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奈良「中宮寺」を読み解く

4/24(水) あいにくの雨の朝。午後には晴れ間が出るとの予報ながらどんよりと空はガスっている。いよいよ明日から「京都ひとり旅」に出る。本日中にパッキングしておかなければなるまい。




それはさておき、本日最後の事前学習となる。


奈良「中宮寺」を読み解いていこう。

法隆寺から東に500Mに隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基は聖徳太子または間人皇后とされている。

創建当時の中宮寺跡は現境内の東方約400メートル、斑鳩町法隆寺東二丁目にあり、国の史跡に指定されている。この地はかつての地名を大字法隆寺字旧殿といい、伽藍跡とおぼしき土壇が残っていたという。






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1963年(昭和38年)より石田茂作らによる発掘調査が行われ、金堂と塔の跡を検出。大阪の四天王寺と同様に、金堂を北、塔を南に並べる伽藍配置であったことがわかっている。

ただし、講堂、回廊等の遺構は未検出である。この伽藍の特徴の一つは、金堂と塔の距離が近く、軒を接するように建っていたと推定される点である。

塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、創建時代が古いことを示唆しているという。








■木造菩薩半跏像 国宝


本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。






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広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。

国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。

両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。

本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。

それ以前の伝来は不明。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われている。




■50円普通切手の意匠に採用。

1951年(昭和26年)5月1日発売




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1952年(昭和27年)6月20日発売 銭位省略

1966年(昭和41年)12月26日発売 刷色変更、“NIPPON”追加

1967年(昭和42年)7月1日発売 刷色変更

1976年(昭和51年)1月25日発売 刷色変更





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☆☆☆GGのつぶやき
「木造菩薩半跏像」の穏やかな微笑みに何を諭されるのか。
御拝顔できる日を楽しみにしておきたい。
この美しい御姿に見とれてしまいそうである。

















































by my8686 | 2019-04-24 11:18 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「法隆寺」を読み解く

4/23(火) 暖房器具が邪魔になってきた今日この頃。昼間は半袖Tシャツでも汗ばむようになってきた。
いよいよ明後日に迫った京都行き。そろそろパッキングの準備にとりかからねばなるまい。



それはさておき、奈良定番コースの事前学習の仕上げに入って行こう。


聖徳宗の総本山である「法隆寺」を読み説いてみよう。

奈良県生駒郡斑鳩町にある別名「斑鳩寺」。薬師寺からは南東へ約9.4km、車で約22分の位置にある。

7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。

金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。





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主だった伽藍と仏像をピックアップして読み解いてみよう。




「金堂」

入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。
堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置されている。


■釈迦三尊像 国宝

止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形の眼、アルカイックスマイル、太い耳朶、首に三道を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著とされる。





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■薬師如来像 国宝

東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。 






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■阿弥陀三尊像 重文

鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。
両脇侍のうち勢至菩薩像は幕末から明治初期の時代に行方不明になり、現在は、フランス・ギメ美術館蔵となっている。現在金堂にある勢至菩薩像はギメ美術館の像を模して1994年に新たに鋳造されたものである。






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■吉祥天 国宝

中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。記録(『金堂日記』)から承暦2年(1078年)の作とされる。なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。






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■四天王像

飛鳥時代。広目天・多聞天像の光背裏刻銘に山口大口費らの作とある。同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。





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「夢殿」

奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。



■観音菩薩立像(救世観音)(国宝)

飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。

現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く当初のものと思われる金箔が多く残る。





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「大宝蔵院」

百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成した。


■観音菩薩立像(百済観音)(国宝)

飛鳥時代、木造。もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。和辻哲郎の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。





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☆☆☆GGのつぶやき
聖徳太子ゆかりの寺院。その歴史の深さに魂が震える。
飛鳥時代に想像をめぐらす時、官能の襞が震え、自然的思考に導かれる。
伽藍と仏像との対面を心待ちにしておこう。





















by my8686 | 2019-04-23 12:02 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「薬師寺・伽藍群」を読み解く

