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旅残像「フランス実存主義」へ

パリ・セーヌ川クルーズを回想するうちに、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した哲学的根源に興味が湧いていた。
そして、51年前の1968年5月、ここフランスで起きた「五月革命」のことを想起していた。

昨日の「現象学・解釈学」に引き続き、「五月革命」から深く想起される「フランス実存主義」の祖として知られる「サルトル」について読み解いてみよう。



フランス実存主義の祖サルトルは、主著『存在と無-現象学的存在論の試み』(1943年)において、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とする存在論を展開した。





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第二次世界大戦後、常にその一挙手一投足が注目を集め、世界中に巨大な影響を与え続けた20世紀最大の哲学者ジャン=ポール・サルトル。
彼の思想は「実存主義」と呼ばれ、多くの人々に生きる指針として読みつがれてきている。

「実存主義とは何か」は1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた講演がもとになっており、この講演に多数の聴衆が押しかけ、中に入りきれない人々が入り口に座り込んだほどだといわれている。





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翌日の新聞には大見出しで掲載され大きな「文化的な事件」として記録されている。その後、この講演は世界各国で翻訳・出版され一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームを巻き起こした。

サルトルの思想はなぜそこまで人々を魅了したのか。

大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊し多くの人々は生きるよりどころを見失っていた。

巨大な歴史の流れの中では、「人間存在」など吹けば飛ぶようなちっぽけなものだという絶望感も漂っていた。そんな中、「人間存在」の在り方(実存)に新たな光をあて、人々がさらされている「根源的な不安」に立ち向かい、真に自由に生きるとはどういうことかを追求したサルトルの哲学は、人間の尊厳をとりもどす新しい思想として注目を浴びたといえよう。





1968年後半、高校三年生の頃にこのサルトル思想の洗礼を受け、大きな影響を受けた同年代の同輩も多かろう。
既存の価値観が大きくゆらぐ中で、多くの人々が生きるよりどころを見失いつつある時、このサルトルと出会う意味は深かった。

サルトルの思想には、「不安への向き合い方」「社会との向き合い方」「生きる意味の問い直し」など、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられている。

難解とされる「実存主義とは何か」を、小説の代表作「嘔吐」や後期思想を交えながら、今ふたたび読み直してみたいと、欧州の旅のあと思った。

それほど、5月のパリの空は鉛色に曇りながらも、夏の陽光を待ちわびる忍耐と希望をあたえたようだ。





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サルトルの思想は、特に無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、プラトン・アリストテレスに起源を有する「本質存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学のテーゼを逆転して「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と述べている。

もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえているはずである。

ならば、あらゆるものは、現実に存在する前に、神によってその本質を決定されているということになる。

つまり、この場合、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先立つ」ことになる。しかし、サルトルは、そのような一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか、と問う。





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創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。
この場合は、「実存が本質に先立つ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである。

サルトルにとって、現象学によって把握される即自存在と対自存在の唐突で無根拠な関係は、即時存在の幻影的な存在の根拠になっている。
いずれにせよ、そこでは現象学に還元し得ない存在としての実存が問題にされている。

戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行する。

以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。

徐々に、サルトルは、マルクス主義に傾倒し、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなったとされる。

1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して「カミュ=サルトル論争」を展開している。この論争によって二人は完全に決裂した。

決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。
「他者」と相克しながらも共生していかなければならない状況をサルトルは「地獄」と呼んだ。





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こうした根源的な状況の中で、人は「他者」とどう向き合ったらよいのか。自分の「自由」の前に立ちはだかる「他者」という「不自由」を見つめ、主体性を失うことなく「他者」と関わりあうことがいかにして可能かを、サルトルは説いている。

人間は根源的に与えられている「自由」をどう生かしていけばいいのか。サルトルは「実存主義とは何か」で、「アンガージュマン」(参加・拘束)という概念を提唱し、人間は積極的に《状況》へと自らを「投企」していくべきだと訴える。

社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だと主張する。それは、サルトルが生涯をかけ、身をもって実践した思想でもあった。

どんなに厳しい状況にあっても「自由」を生かし、「希望」を失わずに生きていくことを説いている。






パリ・セーヌ川クルーズの風に吹かれながら、51年前の1968年5月にフランスで起きた「五月革命」のことを想起していた。





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この反乱は、消費社会、テクノクラート社会によってあてがわれた「もの」として、つまり対象物としての生き方に対する異議申し立てだった。
物質的な欲求以上に自由への要求が大きな役割を占めていた。これはそれまでのサルトルの思想の正当性を確認させるものだった。

