都市的リゾームとして読めるイタリアの新しい建築を読み解くうちに気になったのが、レンゾ・ピアノの“リゾーム的転回”である。
巨大な象徴建築の時代を終え、都市の繊維にそっと入り込み、点と点を結び、都市の“流れ”を変える方向へと確実にシフトしている。
彼のここ10〜15年の“分散的・軽量的・ネットワーク型”のプロジェクト群を読み取いてみよう。
■ レンゾ・ピアノの“リゾーム的転回”の特徴
1. 巨大建築から“都市の縫合”へ
初期のポンピドゥー・センターのような強烈なアイコン性から、近年は都市の裂け目・境界・余白を縫い合わせる方向へ。
・ジェノヴァ旧港再生
港・街・丘陵をつなぐ複数の動線をつくり、都市の断片を接続する。 → まさにリゾーム的な“水平のネットワーク”。
・パリのセーヌ川沿いの小規模介入
巨大建築ではなく、都市の“ほつれ”を丁寧に編み直す。
2. “軽さ”と“可変性”を重視する建築
リゾームは固定的な中心を持たない。ピアノの近年の建築も、軽量・可変・透過的な構造が多い。
地域医療センター群(RPBW:Renzo Piano Building Workshop)
小さく、水平で、地域に点在する建築。 → 都市の“根茎”として機能するノード。
・Emergency Children’s Surgical Hospital(ウガンダ)
自然光・通風・庭園を中心に据えた“治癒の村”
・Centro de Protonterapia(イタリア)
高度医療と地域性を両立する“開かれた医療キャンパス”
・Kimbondo Pediatric Hospital(コンゴ)
地域の生活圏と医療を接続する“パビリオン型医療”
・その他、イタリア各地の地域医療センター計画
小規模・分散型・地域密着型の医療モデル
いずれも、医療を都市の生態系に組み込むという共通思想を持つ。
※巨大病院ではなく、地域の生活圏に溶け込み、医療を“都市の生態系”の一部として再編するというピアノ晩年の思想が最も明確に表れた領域。
- 文化施設の増築・改修プロジェクト
既存構造に寄り添い、横から接続し、都市の意味を変える。
既存建築を、都市のリゾームに接続し直すための“静かな変質プロジェクト”
•壊さない
•目立たない
•中心を作らない
•都市の流れを増殖させる
•建築を生態系の器官に変える
これが、ピアノの“化(変質)施設”の本質である。
●ポンピドゥー・センター(パリ)改修
•外部エスカレーターの更新
•透明性の強化
•広場との関係を再調整
→ 建物を“都市の呼吸器官”として再構築。
● モルガン・ライブラリー(ニューヨーク)増築
•3つの歴史建築を“軽いガラスのアトリウム”で接続
→ 都市の中に“新しい回路”を挿入する典型例。
● ハーバード大学美術館(ケンブリッジ)改修
•光の導入と動線の再編
•歴史建築を壊さずに“内部の流れ”だけを刷新
→ ピアノの“内科的建築手術”の代表。
● ジェノヴァ水族館の増築
•既存施設を海と都市の流れに再接続
→ 都市生態系の一部として再編。
3.“都市生態系”としての建築
ピアノは晩年に近づくほど、建築を都市の生態的循環の一部として扱うようになっている。
- 緑化・風・光・水の流れを都市スケールで扱う
- 建築を“環境の調停者”として配置する
- 都市の複数のレイヤー(交通・歴史・地形・文化)を横断的に接続する
これはデレーズ=ガタリ的なリゾームの思想と非常に親和性が高い。
ピアノ晩年の建築が示す「都市生態系としての建築」は、都市を単一の中心やヒエラルキーで統御するのではなく、複数の流れ(風・光・水・歴史・文化)が横断的に接続され続ける“開いた生成”として扱う姿勢にある。これはデレーズ=ガタリのリゾーム論――中心を持たず、どこからでも接続し、増殖し、逸脱し続ける構造――と深く共鳴する。
一方、現在の米国によるイランへの攻撃準備や軍事的緊張の高まりは、中心化・境界化・分断の論理が極限まで強化されている状況といえる。米国は大規模な軍備増強を進め、イランへの圧力を強めており、地域全体が新たな衝突の危機に晒されている 。また、米国政府はイランに対し「時間切れ」を警告し、対立の構図をさらに固定化している 。
