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カテゴリ:度々の旅( 45 )

旅残像「ゴダールのパリ五月革命の予言」

5月末のパリ・セーヌ川クルーズを回想するなかで、51年前の1968年5月、フランスで起きた「五月革命」のことを思いだしていた。

「パリ五月革命」で思い起こすもう一つの残像がある。

ジャン=リュック・ゴダール監督の映画「中国女」。
パリ五月革命の予言もしくは先取りなどと評論され、政治的表現の傾向が顕著になっていた時代である。





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ゴダールを特集した映画専門季刊誌「季刊フィルム」に衝撃を受けたのが大学一年の時である。その挑発的野心に溢れた雑誌の表紙に官能が震えた記憶が蘇る。

ベンシャーンを心の師と仰いだ粟津潔のデザインに夢中になった時代でもある。





あらためて、ゴダールの足跡を振り返ってみよう。


ゴダールを本当の「政治の時代」へと踏み入らせる直接のきっかけとなったのは1968年の第21回カンヌ国際映画祭における「カンヌ国際映画祭粉砕事件」だったと言われる。

この映画祭開催9日目の5月19日、会場の宮殿にジャン=リュック・ゴダールが現れ、コンペティション部門に出品されていたカルロス・サウラの作品上映を中止させようとした粉砕事件である。

ヌーベル・バーグ運動の中心的人物だったゴダールとフランソワ・トリュフォーがフランスで行われていた学生と労働者のストライキ運動に連帯し、警察の弾圧、政府、映画業界のあり方への抗議表明としてカンヌ映画祭中止を呼びかけ、クロード・ルルーシュ、クロード・ベリ、ジャン=ピエール・レオ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコらと会場に乗り込んだ。





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審査員のモニカ・ヴィッティ、テレンス・ヤング、ロマン・ポランスキー、ルイ・マルもこれを支持して審査を放棄し、上映と審査の中止を求めたという事件である。

コンペティションに出品していたチェコスロヴァキアの監督ミロシュ・フォルマンも出品の取りやめを表明し、その結果、この年のカンヌ映画祭が中止となったのである。





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しかし、この事件をきっかけにゴダールの周囲や各々の政治的な立場・主張に亀裂が入り、作家同士が蜜月関係にあったヌーヴェルヴァーグ時代も事実上の終わりを告げるのである。

思想的には、主体性や人間中心主義の諸前提を問い直す構造主義が台頭してきた時代である。



前期のゴダールが一言で言えば躍動感と瑞々しさとを特徴とするのに対し、中期のゴダール作品は映画を政治的なメッセージ発信の手段にした為、映像表現は禍々しいものへと変化していったという。

前期においても文字や書物からの引用は行われていたが中期においてはそれが更に顕著になり、膨大な映像の断片と文字、引用(スローガン、台詞、ナレーション)とが目まぐるしく洪水のようにあふれ、詰込まれた作風が特徴となっている。

しかし、中期においてもゴダールは映画を単なるメッセージ発信のための手段として利用するのではなく、映画で何が可能なのか、そして何が不可能なのかを自省しつつ作品を作り続けていた。

中期作品のオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967年)では、クロード・ルルーシュを始めとする他の監督たちがデモのドキュメンタリーや反戦活動家のメッセージといった直接的な反戦運動を取り上げていたのに対し、ゴダールはパリにおいてカメラを操作する自分自身をカメラに捉え、ベトナムに関する映画を制作することに関する自問自答を延々と撮し続けていた。






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未完であることにこそ本質的な意味があるとゴダールは考えていた。

その後、1980年代から2000年代にかけては、題材や対象範囲の広さ、「分断と再構築」の深度は比較にならないほどの進化を遂げ、ビデオ作品である利点を最大限に生かした多重引用やリピートなどが盛んに行われるようになる。

ただ漫然と眺めているだけでは多くの参照元の推定すら難しいほどの加工が施され、再構築の手法も複合的なテーマ構成からなり、見る側に極度の緊張と集中とが求められる方向性に向かって行く。

『映画史』完了後の2001年に製作された『愛の世紀』もこの系列に位置していた。





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1990年代以降顕著になった無数の短篇群、オムニバスへの参加により、ゴダールが監督として、あるいは俳優として参加した映画作品は、140を超えた。

2010年には新作『ゴダール・ソシアリスム』が公開され、2014年、3D映画『さらば、愛の言葉よ』で第67回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。





2018年には最新作「イメージの本 The image book」が発表される。





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ヌーベルバーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールが、暴力・戦争・不和に満ちた世界への怒りを、様々な絵画・映画・文章・音楽で表現した作品。

過去人類がたどってきたアーカイブの断片を中心に、新たに撮り下ろした子どもたちや美しい海辺などの映像を交えながら、ゴダール特有のビビッドな色彩で巧みにコラージュ。

5章で構成され、ゴダール自らがナレーションを担当している。

2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、特別に設けられた「スペシャル・パルムドール」を受賞している。