この当時サルトルは65歳位ながら、毛派の機関紙「人民の大義」の編集長を引き受け、発禁処分を受けてもこれを街中で販売したり、「赤色救援」活動を組織して政治的弾圧を受けた活動家の救援にたずさわったり、「人民法廷」の検事役をつとめ国家に有罪宣告をくだしたり、といった様々な急進的な運動に参加している。






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この時期、毛派への接近という中で、ベニイ・レヴィとの関係は深まり、老年となったサルトルを秘書としてサポートしながら最後となる『いまこそ、希望を』の対談を行っている。

しかし、この当時のレヴィの傲慢で不遜な態度にボーヴォワールや旧友たちから掲載拒否問題が勃発するも、サルトル自身の願いで全文掲載がなされた。サルトル曰く、「異質で異次元的で貴重な意見として存在する」。





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掲載された1か月後、1980年4月15日にサルトルは亡くなり、公に発表された文章としては、最後の言葉となった。


「とにかく、世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界のなかで死のうとしている老人の、静かな絶望さ。だが、まさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望のなかで死んでいくだろう。ただ、この希望、これを根拠付けなければね。説明を試みる必要がある。なぜ今日の世界、恐るべき世界が、歴史の長い発展の一契機にすぎないのかを、希望がつねに、革命と反乱の主要な力の一つであったということを。それから、わたしがどういうふうに、自分の未来観として、まだ希望を感じているのかを」








☆☆☆GGのつぶやき
サルトルの老年は、肉体的にも知的精度においても衰えが進行していたという。
高血圧、記憶障害、歯痛、尿失禁、尿道結石、催眠状態、めまい、眼底出血、軽い緑内障、糖尿、脳梗塞症状、歩行困難。
さらにこれに追い打ちをかけるように、1973年ごろから急速に視力が衰え、半失明状態になっていた。
そんな状況下のなかでも「いまこそ、希望を」と語った「最後の言葉」。
そして、サルトルが「実存主義とは何か」で語った言葉を肝に銘じよう。
「人間自体を究極目的と見なすようなことはしない。なぜなら、人間は創られていくものだからである。」




















































by my8686 | 2019-06-30 13:52 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランスの現象学・解釈学」へ

パリ・セーヌ川クルーズを回想するうちに、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した哲学的根源に興味が湧いていた。

昨日の「ベルクソン」に引き続き、「現象学・解釈学」を読み解いてみよう。




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現象学のフランスへの導入も実存主義の時代を準備していた。戦前にサルトルはレヴィナスの著作を通じて現象学を学んでいた。
現象学は、サルトル、メルロ=ポンティに影響を与えたが、二人が誰のどの時期のどの著作を読んで影響を受けたのかが両者の存在論の違いを生んでいる。

メルロ=ポンティは、フッサールの未完成稿を含めた後期思想を読んでいた。
フッサールの著作のうち『デカルト的省察』は刊行後すぐにレヴィナスらによってフランス語訳された。戦後にはリクールが『イデーン』を仏訳している。





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実存主義、構造主義の各思想に現象学は広く影響を及ぼし、現象学と関わりの強い思想家にはサルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、リクール、ミシェル・アンリ、ジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。

また現象学は解釈学と密接でありフランス解釈学の主導的人物はリクールである。





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その後20世紀終盤に現象学を神学と結び付ける潮流が目立つようになり、「フランス現象学の神学的転回」と呼ばれ賛否両論唱えられた。
神学的転回に属するとされる思想家にはレヴィナス、アンリ、ジャン・リュック・マリオン等が挙げられる。

理神論は、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説といってよい。
神は世界を超越する創造主であるが、神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされた。






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人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥された。
18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれている。

イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。

ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。
彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだといわる。






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カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んでいる。

理神論はカントの手によって一度は抹殺され、彼自身の手で復活させられたという「矛盾の巣」、負の矛盾ループに陥ってしまったのもフランスならではあろう。





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2019年現在のフランス全土に広がったデモ隊の不満は、燃料税問題から、賃金の値上げや年金の増加、減税の要求など多岐に発展している。
さらに高校生たちが大学入試の変更(現在の入試よりも選抜基準が上がることなど)を巡り、ジレ・ジョーンヌに感化されて独自のデモや暴動要因が広がっているという。

ただ今回、5月末に訪れた時のパリは、運よく小康状態を保っていたのか、特に大きなデモ騒動は見られなかった。







☆☆☆GGのつぶやき
そもそも、神を論証しようとする発想の源に興味が湧く。信ずることへの懐疑性がなぜ生まれたのか。
古今東西、宗教を政治や商売の道具にしようとする輩の誕生のなにものでもあるまい。
読み解いていけば、サルトルの「無神論的実存主義」に辿り着く。
パリ・セーヌ川クルーズから、とんでもない方向に、意識が蠢きはじめてしまったようである。





























































by my8686 | 2019-06-29 09:56 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「フランスの伝統から現代思想へ」

