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フッサールの「Noesis―Noema」を読み解く

FRBのパウエル新議長は27日の議会証言で「年3回の利上げシナリオを提示した昨年12月に比べ、景気見通しは強まっている」と指摘し、停滞していた物価も「(2%の)目標に向かって上昇すると確信を深めている」と断じたという。この発言で、金融市場にはFRBが利上げペースを加速するとの見方が浮かんでいる。

景気判断を上方修正した要因については、トランプ政権の大型減税や米議会の歳出拡大法の成立を挙げ「財政政策が拡張的になった」と指摘。世界経済全体が成長軌道にあることも「追い風になる」と強調。

トランプ政権が公約としてきた金融規制の一部緩和にも意欲をみせ、リスクの高い銀行の自己勘定取引などを禁じるボルカー・ルールも「新鮮な視点で見直す」としたという。金融市場は株価急落に見舞われるなど動揺もあるが「金融リスクは今のところみられていない」と指摘している。





それはさておき、本日もフッサールの術語を読み解いてみよう。



フッサールは、「知覚と知覚対象それ自体は一つになって結合されているものではない」という。




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知覚とパースペクティブなものとして現れる知覚事物とは、「意識とはすべて、何ものかについての意識である」という志向性ゆえに切っても切り離せない関係にある。




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この関係をフッサールは、相関関係(Korrelation)と呼ぶ。





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この相関関係のうち、意識の作用的側面は「ノエシス」と呼ばれ、対象的側面は「ノエマ」と呼ばれる。





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つまりノエシスとは、意識に現れた感覚的ヒュレー(hyle)(素材)に志向的な意味統一を与えて、ひとつの存在対象の妥当を構成する意識の働きであり、ノエマとはノエシスによって構成された対象性のことである。





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さらに、リヒターの「ノート1992.9.22」を併読してみよう。


ひっかいて剥がす。ここ一年、作品を描くといえば、ひっかいて剥がすことしかできない。



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絵の具をのせて、またとる。下にあったものを表に出すわけではない。





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もしやり直しのために剥がすということなら、表にでてくるべきもの(具象、記号あるいはパターン)を、つまり、まちがえなければ直接描くこともできた映像を、私は考えておかないといけないだろう。






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また、それは、失われた映像、埋もれた映像を再びみいだすといったような、象徴的な小技になるだろう。





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絵の具をのせ、壊し、重ねるプロセスは、絵画を制作するときの微妙な操作に役立つだけである。






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターのアブストラクトと対峙するとき、やはりフッサールの「ノエマとはノエシスによって構成された対象性」に思考が及ぶ。さらに、脳裏にアドレナリンがあふれ出し、意識に現れた感覚的ヒュレーに志向的な意味統一という術語が重なる。








































































































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by my8686 | 2018-02-28 13:52 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解く

次世代の高速携帯通信規格「5G」の2019年の商用化に向けて、世界の通信事業者や機器メーカーが一斉に動き出したという。スマホ向け高速通信のほか、あらゆるモノがネットにつながる「IoT」の進化やつながるクルマ「コネクテッドカー」の開発など、世界的な投資やサービスの高度化にさらに弾みがつくであろう。

スマホは持たない主義だが、クルマ「コネクテッドカー」には大いに興味をそそられる。走りに関する進化系には、官能が疼くのである。





それはさておき、フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」を読み解いてみよう。


内在と超越、すなわち「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念である。




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フッサールのこの文脈における「超越」とは、神やイデアのような何かを超越した事物ではないということである。





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ここでの「内在」とは「原的な体験」であるがゆえに、それ以上疑うことのできない不可疑性のもの、先所与性のものである。





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ところが「丸い」「赤い」「光っている」といったものを知覚する際も、それが何か他のものから構成されている、すなわち超越した存在ではないのかという先構成論的な批判があるかもしれない。






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ただし、我々は「丸く感じた」、あるいは「赤く」、「光っているように感じた」という感じたことそのものは「ひょっとしたら丸く感じたのではないかもしれない」と疑うことはできない。





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したがって、フッサールの「内在」とは、より厳密には知覚におけるこの「不可疑的な感覚体験」、人がそのように感じたという「初源的な事実性」ということになる。





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リヒターの「ノート 1971」を追読してみよう。


おそらく、ドア、カーテン、表面性の絵画、ガラス板などは、視覚は我々に事物を認識させはするけれども、同時にそれが現実の認識を限定し、部分的に不可能にしてしまうというジレンマを、絶望的に比喩したものだ。