「ゴダール自らが語るナレーション」

暴力、支配、不和・・・世界に対する「怒り」を

1つの世紀が次の世紀の中へ溶けていくとき

旧来の「生き抜く術」は新しいものに作り変えられる

それを我々は芸術と呼んでいる








☆☆☆GGのつぶやき
88歳のゴダールが4年がかりで世に問う新たな傑作「イメージの本 The image book」。
残念ながらここ文化僻地広島では未公開となっている。
無いものねだりは百も承知、未観のままでは終われまい。


























































by my8686 | 2019-07-04 16:50 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランス哲学/構造主義」へ

5月末のパリ・セーヌ川クルーズを回想するなかで、51年前の1968年5月、フランスで起きた「五月革命」のことを思いだしていた。

この頃、マルクス主義への民衆の幻滅を後押しし、近代的な主体という概念を前提に、積極的な政治参加を肯定したサルトルの実存主義が世界的大ブームとなっていた。

「存在と無」によって一躍時代の寵児となったサルトルはその後、「弁証法的理性批判」(1960年)において、実存主義をマルクス主義の内部に包摂することにより、史的唯物論を再構成し、ヘーゲル‐マルクス的な歴史主義とデカルト‐フッサール的な人間主義との統合を主張するようになっていた。

だがその後、サルトルとクロード・レヴィ=ストロースの論争をきっかけに、マルクスの上部構造/下部構造、生産力/生産関係といった構造的な諸概念が実体化されていること、また、デカルト-フッサール的な近代的な主体をサルトルが思想の前提として実体視していることが批判されるようになり、主体性や人間中心主義の諸前提を問い直す構造主義が台頭するようになった。






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日本では、1960年代の全学連、1970年代の全共闘が街頭に繰り出し、大学のバリケードに立て籠り、マルクス主義に亡心盲酔した時代であった。しかし、そのマルクス主義の御旗のもと闘争を繰り返しながらも、何も変わらない現実に気づき始めた時期でもある。

熱病が醒めると、まるで蜃気楼の先の「解放区」を求めるがごとく離合集散を繰り返し、レヴィ=ストロースの「構造人類学」に視点が移行して行った時期でもある。

構造主義はフランスでは1960年ごろ、日本では1970年ごろから、徐々に広まった思潮であった。
構造主義はソシュールの言語学の強い影響下にあった。

構造主義の主要人物としてはレヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなどが挙げられている。






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あらためて、「構造主義」について読み解いてみよう。


広義には、現代思想から拡張され、あらゆる現象に対し、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。

構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちだが、今日では方法論として普及・定着している。
あらゆるイデオロギーを相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。

数学、言語学、生物学、精神分析学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評でも構造主義が応用されている。





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フェルディナン・ド・ソシュールの言語学の影響がフランスで広まったことが起源になっている。

1960年代、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースによって普及することとなった。
レヴィ=ストロースはサルトルとの論争を展開したことなども手伝ってフランス語圏で影響力を増し、人文系の諸分野でもその発想を受け継ぐ者が現れた。






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アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル理解を承継したルイ・アルチュセールは構造主義的マルクス主義社会学を提唱した。

構造主義にとっての構造とは、単に相互に関係をもつ要素からなる体系というだけではなく、レヴィ=ストロースの婚姻体系の研究にみられるように、顕在的な現象として何が可能であるかを規定する、必ずしも意識されているわけではない、潜在的な規定条件としての関係性を意味する。

そのような限りで、フロイトの精神分析の無意識という構造を仮定するアプローチも一種の構造主義と言える。ジャック・ラカンは精神分析に構造主義を応用し、独自の思想を展開した。

構造主義を応用した文芸批評は、言語学者ロマーン・ヤーコブソンの助力の下に、レヴィ=ストロースがボードレールの作品『猫』について言及したことに始まる。





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彼によれば、人類学が神話において見出した構造と、言語学・文学が文学作品・芸術において見出した構造は顕著な類似性を見出すことができるのである。

ここでは、言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとするアプローチがなされている。

このようなアプローチは、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァらの文芸批評に多大な影響を与えた。

構造を見出すことができる対象は、商品や映像作品などを含み、狭い意味での言語作品に限られない。こうした象徴表現一般を扱う学問は記号論と呼ばれる。

ただし、静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点がその後導入された。これは今日ポスト構造主義として知られる立場の成立につながった。

しばしば現代作曲家のヘルムート・ラッヘンマンを指して書かれるが、これはベートーヴェンから導き出した変容法や変奏技術が、そのまま楽曲の構造に反映していると見られている。






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しかしこればかりではなくほとんどすべての作曲家に音楽上の構造問題はかかわっており、ブラームスのソナタ形式をはじめ、リヒャルト・シュトラウスの対位法やバッハのフーガでもそういう意図は常に散見されるという。