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像とともに脳裏に浮かぶのは、こうした伝統を形作ってきたその思想的背景である。

パリ・セーヌ川クルーズの中で世界遺産に登録された建築群を観ながら、パリが「花の都」と呼ばれる国際都市に発達した根源に興味が湧いていた。




紀元前300年ごろ、セーヌ川を行くケルト人パリシイ族の舟人が、舟の形をしたシテ島を見つけ上陸したことからそれは始まったとされる。




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フランスには、デカルトに端を発する大陸合理主義・啓蒙主義の哲学的伝統がある。
これらは、知識、信念、科学とは何か、合理的に知識を得る事とは、という認識論的な問題意識を有することから始まっている。

18世紀にはディドロやルソーらの啓蒙主義が隆盛し、イギリス経験論から影響を受けるが単純な経験主義は拒否された。
抽象的な定義から始まりこれを演繹するというドイツ哲学のような態度とも異なり、理性について歴史的に考察されていく。




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19世紀にオーギュスト・コントが大陸合理主義・啓蒙主義の伝統を引き継ぐ実証主義と社会学を創出した一方、メーヌ・ド・ビラン、ヴィクトル・クザン、フェリックス・ラヴェッソンらがスピリチュアリスム哲学を形成している。






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フランス現代思想においては実存主義、構造主義、ポスト構造主義という大きい華やかな流れが注目されるが、こうした流れとは別に19世紀から哲学的伝統を受け継いだ他方の堅実な流れ、エピステモロジーやフランス反省哲学があるということも見過ごすことはできない。

また、フランスは、国教会のあるイギリスとも宗教改革の中心となったドイツとは異なり、現代でもカトリックの思想的影響が見られ、カトリシズムとフランス・スピリチュアリスムの哲学的伝統の関係は複雑な構造を呈している。

こうしたカトリックの伝統との関係において、19世紀以降の新トマス主義の興隆も見て取らねばなるまい。






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旅のあとのいつもの悪癖にまかせ、しばらく「フランス現代思想」を読み解いていこう。


まずは、フランス哲学の伝統の実証主義とスピリチュアリスムを承継した「ベルクソン」から読み解いてみよう。

ベルクソンは、ハーバート・スペンサーの社会進化論から出発し、『物質と記憶』において、デカルト的コギトの想定によって発生する哲学上の難問心身問題に取り組み、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心と身体を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉え、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを論じている。

そのうえで、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年に『創造的進化』を発表。

これは、意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進め、生命の進化を押し進める根源的な力が「生の飛躍("élan vital")」であるとしたものである。
ここに、フランスの哲学的伝統の一つフランス・スピリチュアリスムと実証主義の結合を見ることができるとされる。

他方で、ベルクソンの生の哲学は、フランス実存主義の先駆ともいえ、ベルクソンの形而上学はドイツ圏のジンメル・リッケルト・ハイデガーらに影響を与えている。





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メルロ=ポンティの身体論は、ベルクソンの物質と表象の中間的存在としての「イマージュ("image")」という概念に大きく影響を受けており、ベルクソンなしには成立しなかったであろうとされる。

言語の問題に集中する構造主義思想にベルクソンの影響は見出だされ難いが、メルロ=ポンティとドゥルーズの哲学にはベルクソンの影響が決定的とされる。

ベルクソンの哲学は、二度の悲惨な惨禍をもたらした戦後の雰囲気の中で、サルトルらの実存主義が流行し大衆の共感を得るに伴い、その影響力を急速に減じていった。






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☆☆☆GGのつぶやき
フランス・パリのあの鉛色の空に包まれていると鬱的感覚に思考が進むのか。
哲学することの意味を哲学してしまう時間に浸るも一興。

























































by my8686 | 2019-06-28 11:33 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「パリ・セーヌ川クルーズ」

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像がある。
パリに到着した翌日、パリ市内観光のあとアルマ橋から出発する「バトー・ムッシュ」に乗船してセーヌ川クルーズを楽しんだ記憶が蘇る。


乗船は一般観光客と一緒になるため、桟橋でしばらく待つことになる。




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フランス語ではしゃぎまわる小さな少年たちの姿を微笑ましく眺める。
可愛い人形のような美形につい見とれてしまう。

5月30日とはいえ、パリの空はあいかわらずどんよりと鉛色に濁り、風も少し肌寒さを感じる。
約1時間あまりのクルーズだが、2階の展望席で観るなら、少し防寒対策をしておいた方が良い。




ランドマークのエッフェル塔、グラン・パレのガラス屋根を眺めながら、アレクサンドル三世橋を通過していく。




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この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設され、パリ市に寄贈されたものだという。