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さらに、「ノート 1973」を追読してみよう。


「中心」の喪失を肯定する。同様に、信条、態度、個性の喪失を肯定する。
ただ機械のように反応すること、不安定で、無関心で、依存していること。
客観性のために自分をすてること。





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☆☆☆GGのつぶやき
フッサールの「不可疑的な感覚体験」とリヒターの「中心の喪失の肯定」。
それ以上疑うことのできない不可疑性に、やはり不思議な官能反応を覚えるのである。





































































































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by my8686 | 2018-02-27 10:19 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサールの「cogitatio―cogitatum」+リヒターの「ノート1988」を読み解く

第23回冬季オリンピック競技平昌大会も幕を閉じた。
7競技で史上最多の102種目が行われ、日本は13個(金4、銀5、銅4)のメダルを獲得。
自国開催だった1998年長野大会の10個を上回り、史上最多となった。次回の2022年冬季大会は、中国の首都・北京で開かれる。
20年7月からは東京で夏季大会が行われる。




それはさておき、本日もフッサールの「意識―意識作用―意識内容」について読み解いてみよう。

フッサールは、知覚(Wahrnehmung)と知覚事物それ自体とは一つになって結合されているということはないという。




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■コギト―コギタチオ(cogitatio)―コギタートゥム(cogitatum)(意識―意識作用―意識内容)


これは、私がここに「机がある」と知覚したときの「机」とは、実際そこにある机そのもの全体を知覚したものではないということである。



例えば私は机を知覚する。



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しかし、その机の裏側がどうなっているかまでは知覚しない。つまり、知覚は我々に対して、知覚事物のある一面を様々に異なった相で射映する(Abschattung)(与える)にすぎない。

このように、フッサールによれば事物は一定のパースペクティブからしか与えられず、彼はまた、この射映によって現れることを現出(Erscheinung)と呼んだ。






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ところで我々は、ここに「机がある」と知覚するとき、それを様々に異なった別々の机だとは知覚せずに一つの机であると知覚する。


それは、フッサールによればおよそ次のような仕組みになっている。





我々は机のあらゆる相を知覚する(コギト)。



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この連続的に与えられる(コギタチオ)机の相を、意識が瞬時に統一して、ここに「一つの机がある」という知覚(コギタートゥム)に至る。






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我々は「机そのもの」を知覚したかのように感じていても、現実的知覚としては現に意識に与えられているとはいい難い。






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したがって、この行程には少なからず「ドクサ」が含まれていることに我々は注意せねばならない。




さらに、リヒターのノート1988を併読してみよう。


芸術は悲惨で、シニカルで、愚かで、救いがなく、人を混乱させる・・・・・
我々の精神的乏しさの鏡、みすてられ、喪失してしまった我々を映している。
偉大な理想、ユートピア、あらゆる信念、意味を生みだしてくれるすべてのものを我々は失った。




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芸術の悲惨を、社会的に条件づけられたものとしてみなすこと、つまり芸術の悲惨とは、芸術の特徴であり、芸術に使命と内容をあたえる一般条件とすることを、当然拒否してきた。
いつも、構築的で古典的に正しいものをつくれないのは、自分の個人的な無力のせいだと思ってきた。






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☆☆☆GGのつぶやき
リヒターの悲壮感と対峙するとき、やはり、フッサールの「意識―意識作用―意識内容」の行程を注意しなければなるまい。
































































































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by my8686 | 2018-02-26 13:23 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

フッサール「純粋意識」+リヒター「写真論」に余剰を読み解く

寒さは和らぎながらもガスっぽい朝をむかえた日曜日。

昨夕、WI-HI発信機の場所を移動させてみる。先々週あたりから寝室でのタブレットの受信状態が極端に悪化。
寒さのせいばかりではあるまいと、ネット情報で設置高さと電波障害をおこす物品類をつきとめる。
現行のコード長さの範囲内でベストの位置へ移動。PCデスク面から約1.2M上の壁面に設置してみる。想像以上に感度が改善される。
これだけのことだが、とても幸せな気分に浸ってしまった。



それはさておき、今朝はフッサールの「純粋意識」とリヒターの「写真論」を併読してみよう。




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「現象学的還元」で自然的態度(naturalistische Einstellung)にエポケーを施し、ドクサを取り払ったあと、そこには果たして何が残るのだろうか。
フッサールによればそれは「純粋意識」であるという。