☆☆☆GGのつぶやき
実存主義から構造主義への変換期は、日本でも全共闘が収束していった時期でもある。
取り憑かれた霊が剥げ落ちるかのように、急速に腫れものが鎮まり、対抗暴力化することに酔い痴れた連中が消え去って行った時期でもある。
鎮火するスピードの速さに驚愕したことを覚えている。
日本の警察権力に封じ込められた赤軍派の末路を、醒めた眼でテレビ報道を眺めていた時代でもある。
「祭りの後の静けさ」の時代に入って行った。潜在的な規定条件としての関係性を「醒めた眼で哲学」し始めた時代でもある。



































































by my8686 | 2019-07-02 13:41 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランス実存主義/身体論」へ

5月末のパリ・セーヌ川クルーズを回想するなかで、51年前の1968年5月、フランスで起きた「五月革命」のことを思いだしていた。

当初まだ地方の高校三年生にとっては、海の彼方のゼネスト騒動でしかなかった。
しかしその後、世界的な同世代を巻き込んだ一大革命に進展し、セックス革命、文化革命、社会革命へと拡大して行った記憶が蘇る。

キューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東が運動のイコンとしてかかげられ、背景となったフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」を形成していった。それを高度経済成長に湧くパリの学生がみちびき、各国の学生運動に熱をふりまき、より拍車をかけていった。

権威という権威のすべてに抗うことで「存在としての実存」を実証しようとしたサルトルの記憶が蘇る。そして、サルトルの発言を全否定してしまった「醜き現実的歴史」のことも同時に遠い記憶の残像として脳裏を彷徨う。





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フランス・パリの鉛色した空気に包まれると、不思議な鬱的感性の襞が震え始める。
1950年代に生まれた世代が持つ「共通の古傷」を鈍く官能が刺激する。



どんよりと曇った今日は、サルトルとは真逆なベル・エポック時代を「南仏の陽光」のなかで育った「メルロ=ポンティ」について読み解いてみよう。

メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えようとした哲学者である。
彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判した。






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その前提となる、デカルト的なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずであるとして、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきであると主張した。

主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である両義的な存在、それが身体であると言う。
さらに、生理的な反射でさえ、生きた身体が環境に対して有する全体的態度、意味の把握を伴うし、その全体性は決して私の反省的意識に還元し尽くされることはない。

私と世界の間の身体による関係は、全体的な構造であるばかりでなく、時間的に発展する構造でもある。彼にとって即自存在と対自存在の対立は、以上のような構造を有する、より一層深い媒介の所産なのだとも。






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このようなメルロ=ポンティの身体論はジークムント・フロイトの精神分析思想と容易に結びつき、このような構造に関する理論が身体論に適用されるだけでなく、これを超えて社会と個人の関係に拡張されるまでに進展した。

彼の哲学は「両義性(Ambiguite)の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己の概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。






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たとえば、それまで枯れ木を見たことがない人にとっては、枯れ木を見るだけでは、名前のない枯れ木を「現象」としてしか知ることができない。「枯れ木」を恒常的に認識できるようになるためには、「枯れ木」という言葉(記号)を知る必要がある。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>。







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しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。
そして、その状態が<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。

そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察があった。
それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。

そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術などに大きな影響を与えた。
また、知覚の優位性からの新しい存在論の試みが絶筆となった『見えるもの見えないもの』で見られる。





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メルロ=ポンティが「セザンヌの疑惑」で述べる自然の概念も基本的に、「眼と精神」についてサルトルが指摘するものと同じであると言える。


『意味と無意味J』

「わたしたちが生きているのは、人間が築き上げた事物の環境であり、わたしたちは道具に囲まれ、家、街路、都市のうちに生きている。そして、多くの場合、わたしたちはこれらを人間の活動を通じてしか見ないのであり、これが人間の行動が作用する場所となるのである。私たちは、これらすべてが必然的に存在するものであり、揺るがすことができないものだと考えることに慣れている。セザンヌの絵は、この習慣を宙吊りにして、人間が立っている非人間的な自然の土台をあらわにする。」







☆☆☆GGのつぶやき
メルロ=ポンティについては学生時代に読み耽った記憶がある。
芸術を哲学した難解な本という印象しか残らなかった。
渡邊二郎の『芸術の哲学』で解説されているハイデガーやカントらの芸術論とも整合性があると言われる。
今あらためて、理解を深める意味で併読してみるも一興。
































by my8686 | 2019-07-01 01:01 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランス実存主義」へ

パリ・セーヌ川クルーズを回想するうちに、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した哲学的根源に興味が湧いていた。
そして、51年前の1968年5月、ここフランスで起きた「五月革命」のことを想起していた。

昨日の「現象学・解釈学」に引き続き、「五月革命」から深く想起される「フランス実存主義」の祖として知られる「サルトル」について読み解いてみよう。



フランス実存主義の祖サルトルは、主著『存在と無-現象学的存在論の試み』(1943年)において、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とする存在論を展開した。





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第二次世界大戦後、常にその一挙手一投足が注目を集め、世界中に巨大な影響を与え続けた20世紀最大の哲学者ジャン=ポール・サルトル。
彼の思想は「実存主義」と呼ばれ、多くの人々に生きる指針として読みつがれてきている。