アレクサンドル3世橋はアールヌーヴォーの街灯、天使やニンフの像、ペーガソスなどが華麗な装飾が施されている。

4隅の17mの高さの柱の上にはそれぞれのテーマにそって女神像が建てられている。

・芸術(Emmanuel Frémietによる)には中世のフランス。
・農業(Gustave Michelによる)には近代のフランス。
・闘争(Pierre Granetによる)にはルネサンスのフランス。
・戦争(Clément Steinerによる)にはルイ14世のフランス。

帰国後、あらためてググってみる。




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左手にルーブル美術館、パリ市庁舎、サンス館などが見えてくる。






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ノートルダム大聖堂が近づいてくると、鋳鉄製のクラシックなアーチ橋が目に留まる。
「ドゥブル橋」だとあとで知る。






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修復中のノートルダム大聖堂を見上げる。

再建費用として寄付金の申し出が約10億ユーロ(約1230億円)に登ったことが話題となる。

崩壊した尖塔を再建する場合、再建用デザインを世界中の建築家から公募する計画が発表されている。
はたしていかなるデザインになるのか、大いに期待したい。

個人的には、伝統と革新こそフランスエスプリの神髄と思うのだが。




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「パリのセーヌ河岸」は、フランスの首都パリを流れるセーヌ川の川岸のうち、シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmほどが登録対象となる世界遺産である。

エッフェル塔やノートルダム大聖堂なども含まれている。





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紀元前300年ごろ、セーヌ川を行くケルト人パリシイ族の舟人が、舟の形をしたシテ島を見つけ上陸。
これが、後に、「花の都」と呼ばれる国際都市、パリの歴史の始まりとされる。

やがてシテ島には王宮や大聖堂が造られてパリの心臓部となり、周辺を取り巻くセーヌ川はその動脈としてパリの街を育み続けている。

確かに、このようなスケールと美しい世界的遺産を持つ風景は、日本にはないことに改めて気づかされる。






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パリのランドマークとなっている「エッフェル塔」。

エッフェル塔の建設までの険しい道のりについては「耳だこ」ものなのだが、やはり眼前に聳える姿を目にすると官能が不思議と疼く。


設計案が発表された直後から、多くの文化人や芸術家が建設に異を唱え、パリの街の景観を巡って激しい論争が繰り広げられたことはよく知られている。

「数多くの石造りの歴史的建造物が街を彩るパリ。その街の中心に巨大な鉄塔を建てるとは、歴史と芸術に対する冒涜以外のなにものでもない。」とまで罵倒されたとう。

建設の基礎工事が実際に始まってからも、批判は収まらず、特に有名なのは、1887年2月の『芸術家の抗議』だったという。
作家のモーツァルトや、オペラ座を設計した建設家のシャルル・ガルニエなど、多くの芸術家がこの抗議文に署名している。

そんな逆風を受けながらも、工事は着々と進み、結局、着工から約2年2ヶ月という早さでエッフェル塔は完成。
建設当時の高さは312.3m。世界一高い建造物に臨んだ勇気と執念には、改めて敬意を払いたい。






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☆☆☆GGのつぶやき
ビッグスケールに驚嘆する人間の性。
偉大なるものへの畏敬の念とは、どこから来るのか。
そんなことを感じさせられた欧州の旅でもあった。
















































by my8686 | 2019-06-27 18:16 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「パリの車窓」から

欧州の旅を終え、記憶の襞にひっかかる残像がある。

パリに到着した翌朝、専用バスでパリ市内観光に出かけた時の残像が蘇る。




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パリを訪れるのは久しぶりになる。ゆうに35年以上も前の昔のことになるのだが・・・。
しかし、車窓から観るパリの空はあいかわらずどんよりと鉛色だが、感性はバラ色だ。






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伝統と革新。そんなことを想いながらパリ市内を眺める。
新しい高層ビルが増えた感じはする。
パリの表と裏の顔が交錯して眼の前を通り過ぎる。
高架下のテント群は、難民の溜まり場になっているようだ。






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パリ市内に点在する古い彫刻が目を楽しませてくれる。
ルーブル美術館は、ピンポイントのツアーで来なければ、とてもじゃないが1日では廻れるスケールではない。





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パリ市内でちらほら見かける電動キックボード。
シェアリングらしいが、そのシステムが気にかかる。






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颯爽と乗りこなしている若いパリっ子はなぜか絵になる。
昨年の6月から導入されたという。

スマホアプリでGPS管理されているようだが、私物化されるケースも多々あるらしい。
通勤時の渋滞を回避するにはうってつけの乗り物だ。

運営しているのは、Limeという会社。
パリっ子ならば、シェアシステムの破綻はないのか、いらぬ心配が先にたつ。







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パリの観光ルートの定番「シャンゼリゼ道り」から「凱旋門」へ。
ナイキのショップもシンプルで様になっている。
凱旋門は、周辺を2回廻って車窓観光のみ。4度目となると感動は正直うすい。