4/22(月) 太陽が昇るとその陽ざしの強さに驚く朝となった。風はまだ冷たさを感じる。
今週木曜からは京都ひとり旅に出る。それまでに奈良コースリスト分を読み解いておこう。



本日は、奈良「薬師寺」の伽藍群をまとめて読み解いてみよう。


「大講堂」

薬師寺の伽藍の中でも最大の大講堂。伝統工法のなかに、現代工法を取り入れながら平成15年に復興された。





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■重要文化財 弥勒三尊像

大講堂本尊の銅造三尊像は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについては不明。かつては金堂本尊と同様に「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、薬師寺では「弥勒三尊」と称している。






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■国宝 釈迦十大弟子

仏教の曙のころ、釈迦のもとに集まってきた弟子達の中で、特に優れた10人を十大弟子と呼んだ。2500年の時空を超えていま、10人の愛弟子がここに集う。







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「西塔」

東塔と西塔が並び立つ姿は薬師寺の象徴である。現在は東塔との色彩のコントラストは現代の薬師寺を代表する風景といえる。昭和56年に復興された。





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■釈迦八相像(西塔果相)

「釈迦八相」は、釈迦の生涯を因相と呼ばれる、入胎、受生、受楽、苦行と、果相と呼ばれる、成道、転法輪、涅槃、分舎利の合わせて8つの場面に分けたもの。このうち果相にあたる四相像が奉納され、西塔の初層内陣の東西南北の扉を開いて公開されている。







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「東院堂」

創建期に建立されたお堂が焼失し、鎌倉時代に再建された和様建築の建物。日本最古の禅堂として国宝に指定されている。







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■国宝 聖観世音菩薩像

両脇侍と比べて引き締まった端正な姿で、荘厳はにぎやか。天衣や瓔珞まで美しく鋳出されており、宝髻の両側には唐草文がある。
高い技術と優れた美的感覚があわさった奈良時代前期の優品とされる。






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■重要文化財 四天王立像

平安時代後期の作。「四天王」とは、もともと古代インドの神々で仏教に帰依したとされる天部に属し、四方を守護するとされた持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の4神を指す。

薬師寺のものは、おのおの高さ1.1メートルほどの寄木造で、長く多聞天、持国天の二天だけが伝わり、1902(明治35)年に「二天王像」として国の重要文化財に指定されている。







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「玄奘三蔵院伽藍」

薬師寺の宗派、法相宗の鼻祖である玄奘三蔵の頂骨を奉安し、玄奘三蔵の遺徳を顕彰する伽藍。平山郁夫画伯の手による大唐西域壁画が奉納されている。


■玄奘三蔵像

玄奘は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。

1335巻に及ぶ『般若心経』は玄奘三蔵の翻訳によるものとされる。





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「休ケ岡八幡宮」

社殿は全体に西面し、本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っている。休ヶ岡八幡宮は寺域の最も南に鎮座する薬師寺の鎮守(守り神)でもある。


■国宝 八幡三神像

八幡神は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩と称され、神社内に神宮寺が作られている。

現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。






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応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くある。









☆☆☆GGのつぶやき
薬師寺の伽藍と仏像の多さにあらためて驚く。
仏教の一大ストーリーに触れる日を楽しみにしていきたい。


















































by my8686 | 2019-04-22 16:34 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