「実存主義とは何か」は1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた講演がもとになっており、この講演に多数の聴衆が押しかけ、中に入りきれない人々が入り口に座り込んだほどだといわれている。





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翌日の新聞には大見出しで掲載され大きな「文化的な事件」として記録されている。その後、この講演は世界各国で翻訳・出版され一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームを巻き起こした。

サルトルの思想はなぜそこまで人々を魅了したのか。

大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊し多くの人々は生きるよりどころを見失っていた。

巨大な歴史の流れの中では、「人間存在」など吹けば飛ぶようなちっぽけなものだという絶望感も漂っていた。そんな中、「人間存在」の在り方(実存)に新たな光をあて、人々がさらされている「根源的な不安」に立ち向かい、真に自由に生きるとはどういうことかを追求したサルトルの哲学は、人間の尊厳をとりもどす新しい思想として注目を浴びたといえよう。





1968年後半、高校三年生の頃にこのサルトル思想の洗礼を受け、大きな影響を受けた同年代の同輩も多かろう。
既存の価値観が大きくゆらぐ中で、多くの人々が生きるよりどころを見失いつつある時、このサルトルと出会う意味は深かった。

サルトルの思想には、「不安への向き合い方」「社会との向き合い方」「生きる意味の問い直し」など、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられている。

難解とされる「実存主義とは何か」を、小説の代表作「嘔吐」や後期思想を交えながら、今ふたたび読み直してみたいと、欧州の旅のあと思った。

それほど、5月のパリの空は鉛色に曇りながらも、夏の陽光を待ちわびる忍耐と希望をあたえたようだ。





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サルトルの思想は、特に無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、プラトン・アリストテレスに起源を有する「本質存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学のテーゼを逆転して「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と述べている。

もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえているはずである。

ならば、あらゆるものは、現実に存在する前に、神によってその本質を決定されているということになる。

つまり、この場合、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先立つ」ことになる。しかし、サルトルは、そのような一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか、と問う。





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創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。
この場合は、「実存が本質に先立つ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである。

サルトルにとって、現象学によって把握される即自存在と対自存在の唐突で無根拠な関係は、即時存在の幻影的な存在の根拠になっている。
いずれにせよ、そこでは現象学に還元し得ない存在としての実存が問題にされている。

戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行する。

以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。

徐々に、サルトルは、マルクス主義に傾倒し、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなったとされる。

1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して「カミュ=サルトル論争」を展開している。この論争によって二人は完全に決裂した。

決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。
「他者」と相克しながらも共生していかなければならない状況をサルトルは「地獄」と呼んだ。





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こうした根源的な状況の中で、人は「他者」とどう向き合ったらよいのか。自分の「自由」の前に立ちはだかる「他者」という「不自由」を見つめ、主体性を失うことなく「他者」と関わりあうことがいかにして可能かを、サルトルは説いている。

人間は根源的に与えられている「自由」をどう生かしていけばいいのか。サルトルは「実存主義とは何か」で、「アンガージュマン」(参加・拘束)という概念を提唱し、人間は積極的に《状況》へと自らを「投企」していくべきだと訴える。

社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だと主張する。それは、サルトルが生涯をかけ、身をもって実践した思想でもあった。

どんなに厳しい状況にあっても「自由」を生かし、「希望」を失わずに生きていくことを説いている。






パリ・セーヌ川クルーズの風に吹かれながら、51年前の1968年5月にフランスで起きた「五月革命」のことを想起していた。





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この反乱は、消費社会、テクノクラート社会によってあてがわれた「もの」として、つまり対象物としての生き方に対する異議申し立てだった。
物質的な欲求以上に自由への要求が大きな役割を占めていた。これはそれまでのサルトルの思想の正当性を確認させるものだった。

この当時サルトルは65歳位ながら、毛派の機関紙「人民の大義」の編集長を引き受け、発禁処分を受けてもこれを街中で販売したり、「赤色救援」活動を組織して政治的弾圧を受けた活動家の救援にたずさわったり、「人民法廷」の検事役をつとめ国家に有罪宣告をくだしたり、といった様々な急進的な運動に参加している。






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この時期、毛派への接近という中で、ベニイ・レヴィとの関係は深まり、老年となったサルトルを秘書としてサポートしながら最後となる『いまこそ、希望を』の対談を行っている。

しかし、この当時のレヴィの傲慢で不遜な態度にボーヴォワールや旧友たちから掲載拒否問題が勃発するも、サルトル自身の願いで全文掲載がなされた。サルトル曰く、「異質で異次元的で貴重な意見として存在する」。





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掲載された1か月後、1980年4月15日にサルトルは亡くなり、公に発表された文章としては、最後の言葉となった。