ピアノ的なリゾーム都市は、対立する要素を“接続”し、都市の流れを調停することで生態系としての共存を可能にする。しかし米国の対イラン政策は、接続ではなく“切断”を強化し、複雑な地域生態系を単純な敵対構造へと還元してしまう。リゾーム的建築が示すのは、分断を深める世界に対し、中心なき接続と調停による別の倫理があり得るということである。
4. “中心を作らない”という倫理
ピアノはしばしば「建築は都市の主役ではなく、都市の一部であるべき」と語る。
この姿勢は、リゾームの反ヒエラルキー性と響き合う。
- 主役性を拒否する
- 都市の流れに寄り添う
- 既存の文脈に“接続”することで新しい意味を生む
レンゾ・ピアノが晩年に強調する「中心を作らない」という倫理は、都市を単一の核で支配するのではなく、複数の流れが共存し続ける開かれた場として扱う姿勢に根ざしている。建築は主役ではなく、都市の文脈に寄り添い、既存の流れに接続することで新しい意味を生む。この態度は、ドゥルーズ=ガタリのリゾーム的思考――反ヒエラルキー、反中心化、横断的接続――と深く共鳴する。
一方、米国がイランとの緊張を高め、軍事的圧力を強める状況は、中心化と境界化の論理が前面化した状態といえる。国家が単一の中心から敵を定義し、力で秩序を再構築しようとする構図は、都市を“ひとつの中心”で統御しようとする旧来のモデルに近い。
ピアノの倫理はその対極にあり、対立を強化するのではなく、異質なもの同士が接続される余白をつくり、複数の流れが共存する環境を育てる方向に向かう。分断が中心化によって固定化される世界に対し、ピアノの建築は“中心なき調停”という別の倫理の可能性を示している。
5. 建築を「未完のプロセス」として都市に開く態度 (=非完結性・開放性・都市への委譲)
建築を「未完のプロセス」として都市に委ねるというピアノ晩年の態度は、ドゥルーズ=ガタリのリゾーム論に最も近い地点に位置する。
そこでは建築はもはや閉じた作品ではなく、都市という生成変化の場に接続され続ける“開いた機械”となる。
リゾームが中心も階層も持たず、どこからでも伸び、どこへでも接続し、常に変化し続けるように、ピアノの建築もまた、都市の風・光・人流・歴史・地形といった異質なレイヤーを横断しながら、固定的な意味を拒否し、都市の側に変化の主導権を委ねる。
ここで建築家は作者ではなく、接続の条件を整える“触媒”へと変わる。
建築は完成を目指すのではなく、都市の生態系の中で増殖し、逸脱し、更新され続けるプロセスそのものとなる。
これは建築を「作品」から「生成」へと転回させる、ドゥルーズ的な倫理である。
フランス現代哲学の視点から読むなら、ピアノ晩年の「未完のプロセスとしての建築」は、ドゥルーズ=ガタリのリゾーム論だけでなく、フーコー、ラトゥール、ナンシーらが提示した「開かれた存在論」と深く共鳴する。建築はもはや主体の表現ではなく、都市という複数性の場に埋め込まれた関係の編成体となる。
フーコー的に言えば、建築は権力の中心を形成するのではなく、都市の微細な力学を調整する“装置(dispositif)”へと変質する。
ラトゥールのアクターネットワーク論から見れば、建築は人間・風・光・歴史・地形といった異質なアクターを接続し続ける媒介者であり、固定的な意味を持たない。
ナンシーの「共存在」の思想に照らせば、建築は都市の中で他者と共に生成し続ける“開いた縁”として働く。
こうして建築は作品ではなく、都市の生態系の中で更新され続ける生成のプロセスとして理解される。
memo
ミシェル・フーコー
権力や知が「中心」から発生するのではなく、社会のあらゆる場に散在し、人々の行為や思考を形づくる分散的な力のネットワークとして働くことを明らかにした思想家。
監獄・病院・学校などの制度を分析し、近代社会が人間を“規律化しながら生産する”仕組みを示した。
主体は自律的に存在するのではなく、権力=知の布置の中で生成されるという点が彼の核心である。