「安倍首相演説に籠池砲」から透けて見える「日本政治史の澱み」

4/21(日) 春日和の日曜日。穏やかな朝ながら、昨日行われた「夏の参院選の前哨戦」となる衆院大阪12区、沖縄3区の両補欠選挙のことが脳裏をかすめた。

学校法人「森友学園」の籠池泰典前理事長と妻の諄子氏が安倍首相の大阪12区の自民党新人候補の街頭応援演説に姿を見せたことに「不埒なスイッチ」が入ってしまった。

一連の森友問題が蒸し返されるたびに「芥の淀み」のように浮かんでくるのが、戦後の「自由民主党」の結成資金となった「巨額麻薬資金」の存在である。



これは、A級戦犯の岸信介や笹川良一が首魁となり、里見甫らが「昭和通商」によって行った朝鮮・満洲のアヘン販売による巨額麻薬資金(M資金)と言われるものである。さらに、731部隊の人体実験資金の3兆円の一部やCIAからの資金提供をも含め、「自由民主党の結成資金」と成ったのが、この「巨額麻薬資金」である。






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この巨額麻薬資金の胴元が「昭和通商株式会社」という日本陸軍主導で設立された「軍需国策会社」を忘れることはできない。


「昭和通商」の前身である「泰平組合」は、明治41年6月に三井物産、大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立され、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合である。






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第一次大戦では同組合を通じて連合国のイギリス・ロシアにも100万挺を越える小銃を輸出したといわれている。

莫大な収益を得た同組合は、大倉財閥と懇意だった大隈重信内閣が発した対華21ヶ条要求中にも、日本製兵器購入を強要する一項を入れさせるなど、政治的な活動も活発に行っていた。

しかし大戦が終了すると同組合の輸出は伸び悩みはじめ、昭和14年4月には高田商会が抜け、航空機・装甲車輌などを製造していた三菱重工を傘下に持つ三菱商事が新たに加入して、昭和通商が設立されたのである。

昭和通商は、1939年(昭和14年)に陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐の主導で設立され、業務上の指導・監督権や人事権を陸軍省が一手に握り、陸軍の施策に準じて商行為を行う半官半民的な商社であった。






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岸信介は第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するこの「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していたのである。

福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相や福田赳夫首相、さらに美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する。


日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告されている。日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾っている。

岸はボスの里見からブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を教えられていた。

岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰い、その後「英語語学教師」ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムを通して、24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。





1965年、里見が亡くなると、里見の資金を岸が引き継ぎ、その岸の人脈と金脈を引き継ぎ首相となったのが、現在の安倍総理なのである。





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この安倍晋三首相の「右派人脈」と家庭内野党である「昭恵夫人」の存在についても、平成最後の日本政治の汚点として「芥の澱み」のごとく浮かび上がってくる。







☆☆☆GGのつぶやき
安倍首相を支えるのは統一性のない「曖昧模糊とした集団」であろう。
保守としての一貫性など微塵もないことにも憤りを覚える日本国民は多い。
また、この安部を利用しようとした森友前学園籠池理事長の存在も「複雑にして怪奇な事件」として平成史に汚点を残してしまった。







































by my8686 | 2019-04-21 11:03 | ヘビーな話は、謹んで | Trackback | Comments(0)

奈良「薬師寺・金堂」を読み解く

4/20(土) 昨日午後からは、A.K.スポーツセンターで全身をほぐし、その足でいつものスーパー銭湯で一汗流す。

スポーツセンターで今意識しているのは、最初に下半身の大筋群を中心にレッグプレスで基礎代謝をアップさせ、ラットプルダウン~トルソーマシンローテーション~チェストプレス~ステアクライマー~エアロバイクの順で約1時間身体をほぐし脂肪燃焼量をあげるようにしている。

仕上げは、足裏マッサージ~腰ベルトバイブ~全身マッサージでクールダウンさせる。週一にとどめているのは、義務感に囚われることなく「身体が自然に欲する」ようにとの思いでもある。




それはさておき、本日も奈良の定番コースを読み解いてみよう。




唐招提寺から南に900Mの場所にある奈良市西ノ京町に所在する寺院「薬師寺」。

興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられ、本尊は薬師如来、開基は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。





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日本で一番最初に二基の塔を建てた薬師寺の独特なお堂の並び方は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれている。国宝・重要文化財に指定された多くの建物と仏像が祀られている。