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パリのランドマーク「エッフェル塔」。
建設当時のパリっ子の度肝を抜いた逸話は「耳だこ」だが、毎回胸を熱くするものがある。

今回初めての「セーヌ川クルーズ」。世界遺産登録の理由が理解できる。
パリを訪れたら一度は体験すべきおすすめコースである。






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☆☆☆GGのつぶやき
仕事がらみで35年以上も前に3度も訪れながら、観光目的でゆっくりと回ったのは今回が始めてである。
どんよりと曇った空気はあまり好きではないが、伝統と革新が同居する「パリのエスプリ」には官能が今も疼く。






























































by my8686 | 2019-06-26 22:22 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「スイスの陽光に官能が昂る」

欧州の旅を終え、官能の襞を震わせる残像がある。

鉛色したフランス・パリからTGVで陽光のスイス、ジュネーブに移動した日。





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ジュネーブの空の青さに官能が震えた。
アルプスを遠くに眺めながらレマン湖畔の町モントルーへ。






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一気に初夏を思わせる陽光に官能が震え始める。






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レマン湖畔のモントルーのレストランでランチ。
そこで飲んだアップルジュースの旨さが、いまだに舌の感触と共に残っている。






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シヨン城を眺めながらレマン湖の美しい輝きに官能の襞が萌えていく。






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ぶどう畑を横目に眺めながらテーシュへ。






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アルプスの峰々が間近に見え始める。
雪化粧した雄大なマッターホルンに官能が震え始める。






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テーシュから電車でツェルマットへ。

ツェルマット駅に降り立った瞬間、マッターホルンの雄大な姿に感動する。






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☆☆☆GGのつぶやき
今回の旅行は、天気に恵まれたことに感謝したい。
ベストシーズン中でもここまで晴れ渡ることは珍しいという。
レマン湖の輝き、そしてマッターホルンの神々しさ。
いまだに残像として官能の襞を振動させている。


















































by my8686 | 2019-06-25 12:20 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「スイスワイン・ハイダ」を読み解く

欧州の旅のあと、強く残像として脳裏に残るものがある。

そのひとつに、スイス・レマン湖の美しさとともに、ここで作られる「ハイダ」というスイスワインがある。






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スイス・レマン湖の車窓を眺めながら、聴くともなく添乗員の説明に耳を傾けていた時、左手に見えてきた石垣で区切られた段々畑こそ、標高650メートルのフィスパ川のほとりから1150メートルの山腹に広がるぶどう畑である。

標高差500メートルの間に折り重なるようにして耕作され、太陽の陽をたっぷりと受けていた。

ここで作られるワインが「ハイダ」であり、日本では聞きなれない名前なのである。






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スイス・ヴァリス州のフィスパーテルミネン村という、人口約1400人の小さな集落で、ヨーロッパでもっとも標高が高い地域で生産されるワインなのだという。

またの名をハイダドルフ村といい、ここで作られる希少なぶどうを用いた美酒は、ワイン農家たちの誇りでもあるという。





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「アルペンワインの真珠」ともいわれるハイダは、ソヴィニヨン・ブランやトラミネールから派生したぶどう品種からつくられ、村でのワイン作りの歴史はとても古く、古代ケルト人がすでにこの地でぶどうの栽培を行っていた記録も残っているほどだという。

ヴァリス州は雨が少なく、降水量は年間600ミリ程度。フェーン現象により秋になっても暖かいので、美味しいワインを作る条件が整っているのである。

ぶどう畑は、スイスで最も乾燥した地域の山の南斜面にあり、太陽に温められた段々畑の石垣には良質のぶどうを生み出す効果がたかい。

厳しい気候のため、ぶどうの実は大きくは育たず、収穫量は少ないが、小粒の果実には糖度が高く凝縮しているという。
アルコール度も高く、コシがあってドライな味わいと、フルーティな香りが素晴らしいワインになるという。

ほとんどがスイス国内のみで消費されるため、輸出はほとんどされないという。日本ではまず見ることはない。

「ハイダ」の名前は、古くは1586年の記録に残っており、山上のぶどう畑に水をやるために作られた小さな小川が「ハイドー」と名付けられていたそうである。






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それぞれの農家はあまり多くのぶどうの木を持っていなかったことから、一時はぶどう作りが衰退し、存続が危ぶまれたという。

1979年には、ザンクト・ヨーデルン・ケラーの協同組合が設立され、現在は村の約550人が組合に加入し、ぶどう畑の広さは、合計約45ヘクタール、東京ドーム約9.5個分の大きさとなっているという。