「とにかく、世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界のなかで死のうとしている老人の、静かな絶望さ。だが、まさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望のなかで死んでいくだろう。ただ、この希望、これを根拠付けなければね。説明を試みる必要がある。なぜ今日の世界、恐るべき世界が、歴史の長い発展の一契機にすぎないのかを、希望がつねに、革命と反乱の主要な力の一つであったということを。それから、わたしがどういうふうに、自分の未来観として、まだ希望を感じているのかを」








☆☆☆GGのつぶやき
サルトルの老年は、肉体的にも知的精度においても衰えが進行していたという。
高血圧、記憶障害、歯痛、尿失禁、尿道結石、催眠状態、めまい、眼底出血、軽い緑内障、糖尿、脳梗塞症状、歩行困難。
さらにこれに追い打ちをかけるように、1973年ごろから急速に視力が衰え、半失明状態になっていた。
そんな状況下のなかでも「いまこそ、希望を」と語った「最後の言葉」。
そして、サルトルが「実存主義とは何か」で語った言葉を肝に銘じよう。
「人間自体を究極目的と見なすようなことはしない。なぜなら、人間は創られていくものだからである。」




















































by my8686 | 2019-06-30 13:52 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランスの現象学・解釈学」へ

パリ・セーヌ川クルーズを回想するうちに、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した哲学的根源に興味が湧いていた。

昨日の「ベルクソン」に引き続き、「現象学・解釈学」を読み解いてみよう。




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現象学のフランスへの導入も実存主義の時代を準備していた。戦前にサルトルはレヴィナスの著作を通じて現象学を学んでいた。
現象学は、サルトル、メルロ=ポンティに影響を与えたが、二人が誰のどの時期のどの著作を読んで影響を受けたのかが両者の存在論の違いを生んでいる。

メルロ=ポンティは、フッサールの未完成稿を含めた後期思想を読んでいた。
フッサールの著作のうち『デカルト的省察』は刊行後すぐにレヴィナスらによってフランス語訳された。戦後にはリクールが『イデーン』を仏訳している。





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実存主義、構造主義の各思想に現象学は広く影響を及ぼし、現象学と関わりの強い思想家にはサルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、リクール、ミシェル・アンリ、ジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。

また現象学は解釈学と密接でありフランス解釈学の主導的人物はリクールである。





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その後20世紀終盤に現象学を神学と結び付ける潮流が目立つようになり、「フランス現象学の神学的転回」と呼ばれ賛否両論唱えられた。
神学的転回に属するとされる思想家にはレヴィナス、アンリ、ジャン・リュック・マリオン等が挙げられる。

理神論は、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説といってよい。
神は世界を超越する創造主であるが、神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされた。






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人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥された。
18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれている。

イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。

ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。
彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだといわる。






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カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んでいる。

理神論はカントの手によって一度は抹殺され、彼自身の手で復活させられたという「矛盾の巣」、負の矛盾ループに陥ってしまったのもフランスならではあろう。





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2019年現在のフランス全土に広がったデモ隊の不満は、燃料税問題から、賃金の値上げや年金の増加、減税の要求など多岐に発展している。
さらに高校生たちが大学入試の変更(現在の入試よりも選抜基準が上がることなど)を巡り、ジレ・ジョーンヌに感化されて独自のデモや暴動要因が広がっているという。

ただ今回、5月末に訪れた時のパリは、運よく小康状態を保っていたのか、特に大きなデモ騒動は見られなかった。







☆☆☆GGのつぶやき
そもそも、神を論証しようとする発想の源に興味が湧く。信ずることへの懐疑性がなぜ生まれたのか。
古今東西、宗教を政治や商売の道具にしようとする輩の誕生のなにものでもあるまい。
読み解いていけば、サルトルの「無神論的実存主義」に辿り着く。
パリ・セーヌ川クルーズから、とんでもない方向に、意識が蠢きはじめてしまったようである。





























































by my8686 | 2019-06-29 09:56 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランスの伝統から現代思想へ」

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像とともに脳裏に浮かぶのは、こうした伝統を形作ってきたその思想的背景である。

パリ・セーヌ川クルーズの中で世界遺産に登録された建築群を観ながら、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した根源に興味が湧いていた。




紀元前300年ごろ、セーヌ川を行くケルト人パリシイ族の舟人が、舟の形をしたシテ島を見つけ上陸したことからそれは始まったとされる。




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フランスには、デカルトに端を発する大陸合理主義・啓蒙主義の哲学的伝統がある。
これらは、知識、信念、科学とは何か、合理的に知識を得る事とは、という認識論的な問題意識を有することから始まっている。

18世紀にはディドロやルソーらの啓蒙主義が隆盛し、イギリス経験論から影響を受けるが単純な経験主義は拒否された。
抽象的な定義から始まりこれを演繹するというドイツ哲学のような態度とも異なり、理性について歴史的に考察されていく。




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19世紀にオーギュスト・コントが大陸合理主義・啓蒙主義の伝統を引き継ぐ実証主義と社会学を創出した一方、メーヌ・ド・ビラン、ヴィクトル・クザン、フェリックス・ラヴェッソンらがスピリチュアリスム哲学を形成している。