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ではこの純粋意識とはいかなるものなのであろうか。


フッサールのこの「純粋意識」とは、一切のものを疑ってもなおそこに残った唯一確実なものという点において、デカルトのコギト(cogito)と類似するものであるが、ある一点においてまったくその性質を異にしている。





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というのは、デカルトにおけるコギトとは実在するものとして考えられているが、フッサールのいう「純粋意識」とは人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という意味であり、それ以上でも以下でもない。

したがって、ここでは「純粋意識」が実在するものであるということは含意されていない。





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ここでリヒターの「ノート 1964~1965」から気になる言葉を読み解いてみよう。


人やものをデッサンするときは、プロポーションや正確さ、抽象やデフォルメといったことに意識的になってしまう。
写真を描きうつせば、そんな意識は遮断される。自分のしていることがわからない。





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私の仕事は、「レアリスム」よりもずっとアンフォルメルに近い。写真には、ある独特の抽象性があって、それを見抜くことはそう簡単ではない。







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写真とは、今日だれでもが信じているもの、つまり「普通のもの」である。






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その、普通だと思っているものが、あとから「普通でないもの」になると、その効果はベーコンやダリの作品のデフォルメよりも、はるかに強烈なのだ。






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そこで人は突然不安を覚えるのである。









☆☆☆GGのつぶやき
普通だと思っているものが、あとから「普通でないもの」になる。
人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という認識。
特定されない、それでいて独特の抽象性に、なぜか魅かれる。




















































































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by my8686 | 2018-02-25 10:54 | ぶらぶらアート観賞 | Trackback | Comments(0)

映画「日の名残り」を観賞する

昨晩金曜日の夜は、先週レンタルしたDVD「日の名残り」を観賞する。




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原題「The Remains of the Day」。1993年イギリス映画。
1993年にジェームズ・アイヴォリー監督で映画化された。

1989年のブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの同名の小説の映画化である。





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カズオ・イシグロの作品をひとつ読んでおきたいと思い、日本語訳の電子図書をタブレットで読みはじめたものの、執事が主人の車で旅行に出発したあたりで止まってしまっていた。

一人称視点によるバイアスを巧妙に利用した例としてしばしば取り上げられる作品。
語り手の執事スティーブンスの元主人は、第二次世界大戦前における対独宥和主義者であるが、スティーブンスはその点を意図的にぼかしている。
また女中頭のミス・ケントンとの淡いロマンスについても回想の中で理想化されている。






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アカデミー賞では、主演男優賞、主演女優賞、美術賞、衣装デザイン賞、監督賞、作曲賞、作品賞、脚本賞の8部門にノミネートされた。





あらためて、そのあらすじを読み解いてみよう。


物語は1956年の「現在」と1920年代から1930年代にかけての回想シーンを往復しつつ進められる。




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第二次世界大戦が終わって数年が経った「現在」のことである。
執事であるスティーブンスは、新しい主人ファラディ氏の勧めで、イギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かける。





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前の主人ダーリントン卿の死後、親族の誰も彼の屋敷ダーリントンホールを受け継ごうとしなかったが、それをアメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取った。

ダーリントンホールでは、深刻なスタッフ不足を抱えていた。なぜなら、ダーリントン卿亡き後、屋敷がファラディ氏に売り渡される際に熟練のスタッフたちが辞めていったためだった。





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人手不足に悩むスティーブンスのもとに、かつてダーリントンホールでともに働いていたベン夫人から手紙が届く。
ベン夫人からの手紙には、現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉が書かれていた。

ベン夫人に職場復帰してもらうことができれば、人手不足が解決する。
そう考えたスティーブンスは、彼女に会うために、ファラディ氏の勧めに従い、旅に出ることを思い立つ。

しかしながら、彼には、もうひとつ解決せねばならぬ問題があった。

彼のもうひとつの問題。それは、彼女がベン夫人ではなく、旧姓のケントンと呼ばれていた時代からのものだった。
旅の道すがら、スティーブンスは、ダーリントン卿がまだ健在で、ミス・ケントンとともに屋敷を切り盛りしていた時代を思い出していた。






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今は過去となってしまった時代、スティーブンスが心から敬愛する主人・ダーリントン卿は、ヨーロッパが再び第一次世界大戦のような惨禍を見ることがないように、戦後ヴェルサイユ条約の過酷な条件で経済的に混乱したドイツを救おうと、ドイツ政府とフランス政府・イギリス政府を宥和させるべく奔走していた。

やがて、ダーリントンホールでは、秘密裡に国際的な会合が繰り返されるようになるが、次第にダーリントン卿は、ナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれていく。