「金堂」

薬師寺の中心をなすお堂。本尊が祀られている。大きく広がる屋根は軒先が美しいカーブを描き、その美しさは「竜宮造り」とも呼ばれている。

創建当初の金堂は戦国時代の大火で焼け落ちてしまい、仮のお堂が建てられていたが、昭和43年から始まった「お写経勧進による白鳳伽藍復興」により、昭和51年に復興された。

二重の建物の各層に裳階もこしがあり、二層目には納経された写経を納める納経蔵がある。






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■薬師三尊像【国宝】白鳳時代

薬師寺創建当初より祀られている、薬師寺の本尊。

金堂は火災で消失したが本尊は火災に耐え、三尊ともほぼ完全な姿という。当初は体の表面に鍍金が施され、装飾品にはガラスがはめ込まれており、非常にきらびやかな姿だったと想像されている。

薬師三尊は身心の健康を護る仏で、中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩が並ぶ。






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中央に座す薬師如来は堂々とした雰囲気の中にも優しさが溢れている。

両脇の日光・月光両菩薩は時に青年を思わせる表情、時に女性的な体つきと言われ、まさにすべての人の理想の姿をあらわした仏像といわれる。











■薬師如来台座【国宝】白鳳時代

薬師如来が座す台座には、7世紀頃の世界各地の文様が集約されている。





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一番上の框にはギリシャの葡萄唐草文様、その下にはペルシャの蓮華文様が見られる。各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人)の裸像が浮彫りされている。

さらに、下框には、中国の四方四神(東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武)の彫刻がなされている。正にシルクロードが奈良まで続いていた証といえよう。








☆☆☆GGのつぶやき
白鳳時代から伝わる建物と仏像の歴史の重みに何を感じるであろうか。
さらに、薬師三尊を拝顔できる日を楽しみにしておきたい。















































by my8686 | 2019-04-20 14:35 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「唐招提寺・御影堂」を読み解く

4/19(金) 桜も大方散り行きて遅咲きの桜がちらほらとまだ色づいている。塵出しついでにMTBで近所の桜並木下を軽く走る。朝の美味しい空気を楽しめる季節となってきた。


それはさておき、奈良の定番コースを引き続き読み解いてみよう。




「唐招提寺・御影堂」重要文化財 江戸時代

境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964)移築復元したものである。





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現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。
※平成大修理事業のため、2022年3月までは拝観できない。鑑真和上坐像は新宝蔵に遷座している。6月5日~7日は新宝蔵で開扉するという。






■鑑真和上座像 国宝 奈良時代(8世紀)脱活乾漆 彩色

高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻。
鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作といわれる。

脱活乾漆は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞となる。弟子の忍基が制作を指導したとされ、今も鮮やかな彩色が残っている。





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■「鑑真」を読み解く

「鑑真」は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖である。

この開祖の偉大さをあらためて、読み解いてみよう。

唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。

律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。

揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓うために、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。

日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせたため、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。
そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが、悉く失敗してしまう。

鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してまでも日本への渡海の強い意志を貫く。






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753年遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を乗船させた。天平勝宝5年11月16日に四舟が同時に出航する。第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着。第三船はすでに前日20日に到着していた。第四船は不明という。

朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。翌19日に遭難するも古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日に秋目(秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着。その後12月26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日であったとされる。 

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。

4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

天平宝字2年(758年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

天平宝字3年(759年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

天平宝字7年(763年)唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。

これが日本最古の肖像彫刻とされ、宝亀10年(779年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっているのである。









■鑑真大和上御身代わり像

鑑真大和上の尊像は、現在の「開山堂」へ移築されて安置されていた。開山堂は、元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立されたものである。

国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康の坐像を安置した本願殿として参拝されていたが、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から1250年になる平成25年(2013)、大和上の姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶したという。