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フランス現代思想においては実存主義、構造主義、ポスト構造主義という大きい華やかな流れが注目されるが、こうした流れとは別に19世紀から哲学的伝統を受け継いだ他方の堅実な流れ、エピステモロジーやフランス反省哲学があるということも見過ごすことはできない。

また、フランスは、国教会のあるイギリスとも宗教改革の中心となったドイツとは異なり、現代でもカトリックの思想的影響が見られ、カトリシズムとフランス・スピリチュアリスムの哲学的伝統の関係は複雑な構造を呈している。

こうしたカトリックの伝統との関係において、19世紀以降の新トマス主義の興隆も見て取らねばなるまい。






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旅のあとのいつもの悪癖にまかせ、しばらく「フランス現代思想」を読み解いていこう。


まずは、フランス哲学の伝統の実証主義とスピリチュアリスムを承継した「ベルクソン」から読み解いてみよう。

ベルクソンは、ハーバート・スペンサーの社会進化論から出発し、『物質と記憶』において、デカルト的コギトの想定によって発生する哲学上の難問心身問題に取り組み、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心と身体を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉え、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを論じている。

そのうえで、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年に『創造的進化』を発表。

これは、意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進め、生命の進化を押し進める根源的な力が「生の飛躍("élan vital")」であるとしたものである。
ここに、フランスの哲学的伝統の一つフランス・スピリチュアリスムと実証主義の結合を見ることができるとされる。

他方で、ベルクソンの生の哲学は、フランス実存主義の先駆ともいえ、ベルクソンの形而上学はドイツ圏のジンメル・リッケルト・ハイデガーらに影響を与えている。





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メルロ=ポンティの身体論は、ベルクソンの物質と表象の中間的存在としての「イマージュ("image")」という概念に大きく影響を受けており、ベルクソンなしには成立しなかったであろうとされる。

言語の問題に集中する構造主義思想にベルクソンの影響は見出だされ難いが、メルロ=ポンティとドゥルーズの哲学にはベルクソンの影響が決定的とされる。

ベルクソンの哲学は、二度の悲惨な惨禍をもたらした戦後の雰囲気の中で、サルトルらの実存主義が流行し大衆の共感を得るに伴い、その影響力を急速に減じていった。






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☆☆☆GGのつぶやき
フランス・パリのあの鉛色の空に包まれていると鬱的感覚に思考が進むのか。
哲学することの意味を哲学してしまう時間に浸るも一興。

























































by my8686 | 2019-06-28 11:33 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「パリ・セーヌ川クルーズ」

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像がある。
パリに到着した翌日、パリ市内観光のあとアルマ橋から出発する「バトー・ムッシュ」に乗船してセーヌ川クルーズを楽しんだ記憶が蘇る。


乗船は一般観光客と一緒になるため、桟橋でしばらく待つことになる。




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フランス語ではしゃぎまわる小さな少年たちの姿を微笑ましく眺める。
可愛い人形のような美形につい見とれてしまう。

5月30日とはいえ、パリの空はあいかわらずどんよりと鉛色に濁り、風も少し肌寒さを感じる。
約1時間あまりのクルーズだが、2階の展望席で観るなら、少し防寒対策をしておいた方が良い。




ランドマークのエッフェル塔、グラン・パレのガラス屋根を眺めながら、アレクサンドル三世橋を通過していく。




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この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設され、パリ市に寄贈されたものだという。

アレクサンドル3世橋はアールヌーヴォーの街灯、天使やニンフの像、ペーガソスなどが華麗な装飾が施されている。

4隅の17mの高さの柱の上にはそれぞれのテーマにそって女神像が建てられている。

・芸術(Emmanuel Frémietによる)には中世のフランス。
・農業(Gustave Michelによる)には近代のフランス。
・闘争(Pierre Granetによる)にはルネサンスのフランス。
・戦争(Clément Steinerによる)にはルイ14世のフランス。

帰国後、あらためてググってみる。




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左手にルーブル美術館、パリ市庁舎、サンス館などが見えてくる。






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ノートルダム大聖堂が近づいてくると、鋳鉄製のクラシックなアーチ橋が目に留まる。
「ドゥブル橋」だとあとで知る。






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修復中のノートルダム大聖堂を見上げる。

再建費用として寄付金の申し出が約10億ユーロ(約1230億円)に登ったことが話題となる。

崩壊した尖塔を再建する場合、再建用デザインを世界中の建築家から公募する計画が発表されている。
はたしていかなるデザインになるのか、大いに期待したい。

個人的には、伝統と革新こそフランスエスプリの神髄と思うのだが。




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「パリのセーヌ河岸」は、フランスの首都パリを流れるセーヌ川の川岸のうち、シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmほどが登録対象となる世界遺産である。

エッフェル塔やノートルダム大聖堂なども含まれている。





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紀元前300年ごろ、セーヌ川を行くケルト人パリシイ族の舟人が、舟の形をしたシテ島を見つけ上陸。
これが、後に、「花の都」と呼ばれる国際都市、パリの歴史の始まりとされる。