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再び1956年。ベン夫人と再会を済ませたスティーブンスは、不遇のうちに世を去ったかつての主人や失われつつある伝統に思いを馳せ涙を流すが、やがて前向きに現在の主人に仕えるべく決意を新たにする。

屋敷へ戻ったら手始めに、アメリカ人であるファラディ氏を笑わせるようなジョークを練習しよう、と。








☆☆☆GGのつぶやき
執事スティーブンスの語り口が日本語でも美しく語りかけてくる。しかし、どこか滑稽さが漂う。
愚直なまでの高潔さと職業倫理と厳格な行動規範を持つ執事。
古き良き英国の田園風景が心をうつ。






































































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by my8686 | 2018-02-24 14:53 | たかが映画、されど映画 | Trackback | Comments(0)

フッサールの「現象学的還元」を読み解く

プレミアムフライデー1周年となる2/23金曜日。
月末の忙しい週末の午後3時に、早帰りできる会社員は少ない。下々の労働環境を知らぬ御上の発想である。経済の循環を狙うなら、出すものを出し、もっと根本的な働き改革が必要であろう。



それはさておき、本日もフッサールの思想理解と、彼の用いた術語を読み解いてみよう。


フッサールの「現象学的還元」である。
デカルトが「方法的懐疑」(doute méthodiaue)で示したように、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の一致を確かめることはできない。



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かといってデカルトのように神を持ち出すこともできない。





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するとどうなるか、フッサールは「現象学的還元」という新たな方法を提出した。





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ここで問題なのは、主観と客観の一致を確証することではなく、これが「疑い得ない」現実であるという妥当(Geltung/Gelten)(確信)がどのようにして生じるかという問題を解くことである。





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そしてこの問題を解くために、我々はまず「主観」から出発するのである。





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フッサールの考えた「現象学的還元」の方法をみてみよう。


■主観と客観の構図を取り払う
人間は「主観」の中に、ある「疑い得ないもの」を持っており、それを他人と共有せざるを得ないような構造を持っていると考える。




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ただ、「疑い得ないもの」の妥当が、単なる思い込み(ドクサ)doxaであってはならないため、このドクサをエポケー(Epoché)する(括弧に入れる/判断を停止する)ことによって一旦取り払ったのと同じ状態になる。








☆☆☆GGのつぶやき
doxaであってはならないためにEpochéする。
「疑い得ないもの」の妥当性を信じ、他人と共有せざるを得ないような構造を持っていると思考する。
リヒターがかつて説いた言葉が脳裏をよぎる。
絵画とは、目にみえず理解できないようなものをつくりだすことである。
理解不能性の創造。理解不可能であることは、本質的なのだと。



























































































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by my8686 | 2018-02-23 10:10 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

俳優・大杉漣の急死を悼む

俳優の大杉漣が21日午前、急性心不全のため急死した。66歳だった。




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同世代の男として、共感し、その役柄に共鳴させられていた。





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サイトでは「弊社所属の大杉漣が、2018年2月21日午前3時53分に急性心不全で急逝いたしました」と報告。葬儀は本人や家族の意向で、親族のみで執り行うという。





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MEMO

1951年9月27日生まれ、徳島県出身。
74年から88年まで、太田省吾主宰の『転形劇場』で舞台俳優として活躍し、78年に『緊縛いけにえ』で映画デビュー。

以降、映画『ソナチネ』、『土竜の唄 潜入捜査官REIJI』、NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』などの多数の作品に出演。
主役を際立たせる名バイプレーヤーとして欠かせない存在となった。



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☆☆☆GGのつぶやき
突然の死亡報道に明け方目が覚めた。
惜しい俳優がまたひとり、亡くなった。
心から冥福を祈りたい。























































































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by my8686 | 2018-02-22 10:28 | ヘビーな話は、謹んで | Trackback | Comments(0)

フッサールの方法「主客問題」を読み解く

有休明けの水曜日。
際立つニュースのない日は、エドムント・フッサールの思想理解を深める意味で彼の用いた術語を読み解いてみよう。



まず現象学的還元(phänomenologische Reduktion)に端を発するフッサールの学的態度を一通り読み、そこで出てくる概念を読み解いてみたい。



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■フッサールの方法「主客問題」

「主観と客観」あるいは「認識と対象」の問題をどう解明するか、これが現象学(Phänomenologie)の第一の課題である。




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デカルトは、「神の存在証明」(Beweis des Daseins Gottes)によりこの問題に取り組んだともいえるが、結局のところ神に頼らざるを得なかった。