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「鑑真大和上御身代わり像」は、他の脱活乾漆造とは異なる特殊な工法で制作されている。

心木(骨組の木)に藁を巻き、骨格が作られ、そのうえに粘土で肉付けし、麻布と漆を交互に張り付けて行く。
完成した乾漆素地の背中から粘土を取り出し、開口部を閉じ、鉛白下地処理後に彩色される。

彩色後は肌の質感を出すために密陀僧油が塗布される。








☆☆☆GGのつぶやき
「鑑真大和上」の経歴を読み解くうち、「授戒」させることへの強い信念、その信念を支えた信仰の強さに驚愕する。
安置されている背景を知らずして「鑑真和上座像」を観る意味はない。



















































by my8686 | 2019-04-19 11:52 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「唐招提寺・宝蔵・新宝蔵」を読み解く

4/18(木) 昨日は、午後からMTBの再調整にS-DEPOまで出かける。「後輪タイヤの組み込みが逆回転になっている」という連絡を受けたのがきっかけなのである。

確かに、方向指定マークからすると異なるのだ。MTB用タイヤの場合、リアのノブパターンの方向を進行方向の逆にすることで登坂時の駆動グリップを上げる設計になっているという。

ロードバイクや車などでは想定しない設計コンセプトに、あらためて今更ながら勉強させられてしまった。
十数年来のつきあいとなる「我戦友MTB」も定期的なメンテナンスは欠かさぬようにしたい。また、若いメカ担当スタッフとも仲良くしておくべきなのである。






それはさておき、本日も奈良の国宝を読み解いてみよう。

唐招提寺の宝蔵と新宝蔵である。


「宝蔵」 国宝 奈良時代(8世紀)校倉・寄棟造・本瓦葺

経蔵とともに並んで建つ校倉の、北側の蔵。
唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれ、経蔵より一回り大きいその堂々たる姿は、校倉の典型といえる。


「新宝蔵」 

唐招提寺が伝える、多くの文化財を管理・収蔵するために昭和45年(1970)に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設。
金堂に安置されていた木造大日如来坐像(重文)のほか、旧講堂木彫群と呼ばれる、奈良時代末期に制作された多数の木彫像が収められている。




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■薬師如来立像 国宝 奈良時代(8世紀)木造 

衆宝王菩薩立像などと同様に、旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像。
頭部の漆製の螺髪と両手が失われているが、唐風の作風の旧講堂木彫群の中でももっとも大らかでボリュームのある立体的な造形を持つ。
他の旧講堂の木彫が鼻を大きく欠いているが、この像はその形を残しているのが特徴。




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■獅子吼菩薩立像 国宝 奈良時代(8世紀)木造

薬師如来立像などと同様に、旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像の一つ。
三目四臂(3つの目と4本の腕)の不空羂索観音として造られたもので、大らかな唐風の作風が特徴的な唐招提寺らしい像。




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■衆宝王菩薩立像 国宝 奈良時代(8世紀)木造

旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像。鑑真和上自身が持つ菩薩像を具体化したものといわれている。
唐風の色彩が濃い一木彫成の像で、額に縦に一眼が刻まれ、左右の肩の付け根から3本づつ腕が伸びていたと思われ、元は不空羂索観音であったと考えられている。





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■十一面観音立像 重要文化財 奈良時代(8世紀)木造

旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像の一つ。
体形や衣装など全体的に衆宝王菩薩立像に近い表現が見られる。





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■如来形立像 重要文化財 奈良時代(8世紀)木心乾漆 漆箔

ほぼ等身大のカヤ材の一木彫成像。

その独特の曲線によって形作られた美しい姿は、頭部および両手先を失っていることで「唐招提寺のトルソー」とも呼ばれ、多くの芸術家・愛好家を魅了している。

すらりと伸びた下半身や、胸や大腿部の滑らかな曲面は、唐招提寺の重厚な趣の他の彫像に比べ独特の流麗さがある。





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☆☆☆GGのつぶやき
奈良時代のおおらかな木造彫刻との対面を楽しみにしておきたい。
それにしても、如来形立像の艶めかしい曲線に何を諭されるであろう。