やがてシテ島には王宮や大聖堂が造られてパリの心臓部となり、周辺を取り巻くセーヌ川はその動脈としてパリの街を育み続けている。

確かに、このようなスケールと美しい世界的遺産を持つ風景は、日本にはないことに改めて気づかされる。






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パリのランドマークとなっている「エッフェル塔」。

エッフェル塔の建設までの険しい道のりについては「耳だこ」ものなのだが、やはり眼前に聳える姿を目にすると官能が不思議と疼く。


設計案が発表された直後から、多くの文化人や芸術家が建設に異を唱え、パリの街の景観を巡って激しい論争が繰り広げられたことはよく知られている。

「数多くの石造りの歴史的建造物が街を彩るパリ。その街の中心に巨大な鉄塔を建てるとは、歴史と芸術に対する冒涜以外のなにものでもない。」とまで罵倒されたとう。

建設の基礎工事が実際に始まってからも、批判は収まらず、特に有名なのは、1887年2月の『芸術家の抗議』だったという。
作家のモーツァルトや、オペラ座を設計した建設家のシャルル・ガルニエなど、多くの芸術家がこの抗議文に署名している。

そんな逆風を受けながらも、工事は着々と進み、結局、着工から約2年2ヶ月という早さでエッフェル塔は完成。
建設当時の高さは312.3m。世界一高い建造物に臨んだ勇気と執念には、改めて敬意を払いたい。






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☆☆☆GGのつぶやき
ビッグスケールに驚嘆する人間の性。
偉大なるものへの畏敬の念とは、どこから来るのか。
そんなことを感じさせられた欧州の旅でもあった。
















































by my8686 | 2019-06-27 18:16 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「パリの車窓」から

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像がある。

パリに到着した翌朝、専用バスでパリ市内観光に出かけた時の残像が蘇る。




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パリを訪れるのは久しぶりになる。ゆうに35年以上も前の昔のことになるのだが・・・。
しかし、車窓から観るパリの空はあいかわらずどんよりと鉛色だが、感性はバラ色だ。






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伝統と革新。そんなことを想いながらパリ市内を眺める。
新しい高層ビルが増えた感じはする。
パリの表と裏の顔が交錯して眼の前を通り過ぎる。
高架下のテント群は、難民の溜まり場になっているようだ。






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パリ市内に点在する古い彫刻が目を楽しませてくれる。
ルーブル美術館は、ピンポイントのツアーで来なければ、とてもじゃないが1日では廻れるスケールではない。





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パリ市内でちらほら見かける電動キックボード。
シェアリングらしいが、そのシステムが気にかかる。






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颯爽と乗りこなしている若いパリっ子はなぜか絵になる。
昨年の6月から導入されたという。

スマホアプリでGPS管理されているようだが、私物化されるケースも多々あるらしい。
通勤時の渋滞を回避するにはうってつけの乗り物だ。

運営しているのは、Limeという会社。
パリっ子ならば、シェアシステムの破綻はないのか、いらぬ心配が先にたつ。







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パリの観光ルートの定番「シャンゼリゼ道り」から「凱旋門」へ。
ナイキのショップもシンプルで様になっている。
凱旋門は、周辺を2回廻って車窓観光のみ。4度目となると感動は正直うすい。






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パリのランドマーク「エッフェル塔」。
建設当時のパリっ子の度肝を抜いた逸話は「耳だこ」だが、毎回胸を熱くするものがある。

今回初めての「セーヌ川クルーズ」。世界遺産登録の理由が理解できる。
パリを訪れたら一度は体験すべきおすすめコースである。






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☆☆☆GGのつぶやき
仕事がらみで35年以上も前に3度も訪れながら、観光目的でゆっくりと回ったのは今回が始めてである。
どんよりと曇った空気はあまり好きではないが、伝統と革新が同居する「パリのエスプリ」には官能が今も疼く。






























































by my8686 | 2019-06-26 22:22 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「スイスの陽光に官能が昂る」

欧州の旅を終え、官能の襞を震わせる残像がある。

鉛色したフランス・パリからTGVで陽光のスイス、ジュネーブに移動した日。





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ジュネーブの空の青さに官能が震えた。
アルプスを遠くに眺めながらレマン湖畔の町モントルーへ。






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一気に初夏を思わせる陽光に官能が震え始める。






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レマン湖畔のモントルーのレストランでランチ。
そこで飲んだアップルジュースの旨さが、いまだに舌の感触と共に残っている。






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シヨン城を眺めながらレマン湖の美しい輝きに官能の襞が萌えていく。






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ぶどう畑を横目に眺めながらテーシュへ。






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アルプスの峰々が間近に見え始める。
雪化粧した雄大なマッターホルンに官能が震え始める。