小さな段々畑には、農業機械を入れるスペースがないため、ぶどうの収穫は今も手作業。

標高差があるので、畑の位置によって収穫時期が異なり、山麓と山上では約5週間もの差があるという。それが醸造所に持ち込まれ、赤・白を合わせて年間約40万本のワインとなって出荷されている。

ザンクト・ヨーデルン・ケラーでは、白ワインの生産が約60%、そのうちの約4割がハイダになるという。




ちなみに、スイスの駅中ストアーで買い求めた「ハイダ」ワイン。

ネットで唯一ヒットした銘柄。「Fleur du Rhône Heida Switzerland Sauvignon Blanc」




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ティスティングは、やや軽め、タンニンやや控えめ、甘みは中間、酸味ややシャープ、ややフルーティ。

日本国内には入っていないため「貴重品」といえる。





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さらにふたたび、この美しいレマン湖を生涯愛したオードリーヘプバーンの生涯に思いをはせる。

彼女の映画をもう一度、じっくりと観直したいと思った。





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さらに、モントルーといえば、1967年から毎年7月に開催されている世界最大級のジャズ・フェスティバルを思い出す。

「お城のエヴァンス」として人気を博す、スイスのモントルー・ジャズ祭が生んだ初のジャズ・ライヴ・アルバム。
ジャック・ディジョネット参加のニュー・トリオで、エネルギッシュでスリリングな演奏を全編で繰り広げた1968年録音盤。

この欧州の旅のあと、繰り返し聴き込んでいる「お気に入りのアルバム」となっている。

ビル・エヴァンス生誕90周年記念公開「BILL EVANS TIME REMEMBERED」映画も観に行きたいと思った。



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☆☆☆GGのつぶやき
買い求めた3本の「ハイダ」。酸化せぬうちに飲まねばなるまい。
さて、これにあてる肴も吟味せねばなるまい。
この時期、初夏ならば、「鮎のコンフィ」か「しめサバ 菊花と大根の柚子こしょう風味の甘酢あえ」などが俺好みなのである。


























































by my8686 | 2019-06-24 18:49 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「聖ヤコブ教会の祭壇」を読み解く

欧州の旅のあと、強く残像に残るものがある。

そのひとつに、ローテンブルクの聖ヤコブ教会の2階で観た「最後の晩餐」のある祭壇である。




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ドイツ、ルネサンスの巨匠ティルマン・リーメンシュナイダーの傑作。

祭壇と対峙するというよりも、まずその高く聳えたつ祭壇の迫力に圧倒されてしまう。聖なる大樹のように天に向かってそそり立つ祭壇。
すべてリーメンシュナイダーが彫り出した木彫パーツが組あげられ、畏敬の念さえおぼえる「塔」となって聳えたつ。




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床に置かれた説明書には「von Tilman Riemenschneider 1501-1504」とある。




跪き黙祷して祈る家族連れの姿に「魂」を打たれてしまった。
その精神的尊厳の深さを改めて知ることのできた一瞬であった。


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裏面にも手を抜くことのない手彫りの痕を観る。



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側面からその木彫構造の詳細が読み取れる。



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最後の晩餐が行われた場所ははっきりしないが、西方教会では伝統的にエルサレムのシオンの丘の「ダビデの墓」(David's Tomb)にある建物の「上の部屋」(The Cenacle)であるとして保存されているという。



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「ルカによる福音書」22章9~12節には

(弟子の)二人が「どこに(過ぎ越しの食事を)準備いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「...すると(家の主人が)席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい。」二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過ぎ越しの食事を用意した。

とある。




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この「上の部屋」は「使徒言行録」1章13~14節にも登場し、聖霊降臨が起こった場所ともされている。






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彼ら(使徒たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。

東方教会のコプト正教会では聖マトフェイ修道院(Monastery of Saint Mark, Jerusalem)で最後の晩餐が行われたとしている。





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☆☆☆GGのつぶやき
「最後の晩餐」をどう解釈するかは、自己の精神世界が大いに影響する。
正教会では最後の晩餐とは呼ばず、機密制定の晩餐と呼ばれる。
「晩餐」はイエスの復活後にも弟子達とともに行われていたほか、現在に至るまで聖体礼儀として教会に継承されており、晩餐は「最後の」ものではなかったとする。
また、正教会では「機密制定の晩餐」のイコンをイコノスタシスの王門の上におく規定があるという。
「ユダ」とは誰なのか「ヨハネ」とは誰なのか。「ペトロ」のナイフはどれなのか。
読み解けば読み解くほど謎が深まる。
いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して理解することが肝要といえよう。











































by my8686 | 2019-06-23 11:10 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「聖ヤコブ教会の最後の晩餐」を読み解く