 




































by my8686 | 2019-04-18 11:53 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「唐招提寺・講堂」を読み解く

4/17(木) 昨日は、唐招提寺の伽藍の多さと名宝の多さにあらためて驚いてしまった。
一度にまとめて読み解くことはできない。急ぐことはない、来週の京都ひとり旅までに概要の事前学習ができればよいのである。

じっくりと伽藍ごとに読み解いていくことにしよう。




本日は、唐招提寺「講堂」を読み解いてみよう。




「講堂」

国宝 奈良時代(8世紀後半)入母屋造・本瓦葺
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、開放的な空間となっている。




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外観は平屋の入母屋造で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれる。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在。内部は、本尊弥勒如来坐像と、持国天、増長天立像の他、多くの仏像が安置されている。







■弥勒如来坐像 重要文化財 鎌倉時代 木造




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講堂の本尊で、高さ2.84m。
構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、この点からも鎌倉時代の典型的な仏像とされる。

弥勒は、梵名「マイトレーヤ」インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派の開祖とされる人物である。

未来仏として信仰される弥勒菩薩と同じ存在として扱われてきたが、仏教学者の宇井伯寿が1929年に『Maitreya as an Historical Personage』において歴史的人物として扱う見方を提示している。



・弥勒の五法

 中国の伝承
 ①「瑜伽師地論」
 ②「分別瑜伽論」
 ③「大乗荘厳経論頌」
 ④「弁中辺論頌」
 ⑤「金剛般若波羅蜜経論頌」







■持国天立像 国宝 奈良時代 木造




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増長天と比較して、体躯の動きは多少ぎこちないが、細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がない。


持国天は、梵名「ドゥリタラーシュトラ」。インド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取り入れられ、仏の住む世界を支える須弥山の4方向を護る四天王の1人とされる。

東面の中腹である第四層の賢上城に住み、東の方角、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち東勝身洲を守護するとされる。

仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則とされ、その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。








■増長天立像 国宝 奈良時代 木造




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創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。
そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれている。

増長天は、梵名「ヴィルーダカ」。持国天と同じく雷神インドラ(帝釈天)の配下で須弥山の4方向を護る四天王の1人とされる。仏堂では本尊の向かって左手前に安置されるのが原則とされる。

持物は戟の場合が多く、胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれている。増長天の前には鬼形の従者がいて両手で剣を持ち跪いている。








☆☆☆GGのつぶやき
本尊を読み解く中で「弥勒の五法」に辿り着く。
それについては時を変え、その組織構造から読み解きはじめる旅が始まりそうである。
「瑜伽師地論」の「要義」と「諸経の儀則」から読み解きはじめねばなるまい。



























by my8686 | 2019-04-17 12:50 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

奈良「唐招提寺」を読み解く

4/16(火) 今週は、昨日のランチ送迎以外の不要不急の予定は入れていない。太陽のご機嫌を伺いながら、身体のおもむくまま「晴耕雨読」の境地である。



それはさておき、本日も奈良の定番コースを読み解いてみよう。

新薬師寺から東に約6.3kmの場所にある「唐招提寺」。奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院である。南都六宗の1つである律宗の総本山。本尊は廬舎那仏、開基は鑑真である。

井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有している。

唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されてもいる。

『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものだという。寺名は当初は「唐律招提」と称した。






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「招提」は、サンスクリットのcaturdesa(「四方」の意)に由来する中国語で、四方から僧たちの集まり住する所を意味したという。鑑真研究者によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称し、「唐律招提」とは、「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになったという。

