungsfeld)に、我々とは違う人が入ってきたとしよう。それは我々の前に単なる物体(Körper)として現れる。

ところで、なぜこの物体が我々と同じような主観をもった他我であるということがいえるのか。



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それは統覚的移し入れ(Übertragung)、すなわち「我々の身体としての物体」と「我々の知覚野に入ってきた物体」との類似性を基礎として、類比化的統覚を為すのである。






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これがフッサールのいう感情移入、言い換えれば類比統覚による特殊な間接的呈示でなのである。






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そもそも我々の身体は単なる物体に過ぎない。

それを我々は、自己の身体的統覚によって、「自己の身体としての物体」と「自己の身体」とを重ね合わせている、いわば統覚(Apperzeption)しているのである。





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この模型にしたがって、我々は物体として現れた他者の身体を、我々の身体との類似性ゆえに我々とは違う主観をもった他我の身体として統覚する、先ほどと逆の言い方をすれば重ね合わせているのである。






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この方法により私は、自分の「物体として現れる身体」を「自分の身体」として統覚するのと同じ手法で、「他者の物体として現れた身体」を「一個の身体」として統覚していることになるのである。






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☆☆☆GGのつぶやき
官能的で美しい身体も透視すればその骨格は骨である。
「他者の物体として現れた身体」を「一個の身体」として統覚しているのである。




























































































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by my8686 | 2018-03-04 08:03 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「根源的呈示/根源的現在化(Präsentation)と間接的呈示/間接的現在化(Appräsentation)」を読み解く

1日の米株式相場は大幅に3日続落した。ダウ工業株30種平均は前日比420ドル22セント(1.7%)安の2万4608ドル98セントと2月12日以来の安値で終えた。トランプ米大統領が鉄鋼とアルミニウムに追加関税を課す方針を表明。中国などとの貿易戦争が激化し、米企業業績に悪影響が及ぶとみた売りがかさんだという。

ハイテク比率高いナスダック総合株価指数は前日比92.448ポイント(1.3%)安の7180.561で終えた。アップルやアルファベット(グーグル)など時価総額の大きい銘柄が軒並み下落し、指数を押し下げた。





それはさておき、週末金曜日もフッサールの概念を読み解きつつ、リヒターの「ノート」を併読してみよう。


我々は客観の妥当に際して、現象学的還元という手法を用いた。その手法とは主観と客観の枠組を取り外し、主観から出発するものであった。

さて、ここには当然のことながら現象学は独我論に陥るという批判が生まれてくる。



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それに対してフッサールは独我論の問題、他我の問題を解決すべく、根源的呈示と間接的呈示という概念を持ち出してくる。






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今ここに他我、すなわち私と同じように心と身体を持ち、私とは違った主観の持ち主が存在すると仮定しよう。

そのとき我々に、その他我が根源的に与えられ、他我自身の本質が直接的に把握されるならば、他我の本質が私の一要素となってしまい我々は独我論に陥ってしまうのである。




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つまり根源的呈示により他我を直観することは退けられなければならない。
したがって、他我経験には、間接的な志向性(Intentionalität)が働いているとみなさねばならない。それは共に現在化させること(Mitgegenwärtigung)であり、つまりは間接的呈示でなければならないのである。





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では、我々は間接的呈示によってどのようにして他我を妥当するのか。


フッサールは類比であるという。この類比は、ボールペンとシャープペンシルの類似を類比するときのような物質的存在を類比するのとは異なる。

他我の類比に至っては我々と同じような身体を持ち、同じように話し、また我々とは違うが同じような主観を持っているということを「根源的創造作用」を介することによって、間接的に類比する。
そのことで我々は他我の存在を妥当するのである。





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フッサールによれば、他我の妥当は間接的呈示であり、我々の一部として直接的に私の中から出てきたものではない。

これがフッサールによる現象学は独我論に陥らないと主張しうる主要な論拠であると考えられる。





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さらに、リヒターの「ノート 1983.5.13」を併読してみよう。


もはやなに一つ可能なものはない、ユートピアは犯罪ではないとしても無意味なのだ、というような悲観的見解を私はつねにもっていた。





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こういう「心理構造」から、フォト・ペインティング、色パネル、グレーペインティングができた。




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それでも、頭のどこかでは、ユートピア、意味、未来、希望が現れることを信じていた。
いわば、ひそかに、知らぬまにそこにあるようなものとして。





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自然、つまり我々は、自分たちの短絡的で、限られた狭い理解力で考えられるよりもずっと、無限に優れ、賢明で、豊かなのだから。




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☆☆☆GGのづぶやき
グレン・グールド、ゴールドベルク変奏曲。リヒターが1984年当時こればかりを毎日2年間聴いていたという。
その完璧さに腹立たしくなり、怒りが込み上げてき、あのアブストラクトが生まれた。
人工性を避け、なにもとりつくろわず、すべての技巧や複雑さを除去してしまう。
暴力的で、愚劣で、大胆で、根源的なるもの。それが今、理由のないまま官能を刺激してやまない。



















































































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by my8686 | 2018-03-02 11:43 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)