ローテンブルクの聖ヤコブ教会で観た「最後の晩餐」のある祭壇が今も強く残像として残る。

ドイツ、ルネサンスの巨匠ティルマン・リーメンシュナイダーの傑作とされる。



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日本では馴染みがないが、中世のドイツの彫刻のマイスターとしてヴュルツブルクに工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がける一方、1504年に市議会議員に選出されたのを皮切りに、1520年から1521年までに市長も務めたという人物でもある。

しかし、ドイツ農民戦争の際、元市長として戦争に加担したとして逮捕され、利き腕をへし折られて、再び彫刻家として活躍ができなくなり、そのため、晩年は失意のうちに没したという。





あらためて、リーメンシュナイダーの世界観を読み解いてみよう。



祭壇の上の方にある金色の十字架の中央に水晶がはめ込まれている。

イエス=キリストが十字架に磔にされたときに流した血のうちの3滴が、この水晶の容器に納められていると信じられている。




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「あなたたちの一人が私を売るであろう」という師の言葉に、驚いてざわめく弟子たち。

イエスを裏切るという約束で得た銀貨30枚が入っている袋を手に、思わず立ち上がるユダ。



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それでも慈愛に満ちた眼差しでユダを眺め、「私の身体だと思いなさい」といって、ひときれのパンを与えるイエス。




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その膝の上に突っ伏しているイエスの愛弟子ヨハネ。

弟子のリーダー格のペトロは胸を抱きしめ、心配そうに師の横顔を見詰めている。




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その左には大きな頭巾をかぶった大ヤコブがいて、既に自らの殉教とあまたの巡礼の守護聖人になる運命を予見しているかのように、遠いかなたに目をやっている。

イエスの前には小ヤコブがいて、静かな決意を秘めた面持ちで、片やイエスを象徴する卓上の小羊を、片やこの教会の床を指し示している。



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祭壇の左扉は「イエスのエルサレム入城」の浮彫である。



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殺されるのを覚悟の上で、ロバに乗ってエルサレムの城門へ向かうイエス。その後に続く弟子たち。

民衆はイエスに望みをかけ、上衣を脱いで路上に敷き詰め、歓呼して迎えている。







祭壇の右扉は「ゲッセマネの園」の浮彫である。




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最期の時が近付いたことを知り、苦しみにもだえながら神に祈るイエス。

「目をさましていてくれ」とイエスから言われたのに、またしても眠りこんでしまった弟子たち。向こうからはユダに先導されて大祭司の手下たちがイエスを捕えにやってくる。

イエスの処刑に立ち会ったローマの兵士は、ローマ皇帝に反逆しユダヤ人の王になろうとしたという罪状が無実であることを知っていたので、槍でイエスの右わきを突き、出血多量で早く死ねるようにしてやったという。
また、イエスに心を寄せるものがその血を壺に受けるのを黙認したという。


これが「聖血」で、「聖血」は後にビザンチン皇帝の所有に帰し、西欧各地へもほんの二、三滴ずつ分け与えられたと信じられている。

「神の子」の血で、凝固もせず腐敗もしなかったという寓話めいた話ではある。










☆☆☆GGのつぶやき
イエスにまつわる不可思議な出来事、原理的に矛盾することは、すべて「奇跡」とされる。
フッサールの「超越した存在ではないのかという先構成論」的概念とでもいえよう。











































by my8686 | 2019-06-22 16:49 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)

旅残像「聖血」を読み解く

ローテンブルクで観た窓枠の彫刻の影に不思議な「宗教めいた匂い」を感じる。




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欧州の旅を終え、燻るようにして感性の襞に棘のように残る言葉がある。


「聖血」


ローマ‐カトリック教で、イエス‐キリストが、十字架上で流した血。また、聖餐式で、その血になぞらえて用いる葡萄酒を表す言葉とされる。





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「イエスの血」の力とはいったい何なのか。あらためて読み解いてみよう。




クリスチャン信仰の核心は「イエスの十字架」とそこで「流された血」にある。

旧約聖書では、エジプト王のパロがへブル人を奴隷として酷使していたとき、神は彼らを解放することを企図した。
そのためにモーセを起こし、パロと対決させたが、パロは頑としてこれを拒否した。

そこで神は裁きとしてエジプトに「災い」という「罰」を与えたもうた。
しかし、家の門に子羊の血を塗った家にいる人々だけは、その災いから逃れることができたという。

また神の幕屋において奉仕する大祭司も、年に一回「子羊の血」を携えその中に入り、民の罪のための「とりなし」を執り行った。
旧約の大祭司は、新約におけるイエスを予表し、これらの「旧約の災い」はすべて「新約における十字架」で流され、イエスの御業と尊い血潮の意義と効力の「予型」とされた。