唐招提寺には奈良時代建立の金堂、講堂をはじめとする多くの伽藍とそこに安置されている国宝、重要文化財がある。
まさに天平文化の結晶である。


その伽藍と名宝をひとつづつ読み解いて行くことにしよう。



まずは、8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物「金堂」。三手先と呼ばれる組み物形式で軒が支えられている。

堂内は、連子窓から取り入れられた柔らかな光に満たされ、中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。



「金堂」

■国宝「盧舎那仏座像」奈良時代(8世紀)脱活乾漆 漆箔

金堂の本尊で高さは、3メートルを超え、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像。
奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺の本尊にふさわしい仏像。
また、背後の光背の化仏の数は、862体あり、本来は1000体であったといわれている。





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■国宝「薬師如来立像」平安時代(9世紀) 木心乾漆 漆箔

本尊、盧舎那仏坐像の向かって右側に安置される立像で、高さ3.36m。本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられている。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像。

昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代からも平安初期の完成であることが明らかになっている。





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■国宝「千手観音菩薩立像」奈良時代(8世紀)木心乾漆 漆箔

本尊、盧舎那仏坐像の向かって左側に安置される高さ5.36mの立像。

大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせない。本来は1000本あったと考えられている。
全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的とされる。





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☆☆☆GGのつぶやき
「唐招提寺」には14の主たる伽藍があり、その中に安置されている国宝・重要文化財も多くある。
これほど多くの名宝が安置されていることに改めて驚く。
国宝の真の価値に触れてみたい。





































by my8686 | 2019-04-16 19:51 | 仏像と対峙しつつ | Trackback | Comments(0)

DVDドキュメンタリー映画「はんなり」を観る

4/15(月) 快晴の月曜日。ワイフのランチ会の送迎をかね古田台を経由してLECTまで出る。レア本に特化した蔦屋書店の定点観測である。
事前学習本「奈良大和路編最新版」を購入。小冊子ながら豊富な写真と図版で最新情報を網羅した詳細なロングセラー出版物である。低価格なうえコンパクトで携帯にも良い。




それはさておき、帰宅後コーヒーを淹れ、DVD映画「はんなり」を観る。

来週からの京都探訪の事前学習のつもりでレンタルしたドキュメンタリー映画である。


《京文化・祗園》京都花街 ~ 芸妓、舞妓の世界




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幽玄な香りを今に伝える京都五花街。祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒・・・そして古き町並みを遺す嶋原。

京都の町のエッセンスともいうべき花街の魅力、ミステリアスな芸妓や舞妓の世界の本質に迫った、という売り文句の「アート・ドキュメンタリー映画」である。

芸妓、舞妓の美しくも厳しい姿や、その努力、花街を支える職人の技を丁寧に記録している。





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市井に生きる日本の伝統文化を海外に伝えるという趣旨で制作され、日米で公開。
ハリウッドでも話題を集めた作品のDVD化であり、美しい映像と印象的な音楽が京都の魅力を伝えている。


監督は、数々のハリウッド作品に出演する女優・曽原三友紀。





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京都・祇園の裏町まで入り込み、本当の日本文化、京都の空気、芸者のリアルな姿と努力を丁寧に紡ぎ出している。






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撮影監督は、二本松昭彦、デービッド・ワルドマン。音楽はエミー賞受賞者・石川孝子が担当している。











☆☆☆GGのつぶやき
「一見さんおことわり」という京都五花街特有の「しきたり」。
客を守る伝統的なシステムであり、客への「おもいやり」の極意とも語る。
舞子の「舞い」には、男が女に求める「夢」であり「期待感」なのだと舞いの師匠は語る。
さらに、女は以外にもドライで男は以外にも女々しく脆く感性の襞に囚われやすいとも。
芸子、舞子を育てる先人たちが「行き着いた言葉」の深さに官能が騒いだ。














































by my8686 | 2019-04-15 20:20 | たかが映画、されど映画 | Trackback | Comments(0)