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ところがフッサールの時代において存在の基礎づけとして神を持ち出すことは、もはやかなわなかった。





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したがって、フッサールはデカルトとは違う、しかしデカルトのように学問全体を絶対的に基礎づけるような土台から始める必要があったのである。






☆☆☆GGのつぶやき
デカルトが「方法的懐疑」で示したように、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の一致を確かめることはできない。






























































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by my8686 | 2018-02-21 02:21 | フッサールを読み解く | Trackback | Comments(0)

「デンマーク・ウォーターカルチャーセンター コンペ最優秀賞選定」を読み解く

本日は、母の腰痛診察の付き添いのため有休とした。
朝一で赴くも、評判の高いS整形外科のため、受付番号がすでに154番。診察までの待ち時間がなんと2時間。
診察~レントゲン撮影~再診察~処方箋受け取りが完了したのが午後1時過ぎ。
安静に休んで、痛みが和らげば、軽いストレッチと運動をすれば完治するという。痛み止めと湿布薬をもらって帰る。
息子の素人判断よりも医者の診察の方がどれだけ安心感と信頼感があるものか。これも医療のひとつであろう。


それはさておき、デンマーク・ウォーターカルチャーセンター コンペティションで、隈研吾建築都市設計事務所が最優秀者として選定されたという。
BIG等を抑え、タイルと軽量ガラスからなるピラミッド型の都市計画案を提案している。




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あらためて、フッサールの相関関係(Korrelation)と並行して見てみよう。


知覚と知覚対象それ自体とは一つになって結合されているものではないということを確認する。




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知覚とパースペクティブなものとして現れる知覚事物とは、「意識とはすべて、何ものかについての意識である」という志向性ゆえに切っても切り離せない関係にある。





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この関係をフッサールは相関関係(Korrelation)と呼ぶ。






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この相関関係のうち、意識の作用的側面はノエシスと呼ばれ、対象的側面はノエマと呼ばれる。







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つまりノエシスとは、意識に現れた感覚的ヒュレー(hyle)(素材)に志向的な意味統一を与えてひとつの存在対象の妥当を構成する意識の働きであり、ノエマとはノエシスによって構成された対象性のことである。





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またこの構成された対象性のことを、志向的相関者という。






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他我(alter ego)から間主観性/相互主観性(Intersubjektivität)まで。








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他人とは私と同じく心(Seele)と身体(Leib)を持っており、私ではない主観であると考えられている。







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このように心と身体を持っており、私と同じように主観を持っているような性格を「他我」と呼ぶ。






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さらに「間主観性」とは、「他我」も私と同様に唯一同一の世界の存在を妥当しているはずだという、私自身の妥当を意味する。










☆☆☆GGのつぶやき
フッサールの「間主観性/相互主観性」を読み解きつつ、隈研吾のオノマトペ空間に酔いしれてみるのも一興。


























































































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by my8686 | 2018-02-20 14:54 | 気になる建築&空間 | Trackback | Comments(0)

「自由の象徴、上海の書店閉店」を読み解く

寒波もひと段落した感のある月曜日。このまま、春に近づいてくれればよい。
昨夕は、次男の縁談の朗報の余韻を噛みしめながら、市内にあるお気に入りの温泉に入り、その後、夕餉をいただく。


さて今朝は、中国・上海に20年間続いた書店「季風書園」が閉店したニュースを読み解いてみよう。



1月31日夜、中国・上海の書店「季風書園」は、歌声に包まれていた。



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Do you hear the people sing?(人々の歌が聞こえるか?)
Singing a song of angry men?(怒れる者の歌が聞こえるか?)


ミュージカル「レ・ミゼラブル」で苦しい暮らしを強いられる民衆が歌う曲だ。店を埋めた約500人の客たちが声を合わせた。




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この数時間後、店は20年続いた営業を終えた。民主主義に関する本が充実していた。中国社会の問題を議論するサロンも名物で、上海文化の「象徴」と呼ばれた。

しかし、当局の圧力でサロンの中止が増え、店の賃貸契約更新は拒否された。新たに受け入れてくれる場所は、上海にはもうなかった。

2012年に発足した習近平指導部の下、言論の引き締めが強まる中国。多様な考え方を認め合ってきた文化の発信地が、街から姿を消した。




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「季風書園」がその歴史を閉じた日、多くの客たちが最後を見届けようと店にやって来た。上海市の会社員女性(26)は「別れを惜しむ人たちが次々とやって来て、ギターを弾いて歌ったり、踊ったり。まさに送別会だった」と話す。