旧約聖書において、カインは妬みからその弟アベルを殺したが、「アベルの血が地の中から復讐を叫んでいる」という箇所がある。


すなわち「命」は血の中にあり、たとえ体が殺されても「血は叫ぶ」。
新約聖書においては、「アベルの血よりもさらにすぐれたことを語る注ぎかけの血」という言葉がある。

この血とは、「イエスの血」に他ならない。

イエスは、まことの大祭司として「天の至聖所」に自身の血を携えて入り、民たちの罪のために、「ただ一度の贖い」のみ業を成し遂げたとされる。






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現在の民たちにとって、「イエスの血」の意味するところは絶大であり、クリスチャンの存在・行為・わざ・奉仕など、あらゆる事はこの「血の覆い」の下でなされなければ、神の御前で全く意味を持たない。

また、血の覆いがなければ、霊的に無防備であり、敵であるサタンの攻撃に直接的に曝されることになる。
そして、この血は現在においても、神の前でまた敵の前で、民たちのために叫んでいる。

それらは、犠牲、裁き、清め、赦し、癒し、天国、神への接近、受容、勝利、敵の敗北、必要の満たし、解放、所有権、権威、律法主義よりの解放、契約、聖、完成、統治のために!

信仰によってこの血に寄り頼むとき、キリストが勝ち取ったこれらのすべてが、我々のものとなる!

現代の私たちにとっては、キリストが十字架で流された血によって罪が許されるという歴史的意義のみでなく、霊的な戦場において霊的戦闘に従事している者として、「イエスの血」はむしろ積極的な「武具」でもある。






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あらゆるサタンの否定的語りかけ、罪定めの声、誘惑の囁きに対して、私たちは「イエスの血」で霊の耳を覆ってしまう。
すると、敵の野蛮な声から遮断され、聖霊の安らかな静かな語りかけが聞こえるようになる。

あるいは、仕事や人間関係において精神的苦痛を感じるとき、私たちは自分の力でそれを克服しようと努力するのではない。そのような「もがき」への誘いはむしろサタンの「狡猾な罠」となる。

私たちはそのような場面でこそ「イエスの血」を宣言し、そのような精神的苦痛をもたらす対象と自分の間に「イエスの血」のカーテンを引く。
すると対象は現前に存在しながら、私たちの内的状態はその精神的苦痛の効力から遮断され、聖霊のもたらす平安と安息のうちに守られる。

これは経験した者がみな不思議に思う現象だが、自分がその場面から遮断され、敵の投げる火矢がこちらの心の中にまで届かないよう「イエスの血」が遮断してくれるのである。

このようにして、この世における霊的戦いにおける敵の攻撃から保護されるばかりでなく、もっと積極的にあらゆる新契約のすばらしい契約条項がすでに「イエスの血」によって批准されているのである。

だからこそ、私たちはこの血を根拠として神に要求することができる。なぜなら、「イエスの血」によって契約が神と私たちの間に締結されているからだ。

フッサールの「内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)」概念で例えれば、「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念と似ている。







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神やイデアのような何かを超越した事象、あるいは、神はそのような私たちの態度をむしろ喜び、「何でも願うものを求めるが良い、そうすれば与えられる」とイエスは約束する。

その約束に自身の血を注いで、さらに進んで契約され、この契約に基づいて、私たちは大胆に神と関係を持ち、大胆に神に求めることができる。

「イエスの血」は、敵に対する完全なる効力と、神に対する大胆さを担保する効力とを私たちに齎している。

それは単に2千年前の歴史的事実であるばかりでなく、現代の我々に対しても「リアルな霊的効力」を及ぼしている。
フッサールの「先所与性」という概念にもあらわれる。

まさに「イエスの血」は私たちのために、敵に対して、また神に対して、叫んでくださるのである。

これらは、フッサールの「超越した存在ではないのかという先構成論的概念」、人がそのように感じたという「初源的な事実性」を利用しているとも考えられるのであるが。

知覚におけるこの「不可疑的な感覚体験」を「絶望的に比喩した御伽噺」にも聴こえてくる。






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☆☆☆GGのつぶやき
神聖なる「イエスの血」の意味を知るには、やはり旧約及び新約の「聖書」を読み解くことが求められる。
しかし、どこまで読み込んでも理解できぬ現実にぶち当たる。
イエスが死に際で「完了した」と語った意味。それはイエスが「永遠の贖いを成し遂げられた」事を指しているというのだが。
今の中東戦争の緊迫状況をはたしてどう解釈すべきなのか。これを、迂闊に「神の裁き」と言ってしまえば、新興宗教の「やり口」となんら変わらなくなるのである。
















































by my8686 | 2019-06-21 21:21 | 度々の旅 | Trackback | Comments(0)