ブルーノ・ラトゥール
近代が前提としてきた「自然/社会」「主体/客体」「人間/非人間」といった二項対立を根本から問い直し、世界を異質な存在同士が結びつき続けるネットワークとして捉えた思想家。
彼のアクターネットワーク理論(ANT)では、人間だけでなく、建物・技術・微生物・制度・文書など、あらゆるものが等価な“アクター”として行為し、世界を構成する。
社会とは固定的な構造ではなく、アクター同士の連鎖的な接続によって絶えず生成される動的な編成体である。
科学も客観的真理の発見ではなく、ネットワークの構築過程として理解される。
ラトゥールは、世界を中心や本質ではなく関係・媒介・生成として捉える視点を提示し、政治・科学・環境問題の理解を大きく転換させた。
ジャン=リュック・ナンシー
「存在とは単独で完結するものではなく、つねに他者とのあいだで開かれ続ける」という共存在(être-avec)の哲学を中心に据えた思想家。
彼にとって世界は、固有の本質や中心を持つ閉じた体系ではなく、無数の存在が互いに触れ合い、すれ違い、影響し合うことで立ち上がる関係の網目として理解される。
存在は“内側”に本質を持つのではなく、他者との接触によって絶えず生成される“開かれた縁”であり、共同体もまた同質性や統一性ではなく、差異が共にあることによって成立する。
ナンシーは、近代的主体や共同体の中心化を批判し、世界を分有・接続・共振として捉える新しい存在論を提示した。
この3人の関係性
フーコー、ラトゥール、ナンシーの三者は異なる領域から出発しながら、「中心なき世界をどう記述するか」という一点で深く連なっている。
フーコーは権力を主体の外側にある構造ではなく、社会の微細な実践に浸透する分散的な力のネットワークとして捉えた。
権力は中心から発されるのではなく、関係の中で生成され続ける。
ラトゥールはこの視点をさらに押し広げ、人間・物質・制度・技術が等価なアクターとして結びつくアクターネットワークを提示した。
世界は固定的な構造ではなく、異質な存在が接続され続ける動的な編成体として理解される。
ナンシーは「共存在」という概念を通じ、存在そのものが他者との開かれた関係性の網目として立ち現れると論じた。存在は単独ではなく、常に他者との“あいだ”で生成する。
三者を貫くのは、中心・本質・主体といった近代的枠組みを解体し、世界を関係・接続・共存のプロセスとして捉える思想である。
レンゾ・ピアノのリゾーム的建築を、フーコー/ドゥルーズ/ラトゥール/ナンシーの思想と接続すると
都市が人類を救う条件はきわめて明確になる。
フーコーが示したように、都市は中心から支配されるのではなく、無数の実践が交差する分散的な力の場である。
ドゥルーズはその場を、固定的な秩序ではなく、異質な流れが接続し続ける生成のリゾームとして捉えた。
ラトゥールはさらに、人間・建築・インフラ・自然が等価なアクターとして関係を結ぶ都市ネットワークとして世界を再構成する。
ナンシーは都市を、差異を抱えたまま共に存在する共存在の場として読み替える。
ピアノの建築はこれらの思想を空間的に具現化し、都市を中心化ではなく接続と調停のプロセスへと転換する。
都市が人類を救う条件とは、都市そのものが“開かれた関係の生態系”として機能することである。
☆☆☆GGのつぶやき
レンゾ・ピアノの“根茎的”都市観は、中心をつくらず、複数の流れを横断的につなぎ直すという思想に貫かれている。イタリアの若い建築家たちがこの姿勢を受け継ぎ、都市を単一の核ではなく、多様な回路が増殖する生態系として再編し始めている点は象徴的だ。興味深いのは、この視点が米国の深い分断状況と対照的であることだ。米国の都市はしばしば“中心の奪い合い”や“境界の強化”によって空間的にも社会的にも断裂を深めてきた。一方、ピアノ的なリゾーム都市は、中心を設定せず、異質なもの同士が接続される余白をつくることで、対立ではなく“共存の回路”を生み出す。分断が固定化される社会に対し、ピアノの建築は、都市を開かれた生成の場として再構築する可能性を示している。