女性は前日の30日夜も店を訪れた。人が集まり始めたころ、突然原因不明の停電が発生。客たちはスマートフォンのライトや、ろうそくの火で本を読み、語り合ったと言い、「暗闇に星々が光っているようだった」という。




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店が週末ごとに開いた「サロン」では政治制度をテーマにした討論によく参加した。
「前は政治には関心がなかったけど、本を読み、議論するのが楽しくなった。真理とは、自由とは何か、いろんな意見が飛び交う雰囲気が大好きだった」と話す。

閉店から2日後、店の入り口にはシャッターが下ろされ、店員たちが片づけに追われていた。

「今の心境は、店の本棚と同じ。空っぽで空虚な気持ちでいっぱいです」。がらんとした店内を見渡しながら、経営者はつぶやいた。


上海に季風書園が生まれたのは、1997年4月。
シンクタンク「上海社会科学院」で哲学や中国近代思想史を研究していた厳搏非が創設。
当時の中国は、92年のトウ小平氏の「南巡講話」を受けて改革・開放路線が加速していった時代。開店の年の7月には香港返還もあった。



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店の運営理念は「文化の独立、自由な思想の表現」。哲学や民主主義に関する本や、中国の貧困問題や労働問題を取り上げた本が充実していた。

学者や作家が読者と共に社会の様々な問題を議論するサロンには、若者から高齢者まで、多くの読者が参加した。

店は「独立書店」、「自由の風」と呼ばれるようになり、評判を聞きつけた客が全国各地から訪れた。40平方メートルでスタートした小さな店は、開店から10年後の2007年には上海市内に8店舗を構える「上海文化のランドマーク」となった。

だが、08年に1号店が閉店。地価の高騰により賃料は開店当時の10倍になり、インターネット通販や電子書籍の浸透で、店の売り上げは激減。経営は厳しく、10年、11年と1店1店閉店が続いた。

企業家でもある于氏が経営を引き継いだのは、12年。学生時代からの常連で、店の危機を救おうと手を挙げた。

その年の秋、北京で中国共産党大会が開かれ、習近平氏が共産党トップの総書記に就いた。習指導部は国家の秩序維持を重視し、言論の引き締めを強めた。

13年春、人権などの普遍的価値や、報道の自由といった内容を授業で禁じる「七不講(七つの語るべからず)」が各地の大学に通知され、17年6月にはネット上の言論統制を強化する「インターネット安全法」が施行。

「ネット上で誤った主張を流した」などとして、知識人が大学や職場から追われることも増えた。




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季風書園でも、当局によってサロンの開催が取りやめになることが徐々に増え、客足が遠のいた。最後に残った上海図書館地下の店も昨年1月、賃貸契約の延長を図書館に断られ、閉店を余儀なくされた。

「店を引き継いでからの日々は、多様な文化を抑制しようとする社会の圧力の強まりを感じる時間だった。季風書園が消えた根源的な理由は、賃料の問題でも本離れの影響でもなく、こうした社会の空気が背景にある」と于さんは話す。

それでも、経営を引き継いでからの5年間で店のサロンやイベントに参加した人は延べ10万人に上る。

「店は消えたが、店に来た一人ひとりの人生の中で、店の精神はずっと生き続けるはずだ」

「季風は永遠に私の心の中にある」「自由の風に感謝」……。閉店を迎えた時、店の壁には客が貼ったメッセージカードが幾層にも重なっていた。




■習近平指導部の下で強まる言論統制

<2012年11月> 習氏、党総書記に就任


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<2013年1月> 中国紙「南方週末」の新年特別号が当局の指示で改ざんされる。自由や平等を巡る文言を削除



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<春> 人権などの普遍的価値や報道の自由といった7項目を授業で禁じる「七不講」を各地の大学に通知



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<2016年7月> 改革派の月刊誌「炎黄春秋」が当局の圧力を受け、解任された社長が「停刊声明」



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<2017年6月> ネット上の言論統制を強化する「インターネット安全法」が施行











☆☆☆GGのつぶやき
「インターネット安全法」などという馬鹿げた政策がまかりとうる中国の今に、かつての不安が甦る。13億人を超えた国民を統治するには、やはり必要なことなのであろうか。
かつて、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動し政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争を思いおこす。
その残像が今ふたたび甦る。






























































































 




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by my8686 | 2018-02-19 10:11 | ヘビーな話は、謹んで | Trackback | Comments(0)