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テーシュから電車でツェルマットへ。

ツェルマット駅に降り立った瞬間、マッターホルンの雄大な姿に感動する。






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☆☆☆GGのつぶやき
今回の旅行は、天気に恵まれたことに感謝したい。
ベストシーズン中でもここまで晴れ渡ることは珍しいという。
レマン湖の輝き、そしてマッターホルンの神々しさ。
いまだに残像として官能の襞を振動させている。


















































by my8686 | 2019-06-25 12:20 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「スイスワイン・ハイダ」を読み解く

欧州の旅のあと、強く残像として脳裏に残るものがある。

そのひとつに、スイス・レマン湖の美しさとともに、ここで作られる「ハイダ」というスイスワインがある。






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スイス・レマン湖の車窓を眺めながら、聴くともなく添乗員の説明に耳を傾けていた時、左手に見えてきた石垣で区切られた段々畑こそ、標高650メートルのフィスパ川のほとりから1150メートルの山腹に広がるぶどう畑である。

標高差500メートルの間に折り重なるようにして耕作され、太陽の陽をたっぷりと受けていた。

ここで作られるワインが「ハイダ」であり、日本では聞きなれない名前なのである。






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スイス・ヴァリス州のフィスパーテルミネン村という、人口約1400人の小さな集落で、ヨーロッパでもっとも標高が高い地域で生産されるワインなのだという。

またの名をハイダドルフ村といい、ここで作られる希少なぶどうを用いた美酒は、ワイン農家たちの誇りでもあるという。





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「アルペンワインの真珠」ともいわれるハイダは、ソヴィニヨン・ブランやトラミネールから派生したぶどう品種からつくられ、村でのワイン作りの歴史はとても古く、古代ケルト人がすでにこの地でぶどうの栽培を行っていた記録も残っているほどだという。

ヴァリス州は雨が少なく、降水量は年間600ミリ程度。フェーン現象により秋になっても暖かいので、美味しいワインを作る条件が整っているのである。

ぶどう畑は、スイスで最も乾燥した地域の山の南斜面にあり、太陽に温められた段々畑の石垣には良質のぶどうを生み出す効果がたかい。

厳しい気候のため、ぶどうの実は大きくは育たず、収穫量は少ないが、小粒の果実には糖度が高く凝縮しているという。
アルコール度も高く、コシがあってドライな味わいと、フルーティな香りが素晴らしいワインになるという。

ほとんどがスイス国内のみで消費されるため、輸出はほとんどされないという。日本ではまず見ることはない。

「ハイダ」の名前は、古くは1586年の記録に残っており、山上のぶどう畑に水をやるために作られた小さな小川が「ハイドー」と名付けられていたそうである。






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それぞれの農家はあまり多くのぶどうの木を持っていなかったことから、一時はぶどう作りが衰退し、存続が危ぶまれたという。

1979年には、ザンクト・ヨーデルン・ケラーの協同組合が設立され、現在は村の約550人が組合に加入し、ぶどう畑の広さは、合計約45ヘクタール、東京ドーム約9.5個分の大きさとなっているという。

小さな段々畑には、農業機械を入れるスペースがないため、ぶどうの収穫は今も手作業。

標高差があるので、畑の位置によって収穫時期が異なり、山麓と山上では約5週間もの差があるという。それが醸造所に持ち込まれ、赤・白を合わせて年間約40万本のワインとなって出荷されている。

ザンクト・ヨーデルン・ケラーでは、白ワインの生産が約60%、そのうちの約4割がハイダになるという。




ちなみに、スイスの駅中ストアーで買い求めた「ハイダ」ワイン。

ネットで唯一ヒットした銘柄。「Fleur du Rhône Heida Switzerland Sauvignon Blanc」




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ティスティングは、やや軽め、タンニンやや控えめ、甘みは中間、酸味ややシャープ、ややフルーティ。

日本国内には入っていないため「貴重品」といえる。





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さらにふたたび、この美しいレマン湖を生涯愛したオードリーヘプバーンの生涯に思いをはせる。

彼女の映画をもう一度、じっくりと観直したいと思った。





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さらに、モントルーといえば、1967年から毎年7月に開催されている世界最大級のジャズ・フェスティバルを思い出す。

「お城のエヴァンス」として人気を博す、スイスのモントルー・ジャズ祭が生んだ初のジャズ・ライヴ・アルバム。
ジャック・ディジョネット参加のニュー・トリオで、エネルギッシュでスリリングな演奏を全編で繰り広げた1968年録音盤。

この欧州の旅のあと、繰り返し聴き込んでいる「お気に入りのアルバム」となっている。

ビル・エヴァンス生誕90周年記念公開「BILL EVANS TIME REMEMBERED」映画も観に行きたいと思った。



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☆☆☆GGのつぶやき
買い求めた3本の「ハイダ」。酸化せぬうちに飲まねばなるまい。
さて、これにあてる肴も吟味せねばなるまい。
この時期、初夏ならば、「鮎のコンフィ」か「しめサバ 菊花と大根の柚子こしょう風味の甘酢あえ」などが俺好みなのである。


























































by my8686 | 2019-06-24 18:49 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)